壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

秘密の出会い

2008年07月28日 21時56分37秒 | Weblog
      鹿 柴(ろくさい)    王 維
   空 山 不 見 人    空山人を見ず
   但 聞 人 語 響    但だ人語の響を聞く
   返 景 入 深 林    返景深林に入り
   復 照 青 苔 上    復た照らす青苔の上

   シーンとした山に、人の姿が見えない。
   ただ、人のことばの響だけが聞こえる。
   夕日の光が、深い林の中に差し込んできて、
   木々の根もとの苔を、青々と照らし出す。

 役人になった王維(おうい)は、官僚生活の合間に心を休める別荘を、都の南、藍田山(らんでんさん)の麓に求めた。
 そこは、初唐の詩人・宋之問(そうしもん)の所有していたものであった。山も森も谷川も湖もあり、その間にいくつも館が点在する広大な別荘である。
 王維はここで、気の合った友人たちと閑適の暮らしを楽しんだ。こういった生活を「半官半隠」(半分官吏で半分隠者)という。

 鹿柴は、王維の広い別荘の中での、自適の生活のひとこまを詠じた詩である。
 前半二句は、静寂さを強調する。その工夫は、人の姿は見えないが、どこからか人の声だけが聞こえてくる、といった何気ない表現にある。
 つまり、何も物音がしないというよりも、わずかに声だけが聞こえるという方が、いかにも深閑とした様子を際立たせるのである。
 芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は、この手法を取り入れたものであろう。

 この詩は、後半二句がすばらしい。
 夕方になると、太陽の光は低い所から斜めに照らす。だから、深い林の中にも光が入り込んでくるのである。真上から照らすときは、深林に光は入らない。
 ふだんは、日の光に照らされることのない青苔(せいたい)が、その斜めの夕日に照らし出されるわけである。
 シーンとした深林、そこで残照が偶然に見せた、束の間の美的現象である。
 間もなく日が沈めば、深林は闇に包まれてしまう。
 いわばこの詩は、「夕日と苔の秘密の出会い」をとらえたもので、夕日の赤と苔の緑が印象的である。王維の画家としての才能が光る情景ともいえよう。
 わずか二十字の中で、人の知らぬあやしい世界を描き出している。

 よく「俳句は十七文字の文学」などというが、正しくないと思う。すべて仮名で書けば、十七文字であるが、漢字かな交じりで表記するのがふつうである。
 したがって変人は、「十七文字」ではなく「十七音」といっている。

 話は横道にそれたが、八ヶ岳のよく見える所に、コレクションの展示室と収蔵庫、それに150号の絵が描けるアトリエを含めた別荘を建てるのが夢であった。
 若手の画家さんに、自由に使ってもらえる空間を提供したかったのだ。
 だが、予定外の早期退職で、すべては狂ってしまった。
 「夢は必ず実現する」というが、「実現したら夢でなくなる」というのも真である。
 富士には月見草がよく似合う、と言われるように、八ヶ岳にはアトリエがよく似合う、と思うのだが、いかがであろう。


      宙に浮く狭庭と見れば月見草     季 己