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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

花火

2008年07月16日 21時50分14秒 | Weblog
 七月下旬から八月上旬にかけて、各地の大きな川で大花火を打ち上げる行事を、川開きという。
 なかでも、東京両国の川開きは享保十八年(1733)からのもので、特に著名である。隅田川の両国橋上下流で、大花火を打ち上げるのだが、混乱を恐れて、昭和三十七年以降一時中断された。両岸の料理屋では桟敷を設けて人を集め、見物船などが密集して雑踏したという。
 昭和五十三年(1978)に、「第1回 隅田川花火大会」として再開された。
 今年の「第31回 隅田川花火大会」は、7月26日(土)に開催され、2万発の大花火が打ち上げられる予定である。全国の花火業者が、その技術を競い合う花火コンクールも同時に行なわれ、その壮観さは、それはそれは素晴らしい眺めである。

        一文の花火も玉屋玉屋かな     一 茶

 さすがに一茶の眼は、この小さな子どもたちの、夏の夜の楽しみを見逃してはいない。「一文(いちもん)の花火」というのは、ごくごく安い、線香花火であろうか。
 細い藺草の先に、鯰の髭ほどの黒い火薬をつけたあの線香花火が、パッパッと思わぬところまで、落葉松の葉のような火花を威勢よく吹き出している間は、それがたとい、五秒・十秒の短い間でも、花火を手に持った子どもには、心豊かで得意満面な瞬間なのである。
 線香花火は終りに近づくと、やはり打ち上げ花火と同じように、流れ星にでも似た火を、ツーイ・ツーイと尾を曳いてみせる。こんな小さな花火でも、やはり子ども心に「玉屋ーッ」と声をかけたくなるものなのだろう。
 一茶はやはり、小さな者、弱い者の味方なのだ。
 いまは、弱い者をだまして、大金を振込ませたり、高齢者の微々たる年金から、否応もなく保険料を引き落とすという、なんと酷い世の中なのであろう。
 花火のように、パッと咲いたらパッと散れ、ということなのか?

 伊坂幸太郎の人気作『ゴールデンスランバー』でも、花火は、重要な役割を果たしている。
  「街の複数箇所で、ぱしゅっと軽やかな発射音がする。ぱしゅっ、ぱしゅ
  っ、ぱしゅっと少しずつずれつつも、ほぼ同時だ。甲高い笛のように、長
  い音がし、そして暗い空に、光が高々と一五〇メートルほど昇り、迫力の
  ある大きな爆発音を発散させたかと思うと、空一面に、玉に詰められた火
  薬の星たちが巨大な花となり、飛び散る。
   直径一五〇メートルの同心円状に、光が炸裂する。
   ビルの背景に菊の形に光が広がる。こんな市街地で、花火が上がること
  はないから、建物自体が光線を発しているような奇妙な光景に見える。夜
  がさっと青褪めたかのように薄くなり、街中が急に明るくなった。花火の
  雫が長い長い余韻となって、地上に落ちてくる。炭酸がはじけるような、
  あられが降るような、心地良い響きが尾を引く。
   警察官と大男がそれをぼんやりと見上げている。樋口晴子は駆け寄り、
  上空を見上げたままの大男の股間を思い切り、蹴り上げる。」
         (伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』P478~P479)

 伊坂さんは、これを書くに当たり、仙台市の芳賀火工さんに取材していることを謝辞で述べているが、この芳賀火工さんのホームページ『煙火の花道』が美しく面白い。花火に関するデパートである。
 『ゴールデンスランバー』ともども、一読をおすすめする。

 花火⇒伊坂幸太郎とくれば、伊坂さんの父祖の地、諏訪湖を書かねばなるまい。
 その「諏訪湖祭湖上花火大会」は、8月15日(金)、午後7時から始まる予定。
 ことし第60回を迎えた「諏訪湖祭湖上花火大会」は、打上数、規模ともに全国屈指の花火大会。湖上ならではの水上スターマインや、全長2kmのナイヤガラなど、4万発余りを打ち上げる。
 四方を山に囲まれた諏訪湖から打ち上がるため、その音は山に反響し、身体の芯まで響き迫力満点。今年も二尺玉を打ち上げる予定という。
 また、夏の諏訪湖は毎日が花火で、7月25日(金)から9月5日(金)まで連夜、800発の花火が夏の夜空を彩る。
 グッズも、手拭い・巾着・リュックの3点セットがお得で、バラで買うより400円安い2500円。

 諏訪湖の花火というと、日本画家・花岡哲象先生の作品が忘れられない。
 №541「華火」(35号)、№561「華火」(30号)、№562「双華」(30号)の三作品のどれも素晴らしいのだが、一点だけといわれたら、№561の「華火」を推す。
 先立つものと飾る場所さえあれば、即、購入したい作品である。
 先生のホームページでぜひ、その素晴らしさをお確かめいただきたい。


      絨毯に乗ってまっつぐ夏の月     季 己

 ※まっつぐ=“まっすぐ”の江戸ことば。

夕涼み

2008年07月15日 21時59分07秒 | Weblog
 夏の夜の楽しみの一つに、夕涼みのひと時がある。特に、関西では、夕凪の、風ひとつない蒸し暑さが、夏の夜を、とても家の中では過ごせないものにしている。

        夕すヾみ糺(ただす)の岸や崩るらむ     暁 台

 京都の人々が、家の中を空にして、賀茂川の土手へ涼みに出る。その人だかりの多さを詠んだ暁台(きょうたい)の句は、決して大げさなことではない。
 ただし、クーラーの普及した昨今では、こんな納涼風景を見ることはない。
 けれども、自然の川風の心地よさは、また格別である。

 夏の季語の一つに「川床」がある。「川床」と書いて「ゆか」と読むが、「かわゆか」とも読む。また単に「床」と書くこともある。
 川床の発祥は、京都四条河原の夜涼という。
 江戸時代、六月七日から十八日にかけ、茶店や酒亭が、賀茂川の河原に桟敷を設けて料理をもてなした。ちょうどこのころは祇園会の期間で、雪洞(ぼんぼり)の灯が川面に映え、賑わったという。
 今は期日に制限はなく、先斗町、木屋町の料亭が、座敷から川に向けて縁を張り出し、納涼床を造る。
 蒸し暑い京都ならではの風物だが、この趣向は各地に広がり、東京品川の釣宿でも、海に張り出した涼み床を見ることが出来る、と聞いてはいるが、実際に行ったことはない。
 「川床(ゆか)座敷」、「貴船川床(きぶねゆか)」も季語だが、貴船川床のほうが、賀茂川の川床よりも個人的には好きだ。

   「四条の河原涼みとて、夕月夜の頃より、有明け過ぐる頃まで、川中に
   床を並べて、夜もすがら酒を酌み涼を追うた賀茂川べりの床涼み」
 と、芭蕉もその筆に書き残している。
 「夏は河原の夕涼み」と、『祇園小唄』にあるのがそれである。

 大阪では、赤い灯・青い灯の道頓堀や、戎橋・心斎橋のそぞろ歩き、瀬戸内海や有明海では船を浮かべて夜釣りと洒落れるのも、釣好きにはたまらぬ夕涼みであろう。
 船でおすすめは、何といっても琵琶湖の、外国船によるナイトクルージングである。

 江戸の町でも、其角の句に、
        千人が手を欄干や橋すヾみ
 とあるように、両国橋や吾妻橋など、隅田川に架かる橋々には、大勢の涼み客が出たことであろう。


      相聞の句など隅田の夕涼み     季 己

桔梗

2008年07月14日 21時17分55秒 | Weblog
 昨年の秋、植木市で購入した源平カズラの花が満開である。
 つぎからつぎへと花が咲き継ぎ、一冬中、楽しませてくれた。
 春になり、花がなくなったので、かなり短く切り詰めた。
 数週間後、新芽が続々と出て、今、花の真っ盛りである。白いガクの中から伸び出た赤い花が、何ともいじらしく味わい深い。
 切り落とした枝のうち1本だけが根付き、葉も大きくなり、間もなく花芽を出すものと思われる。

 これに味をしめ、咲き終えた桔梗の花を切り詰め、9月にもう一度咲いてもらおうとしているのだが、はたしてどうなるか。
 “サンデー毎日”だと、いろいろなことをしてみたくなる。好奇心と同時に光輝心があれば、“濡れ落葉”とは全く無縁になれる。

 『萬葉集』巻八に、山上憶良の秋の野の花を詠める歌二首がある。

        秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
          かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 (其の一)

        萩の花 尾花くず花 なでしこの花
          女郎花また 藤袴 朝顔の花 (其の二)

 陰暦七月七日の夜、いわゆる“たなばた”の宮中の儀式の供え物として、七種の草花の選定が必要となり、山上憶良が七種を創案したのではないかと思われる。
 朝顔の花は、①いまのアサガオ、②ムクゲ、③ヒルガオ、④キキョウなど諸説あるが、キキョウ説が有力である。
 そのためでもなかろうが、秋の七草といえば、今は、萩・薄(尾花)・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗の七種をいう。

 いずれにしても、現代のわれわれは、栽培品種としてあまり身近な朝顔よりも、桔梗の野趣を秋の七草にふさわしく感じる。
 しかし、その桔梗、最近では、六月末の早咲きのものが多く、秋の草花という感じがしない。
 世の中、すべて促成栽培を喜ぶようになったからであろうか。
 それでも、ごく自然に近い条件で露地植えにした桔梗は、六月末から次々に咲き続けて、九月ごろまでは蕾を持つ、寿命の長いものである。
 しかも、どんなに暑い夏から咲いていようとも、あの品のよい紫の色と、さりげない釣鐘型の花の形を見ては、おのずから秋の気配を感じずにはいられない。

 俳句の世界では、桔梗を“キチコウ”と詠むこともあるが、植物学では“キチコウ”などという呼び方はない。
 園芸用としては、白色のものや紫と白の混じり合った二重咲きのものも見られる。
 山野の水辺や湿地に自生する沢桔梗、山地の岩桔梗は、桔梗という名をもっているものの、まったく別のものである。混同しないよう、注意したい。


      みちのくの日暮れ 紺屋の白桔梗     季 己

「犯罪予告」は犯罪!?

2008年07月13日 22時05分41秒 | Weblog
 朝刊の折込広告の中に、「広報 けいしちょう」第31号が入っていた。
 その4面、“ネットで警視庁”の欄に[「犯罪予告」は犯罪!?]と題した、考えさせられる記事が載っていた。

    『小学生が「殺人予告」で補導』
    『「爆破予告」の書き込みで中学生逮捕』
   今年報道されたニュースを見て驚いた人も多かったのではないでしょうか。

 という書き出しの記事だ。考えさせられたのは、つぎの部分。

   このような軽い気持ちであっても、例えば「××駅を爆破する」と書き込
  めば、その鉄道会社は被害を防ごうとして、列車を運休したり、駅や車両の
  点検をするでしょう。そのことによって、通常の業務が妨害されたことにな
  ります。
   また、特定の人物を名指しして「□□を殺す」と書き込めば、その人に不
  安感や恐怖感を与えたり、行動が制限されたりすることになるでしょう。
   こういった犯罪予告の書き込み行為は、内容によっては、業務妨害や脅迫
  などの犯罪に当たります。

 書いてあることは、よく分かるし、当然のことであろう。
 では何が問題かというと、「予告」ではなく「予言」であったらどうなのか、ということである。
 つまり、「犯罪予告」ではなく、「犯罪予言」だったら、犯罪に問われないのかということだ。具体的に言えば、こうだ。
 「○月中に、××駅が爆破されることを予言する」と書き込んだ場合、これは罪にならないのだろうか。
 「予告」ではなく「予言」ならば、おそらく犯罪に問われる可能性はゼロであろう。
 なぜなら、ブラジルの「的中率90%の予言者」・ジュセリーノ氏の公式サイトが、いまだ摘発されないのだから。
 もっとも的中率90%自体が怪しい。

 ジュセリーノ予言年表の、2008年4月以降に関する予言集を見てみると、
中国の四川大地震はもちろん、岩手・宮城内陸地震の予言もない。
 2008年6月 大阪でマグニチュード6.3の地震が発生します。これによ
         り、多くの問題が発生します。
      6月 台風が日本を直撃し、さまざまな大問題に発展します。
      6月 インドネシアのジャカルタでマグニチュード7.3の地震が
         発生します。
 など、ことごとくハズレ。
 もちろん、外れたほうがいいに決まっている。だから許してしまうのだろうか。
 的中率90%は、どういう計算をしているのだろうか。ある意味、消費期限改竄よりひどいのではないか。

 中国で大問題になったのが、つぎの項目である。

 2008年9月13日にマグニチュード9.1の巨大地震が中国を直撃し、百万
 人に達する死者を出す可能性があります。もし中国で地震が起こらない場合は、
 日本の名古屋でマグニチュード8.6の東海地震が発生する可能性があり、その
 場合、600名の死者と3万人の家屋が失われる可能性があります。

 これは“可能性があります”と、逃げ道を作っている。
 しかし、これを見て、不安感や恐怖感をおぼえたり、この日の行動を制限されたりする人が全くいない、と断言できるだろうか。現に中国では大騒ぎになり、関係省庁が、そのような可能性はない、との声明を出したほどなのだ。
 それとも特定の人物を名指ししていないので、罪に問われないのか。
 母は、新聞広告で、週刊誌のそのような予言の見出しを見ただけで、脅えてしまうのだ。これは脅えるほうが悪いのだろうか。

 東京に関するものでは、

 2008年7月  東京でマグニチュード6.5の地震が起きます。
 2010年5月  5月14日に東京でマグニチュード7.7の大地震があり、
          多大な被害が出ます。
 2010年9月  9月15日に東京でマグニチュード8.4の巨大地震が発生
          し、新たな関東大震災となります。

 これだけ世間の人々に、不安感や恐怖感を与えても、罪に問われず、英雄のようにテレビ出演し、いたずら半分で書き込んだ「予告」が犯罪になる。
 どう考えても、納得できない。
 早く、犯罪「予言」に対する対策を考えておかないと、大変なことになりますよ、と「予言」しておく。


      香水や銀座に多きツアー客     季 己  

団扇

2008年07月12日 22時00分14秒 | Weblog
 上半身、裸でいても汗が噴出してくる。パソコンも猛烈な熱さ。
 デジタル温度計を見たら、37.5度を表示している。
 今年最高の、この部屋の室温である。
 クーラーも扇風機もなく、使えば団扇であるが、団扇を使っていたら何にも出来ない。

 外出にはバッグに、ジャワ更紗の末広袋に入れた扇子を忍ばせている。
 自宅にいるときは、団扇の方が気軽に涼をとれる。団扇を手にすると、なんとなく心がくつろぐものである。
 本来は、竹の骨に紙を貼ったもので、楕円形がふつうであるが、方形や円形のものもある。
 絵団扇、絹団扇、白団扇、渋団扇、水団扇、古団扇など、みな夏の季語である。
 千葉県の房州団扇が有名であるが、岐阜・京都・丸亀など各地で団扇生産が盛んである。
 街頭で宣伝用に配られる団扇は、もっぱらプラ製品で味気なく、愛用するなら民芸品としてつくられた団扇がおすすめである。

        月に柄をさしたらばよき団扇かな     宗 鑑

 まん丸な月に柄(え)をつけたら、美しく大きなよい団扇になるだろうなあ、という気持ちであろう。
 暑くて寝つけないような夏の夜、空に照る満月を見上げながら、涼を呼ぶ団扇を想像してしまったのである。

 月を扇や団扇に見立てることは古くから行なわれ、たとえば、
        夏の夜の 光すヾしく すむ月を
          我が物顔に うちはとぞ見る (『夫木抄』)
 などは、この句と非常によく似ている。
 また、見立ての無邪気さからいえば、
        笠を着ば雨にも出でよ夜半の月 (『犬筑波集』)
        からかさやたヾ柄鏡のけさの雪 (『守武千句』)
 などの発句も同類だといえよう。

 現在ならば、子どもでもこれくらいの見立てはできそうに思われる単純な句であるが、俳諧独立期の素朴で、おおらかな詠みぶりを見るべきであろう。
 句中に、月の語があるが、団扇が季語で、夏ということになる。


     投げ首のパソコン将棋 渋団扇     季 己

直木賞候補辞退の謎

2008年07月11日 21時51分51秒 | Weblog
 どうして今頃、なんでいまさら……。
 「伊坂幸太郎さん  直木賞候補を事前辞退」(読売新聞)のことである。
 正確を期すため、読売新聞の切抜きを、そのまま引用させていただく。

    第139回直木賞(日本文学振興会主催)について、作家の伊坂幸太郎
   さんが人気作となっている自作『ゴールデンスランバー』(新潮社)を候
   補にすることを辞退していたことが8日までに分かった。
    今月15日に選考が行われる今回の直木賞では7月初めまでに候補6
   作が選ばれたが、伊坂さんは候補が決まる以前の4月に主催者と相談し
   辞退を決めたという。
    『ゴールデンスランバー』は、昨年11月の刊行で今年、本屋大賞、
   山本周五郎賞を相次いで受賞し部数は25万部。伊坂さんはこれまでに
   5度直木賞候補となったが受賞を逃している。伊坂さんは、「直木賞の
   影響力の大きさを考え、穏やかな気持ちで執筆したいとの思いから今回
   は遠慮させてもらった」と話している。(読売新聞)

 購読している関係で、読売新聞の記事を引用させていただいたが、聞くところによると、他の一般紙、スポーツ紙にも、同様の記事があったという。
 するとこの件は、共同通信社か時事通信社の配信であろう。おそらく共同通信社ではないかと思うが……。

  ① なぜ今頃、この時期に?
 『ゴールデンスランバー』は、上記の記事にもある通り、今年、「本屋大賞」、「山本周五郎賞」を受賞しており、もし「直木賞」を受賞すれば“三冠”となる。
 こうした話題性もあり、多くの読者から「なぜ、候補にもならないのだ」という疑問や苦情が、文芸春秋社や新聞社に殺到したものと思われる。
 そこで、共同通信社が、文芸春秋社に取材し得られた回答?が、上記の記事だと思う。
 しかし、この回答は明らかに文芸春秋社のミスである。
 殺到する読者からの問合せに対する“マニュアル”をそのまま、通信社の取材に対して回答してしまったのではないか。

  ② ナゾ、その1
 「伊坂さんは候補が決まる以前の4月に主催者と相談し辞退を決めたという」とあるが、これはおかしい。
 第139回直木賞は、平成20年度上半期の刊行ということで、昨年12月1日から今年の5月31日までに発行されたものが対象のはずである。
 『ゴールデンスランバー』は、昨年11月の刊行なので、前回の第138回の対象作品であり、今回、選考の対象とはなり得ない。
 したがって、4月に主催者と相談して云々は、主催者のでっち上げであろう。ただ、これが昨年の4月ということなら納得できる。

  ③ ナゾ、その2
 「直木賞の影響力の大きさを考え、穏やかな気持ちで執筆したいとの思いから今回は遠慮させてもらった」とあるが、奥歯に物が挟まったようで、全体として何が言いたいのかわからない。本当に伊坂さんの発言なのか疑わしい。
 また、「今回は遠慮させてもらった」もあり得ない。
 直木賞候補を事前辞退するということは、どんなに批判・中傷を受けようとも、甘んじて受けるという、命がけの覚悟が必要。「今回だけ」などと、伊坂さんは、口が腐っても言わぬ人間だ。
 「穏やかな気持ちで執筆したいとの思い」は、伊坂さんの偽らざる心境であるが、これは『ゴールデンスランバー』執筆前、あるいは執筆中の心境であり、この時点で腹をくくり、「事前辞退」を覚悟していたと思う。
 『ゴールデンスランバー』は、受賞を逃した5作をはるかに上回る出来で、直木賞を受賞できるとの確信を持てたからこそ、「事前辞退」を昨年秋頃までに申し出た、というのが真実ではなかろうか。

 伊坂幸太郎は、直木賞と決別したのだ。もう、伊坂幸太郎に直木賞はあり得ない。けれども、実力ははるかにそれを超えている。それで、いいではないか。
 旧作ではあるが、はなむけに一句。
      星なんか光らんでいいケルン積む     季 己
 直木賞は卒業。みんなで静かに見守り、応援しよう。
 
 ひた隠しにしていた「直木賞候補 事前辞退」が、はからずも通信社の取材で露見し、権威主義を振りかざしていた主催者の、あわてふためき様が眼に見えるようだ。できればもう少し伏せておく配慮が欲しかったが、遅かれ早かれ、いずれ分かること。
 これを、幸太郎さんを可愛がってくれた二人の大ママの配慮と思い、さらなる飛躍を望みたい。
 いいぞ、伊坂! わが道を行け幸太郎!

 7月8日は、奇しくも幸太郎さんの、母方の祖母(享年85歳)の葬儀の日であった。先月に、父方の祖母、白寿庵の大ママが、99歳で天寿を全うされた。幸太郎さんにはダブルパンチである。
 幸太郎さんには、大勢の読者という味方が応援している。
 悲しみを乗り越え、批難・中傷に負けず、書きたいものを書き続けていただきたい。
 近々、新聞連載が始まるようだが、非常に楽しみだ。伊坂幸太郎の新しい一面が見られることと思う。

 このブログをお読みいただき感謝します。このブログ以上に、伊坂幸太郎さんを応援してください。お願いします。


      梅雨晴間もぐら叩きを思ひをり     季 己

釣忍

2008年07月10日 21時59分11秒 | Weblog
 いろいろとある夏の風物の中でも、最も日本的な情緒を漂わせてくれるものに、釣忍がある。
 忍というのは、酒場の女の昔の名前ではなく、シノブ科のシダ植物で、山地に自生しているものである。
 褐色のもしゃもしゃとした毛を生やした根茎が、木の根や岩角に這っていて、その所々から鮮やかな緑の葉をひきだしている。
 この忍草の根茎を採ってきて、しばって軒に吊るすと、風に動いてモビールになる。したがって、釣忍は、吊忍とも書く。
 金魚玉・風鈴とともに、軒先の夏の景物である。

 今日も浅草寺に参ったが、境内には、鬼灯に混じってちらほら、釣忍の露店が出ていた。
 舟形に作ったもの、セッコクや折鶴蘭を混ぜたものなど、さまざまなデザインがあり、けっこう楽しめた。
 緑滴る葉を繁らせて、涼風を呼んでいる釣忍を見ていると、ふと、その根が掘り取られてきたであろう深い谷間の涼しさを、思い合わせてしまう。
 忍の葉が重なり合い繁り合っているさまは、深い谷に枝を差し交わしている松や楓の鬱蒼たる趣を髣髴させるものがある。
 釣忍は、何の手を加えなくても、丹精込めた盆栽と等しく、大自然の姿を小さく象徴して喜ぶ日本人の趣味にピッタリかなっている。

 植込みに水を打ったあと、夕べの窓辺の、葉末から滴のしたたり落ちる釣忍を眺め、寛いだ藍染の作務衣に、南部風鈴の音を聞くとき、たとい、軒と軒とがひしめきあっている下町住まいであっても、緑の山の渓谷に臨んだ温泉の宿の欄干に立つような、豊かで爽やかな気がするのである。

 菅田友子先生から、「うっとうしい日が続きますが、お変わりありませんか」と
「つゆくさ」の絵手紙をいただいた。


      絵手紙が来て風通る青すだれ     季 己        

ほおずき市

2008年07月09日 21時58分44秒 | Weblog
 東京・浅草の浅草寺で9日、恒例の「ほおずき市」が始まった。
 境内におよそ450の露店が並び、オレンジ色に熟したほおずきが、威勢のいい売り子の掛け声とともに、飛ぶようには売れていなかった。

 昔から、ほおずきの実が熟して紅く色づくときを、秋の始めとしていた。立秋を過ぎてようやくほおずきが目につくようになる。
 したがって、“ほおずき”は秋の季語で、7月9日・10日に開かれる“ほおずき市”は、夏の季語なのである。
 太陽暦の七月上旬では、ほおずきもまだ小さくて青いものしか見かけられない。
 (“ほおずき市”用のほおずきは、それ用に、特別に育てられたものであろう)
 八月の上旬、立秋の頃になってこそ、あちこちの夏祭りや縁日にも、紅いほおずきを売る店が立ち並んで、子どもたちの足を引きとめたものである。
 ほおずきの鈴生りになっているさまを見ると、鬼灯(ほおずき)とは、よく名付けたものと感心させられる。

       鬼灯は実も葉も殻も紅葉かな     芭 蕉
  「鬼灯というものは、こうしてつくづく眺めてみると、その実も葉も殻も
  同時にすっかり紅くなって、何ともおもしろいものだ」

 実も葉も殻も同時に紅葉するという発見が眼目で、その発見に興じたさまが、「実も葉も殻も」とたたみかけた口調によく出ている。

 「鬼灯」が秋の季語、「紅葉」も秋であるが、この句で中心にはたらくのは「鬼灯」である。したがってこの句の季語は、「鬼灯」と考えられる。
 「鬼灯」は夏秋のさかい、青い実をつけやがて紅くなる。同時に葉も、丸い実をおおう殻も紅葉する。
 ほおずきの実を、柔らかく揉みほぐして中の種子を抜き出し、カラになった袋を唇に挟んで吹き鳴らす遊びを、女の子は、よくしたものだった。
 「殻」は、顎の変化したもので、実を包んでいる袋のこと。
 鬼灯そのものの面白さを契機とした発想である。

 ほおずきを鳴らす遊びも、赤染衛門が著した『栄華物語』に、一条天皇の后、中宮彰子(しょうし)の美しさを讃えて、
 「御色白く美(うる)はしう、ほほづきなどを吹きふくらめて据ゑたらむやうにぞ見えさせ給ふ」
 と記しているところを見ると、ほおずきをふくらませて吹く遊びは、平安朝いやそれ以前からあったものと思われる。

        鬼灯市夕風のたつところかな     岸田稚魚

 稚魚師は、石田波郷の三羽烏の一人で、変人の俳句の師でもある。
 鬼灯市を詠んだ句で、この句を超えるものはない、と確信するほど、この句にしびれている。
 前述したが、鬼灯市は、7月9・10の両日、東京浅草の「観音様」の境内に立つ市で、鉢植えや、袋入りの鬼灯を売る露天が立ち並び、買って帰り煎じて飲むと、子どもの虫封じや女の癪に効くという。
 また、7月10日は観世音菩薩の結縁日「四万六千日」で、この日に参詣すれば、四万六千日分の功徳・ご利益があるといわれている。
 なぜ四万六千なのか。聞くところによると、米一升が四万六千粒なので、米に一生(一升)困らない、ということからきているらしい。
 
 浅草では昔は、雷除けの赤トウモロコシを売ったが、いつか茶筅にかわり、現在の「ほおずき市」にと移ってきた。
 「四万六千日」は、陰暦七月十日、「千日詣」といわれたものの後身である、と聞いている。


      鬼灯を揉むペンだこの尼僧かな     季 己

光明皇后

2008年07月08日 20時56分52秒 | Weblog
 暑中見舞いのかわりに、きょうは、光明皇后の「雪」の御歌をおとどけしよう。

                     光明皇后
       わが背子と 二人見ませば いくばくか
         この降る雪の うれしからまし (『萬葉集』巻八)

 光明皇后が、聖武天皇に奉られた御歌である。
 皇后は、藤原不比等の女で、神亀元年(724)二月に聖武天皇夫人となる。ついで、天平元年(729)八月に皇后とならせたまい、天平宝字四年(760)六月七日、陽暦のちょうど今頃、崩御せられた。御年六十。

 「まし」という助動詞は、現在の事実に反することを想像する、反実仮想とも呼ばれ、
 ①(とてもかなわぬことだが)もし…だったら…だろう。
 ②(実際はそうでないけれど)もし…だったら…しただろうに
 などの意となる。

   この美しく降った雪を、あいにくとわたしは一人で見ております。
   もし、わが背の君と二人して眺めることが叶いましたならば、
   どんなにかこの雪がうれしかったでしょうに。
   一人で見ているのが残念でございます。

 この歌は、天皇への思慕を手放しで表白しているものと、とっていいだろう。
 このように素直に、思いのまま、会話のままを伝えているのは、まことに不思議なほどである。
 特に、結びの「うれしからまし」のようなお言葉を、皇后のご生涯と照らし合わせつつ味わい得るということの幸せを、しみじみと感じる。

 法華滅罪之寺というよりは、尼門跡寺院、氷室御所といったほうが、ぴったりするのがこの法華寺である。
 いつ行っても、きちんと箒目のついている白砂。いちめんに畳を敷いた清潔な本堂。それに、尼さんの物腰が丁重で、礼儀正しいのには、こちらまで思わず知らず威儀を正さざるを得なくなる。
 門跡の人柄のあらわれもあろうが、この寺のもつ由緒ある歴史と、いまの本尊、十一面観音の均整の美しさも、われわれの心を正すのかもしれない。

 寺地は光明皇后の父、藤原不比等の邸で、皇后に伝えられ、天平十七年(745)にこの旧皇后宮が宮寺とされ、やがて法華寺と呼ばれるようになったものという。
 本尊の、国宝・十一面観音像は、平安初期の貞観彫刻の秀作といわれるが、観音菩薩の化身ともてはやされた光明皇后をモデルにして、天竺国のすぐれた彫刻家が製作した三躯の一つという伝説が生まれるのも当然であると思われる。
 天衣の端をわずかにつまんだ姿態といい、光背の替りに一本一本の蓮葉を配した構成といい、素人目にも造型の自由さがうれしい。

 法華寺には、光明皇后が、千人の困窮者を入れた風呂というものがある。その千人目に、ライ病患者の姿をしたアシュク仏があらわれ、皇后にその膿を吸いとらせた、という有名な話がある。いかに皇后が慈悲ぶかいかということを説明するのであろう。
 いまの風呂は、「唐風呂」といわれるもので、江戸時代の建物である。それでも光明皇后の伝説を偲ぶのをさまたげない。

 法華寺の仏さまは、いつから安産の守護仏になったものか、安産を祈る人々は、「御守犬」という小さくて可愛い犬形の御守をいただいて帰る。大・中・小の三種類があるのだが、いつ伺っても品切れ?状態で、入手困難な御守ナンバーワンではなかろうか。
 安産には全く無縁な変人も、奈良へ行くたびに立ち寄り、三種類そろえるのに数年かかっている。
 ここ数年、法華寺には行っていないので、今でも入手困難かどうかは定かではない。
 「御守犬」を尼僧の手から受けるのは、いささか面映ゆいが、尼僧のお手製の、この極小のものにさえ、願いを託する人間というものは、いまさらのようにあわれではある。
 そう書いている生涯独身の男は、もっとあわれか……。


      流れとは別のみづおと落し文     季 己 

2008年07月07日 21時54分19秒 | Weblog
 きょうも山沿いを中心に、雷が暴れまわったようだ。
 雷が鳴ると梅雨が明けるというが、一茶の
       正直に梅雨雷の一つかな
 は、このことを詠んだものであろう。「正直に」が、いかにも一茶らしく、また上手い。これで、梅雨が明けたことがわかるのだ。
 明日もまた、雷が暴れるという。何もかも「偽」だらけの日本、ことしは雷も正直をやめ、世間にあわせて「戯」ならぬ「偽」に徹するのだろうか。

 夏は雷のシーズンである。
 厚い積乱雲の下におおわれたとき、電光がきらめき、雷鳴が殷々ととどろきわたる。大粒の雨が、今しがたまで灼熱していた屋根瓦を打つ。男性的な、夏独特のいっときである。
 鬼神が太鼓を乱打しつつ、雲中を疾駆するという想像もうなづかれる。

 東京・浅草、浅草寺には、その名も「雷門」という立派な門があり、いつでも観光客でごったがえしている。
 門の横には、浅草名物「雷おこし」、雷門通りをはさんで斜め前には、からくり時計。毎正時に、三社祭や金龍の舞などのからくり人形が現れ、笛や太鼓の音で気分を盛り上げてくれる。
 西の空は、あやしい黒雲でおおわれてきたが、雨粒はまだ落ちてこない。

 狂言に、「雷」というのがある。主役のシテは雷で、脇役のアドは藪医者である。
 都から東(あずま)へ下った藪医者が、果てしもない武蔵野にさしかかると、一天にわかに掻き曇り、ピカピカガラガラドンと雷が落ちて来た。
 実はこの雷、しばらく病気であったのだが、久しぶりに出歩いたので、つい足元がふらつき、雲を踏み外して落ちたのであった。
 雷は、「腰の骨を打って痛くてたまらないので、療治をしてくれ」と、藪医者に頼み込む。
 雷の病気を中風と診断した藪医者は、雷能丹(らいのうたん)という気付け薬を飲ませ、針を打った。
 まもなく、すっきりとした雷は、空へ帰ろうとする。
 藪医者はあわてて「薬代を……」と請求すると、「あいにく今は持ち合わせがない。いずれ、一家眷属引き連れて御礼に参る」と言う。
 「それはとんでもない迷惑千万。そのかわり、今後は患者から薬代の取りはぐれがないように、また、照り降りともに尋常に、五穀豊穣、世間の景気がよくなるようにしておくれ」と頼んで別れた、という筋書きである。
 

      門前のからくり時計 雷激し     季 己

風鈴

2008年07月06日 21時52分53秒 | Weblog
 遅まきながら風鈴を吊るした。それも北窓の軒先に。

 かつては夏の風物詩であった風鈴は、今ではすっかり騒音あつかい。
 このあたりは下町なので、風鈴の音で苦情は来ないが、それでも気を使って南に吊るさず、北に吊るしているのである。
 釣鐘型の南部風鈴に、竹細工職人による竹籠をかぶせた、お気に入りの風鈴だ。本当は、姫路の伝統工芸である明珍火箸で作った風鈴が欲しいのだが、この世のものとも思えぬ音を出すものは、高価で貧乏人には手が出せない。
 
 いろいろな材質・音質・色彩・意匠のものがあるが、やはり句ごころをかき立てるのには、昔ながらの鐘銅(銅9・錫1の合金)製の韻きを聴きたいものだ。
 内に吊るされる“舌(ぜつ)”は古来、一文銭の憂世の遁れ場とされていた。

 風鈴は、鎌倉・室町時代にはすでに中国から伝わっていたが、江戸時代から釣忍とともに庶民に普及したという。
 昔は、風鈴売りは売り声をかけずに歩き、その音色で売るものとされていたが、今は、夜店、デパートの物産展以外では見かけなくなった。

 全国のいろいろな風鈴を見たい、聞きたい方におすすめしたいのが、西新井大師の境内で開かれる「風鈴祭」だ。
 ことしは、7月12日(土)から8月3日(日)まで、毎日午前10時より午後4時まで開かれ、全国各地の風鈴の展示販売がある。また、この会場でしか手に入らない「だるま風鈴」・「ぼたん風鈴」も人気があるので、ぜひ早めに行かれることをおすすめする。
 江戸風鈴、南部風鈴、備長炭風鈴、小田原風鈴、明珍火箸風鈴、釣鐘型風鈴、野菜型風鈴、動物型風鈴などなど、枚挙にいとまがない。

 風鈴のさわやかな音色が鳴り響く境内。
 梅雨のうっとうしさを吹き飛ばしてくれる“涼の音色”に、静かに耳を傾けるのも一興。

 風鈴を句にものすには、月並みに堕ちぬよう、一ひねりしなければならないが、ひねりすぎても、過ぎたるは何とかで、これまた難しい。
        風鈴に一声さはるつばめかな     也 有
 「一声さはる」が、作者得意のところと思われるが、変人は逆にそこがダメ、と考える。実感がなく、いかにも頭の中で作った句。
 安手な団扇の絵にでもありそうな月並みな光景。
 夕涼みと限らず、まだ暑い昼日中でも、ふと鳴る風鈴の音を耳にするときは、暑さもしばし忘れる心地がする。
        風鈴や花にはつらき風ながら     蕪 村
 これは蕪村とも思えぬ、思い過ごし。花が吹き散らされるほどの強い風には、風鈴も程よい音色を立てられるものではない。むしろ、
        業苦呼起す未明の風鈴は     石田波郷
 とか、
        風鈴やひとりに適ふ路地暮し     菖蒲あや
 のような、さり気なさが、風鈴にはふさわしいと思う。

 「鈴ノ鳴ルカ、風ノ鳴ルカ、風ニアラズ、鈴ニアラズ、我ガ心ノ鳴ルノミ」と、何かに記してあったが、風鈴の音色のよさの真髄を説き得たものと思う。
 いつの日にか、この“こころ”を一句にものしたいと念じているのだが、未だに詠めずにいる。おそらく、あの世に行っても詠めないのではなかろうか。


      後の世の音か明珍風鈴は     季 己

七夕まつり

2008年07月05日 21時58分05秒 | Weblog
 陰暦七月七日が、七夕まつりの日であるが、近頃ではほとんど太陽暦の七月七日、まだ梅雨の曇り空で行なわれている。

 天の川の西の岸に住む織女星と、東の岸に住む牽牛星とが、毎年七月七日の夜、カササギの架けた橋を渡って、年に一度の逢瀬を楽しむというロマンティックな空の伝説は、中国の遠い昔、周の初め頃に始まったものといわれている。

 織女星は、天帝の美しい娘であった。
 天帝は、かわいい娘のために、頼もしい牛飼いの青年、牽牛星をめあわせた。
 ところが、若い二人があまりにも仲が睦まじくて、織女星は機を織ることも忘れるほどであった。
 天帝はついに腹に据えかねて、娘を天の川の西の岸に引き離し、それからは、年に一度だけ逢うことを許した。しかも、一年の間、二人の働きが足りなかった場合には、その夜は雨が降って天の川の水かさが増し、二人の逢瀬は、悲しくも途絶える定めであった。

 そこで、古代の人々のやさしい思いやりは、今宵一夜は雨が降ることのないようにと、星祭を営むようになったという。
        彦星と たなばたつめと こよひ逢はむ
           天の川瀬に 波立つなゆめ
 と、我国の柿本人麻呂も、このように願っている。

 唐の時代になると、中国では、宮中の女官たちが、この日、五色の糸を結び、瓜や酒・菓子などを供えて、牽牛・織女の二星を祀ることになった。
 けれども、もうその頃には、二人の恋を祝福するというよりは、針仕事が上達するようにとの現世的なご利益を願う気持ちが強くなっている。

 この星祭が、中国から日本へ伝わったのはいつの頃か、確かなことは分からない。『続日本紀』には、天平六年(734)七月七日に、聖武天皇が、詩人たちに命じて、七夕の詩を詠ませられたと記録されているのが最も古い史実である。

 中国伝来の星祭の風習と、日本の神を待つ「たなばたつめ」の信仰とが習合したものが、七夕まつりであるといわれている。
 奈良時代から行なわれ、江戸時代には民間にも広がった。
 庭前に供物し、笹竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつけ、書道や裁縫の上達を祈るのが習わしとなった。
 本来は陰暦七月七日に行なうので、「七夕」は秋の季語なのである。


      七夕の川音を聴く漢(をとこ)かな     季 己

2008年07月04日 21時32分10秒 | Weblog
 散歩がてら久しぶりに、母校の中学校の前を通る。
 我々のころは、各学年11クラス、生徒総数1800人余、それが今では、各学年1クラス、生徒総数70人弱と聞く。廃校寸前である。
 その中学校の年1回発行の校内誌の名前が「若鮎」であった。

 鮎は、わずか1年の寿命で、別名、年魚(ねんぎょ)と呼ばれる。
 いくら“若”鮎でも、わずか1年の寿命の魚を、校内誌の名前にするとは……
 秋に川で生まれた稚魚は、海へ下り小さな動物を食べながら冬を過ごし、春になって七~八センチに成長すると、また若鮎として川へ戻ってくる。
 川に入ると珪藻などの水苔だけを食い、夏の間に三十センチ近くの大きさになり、秋に産卵をする。産卵を終えた落鮎は、その一生を終わる。
 体色は、オリーブ色でやや黄味を帯び、側方は銀白色で、鱗はきわめて小さい。
 藻を食うせいか、体全体から瓜のような匂いを発するので、香魚とも呼ばれる。


        いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥     安原貞室

 季語は「鮎」で夏。
 「都鳥よ、嵯峨名物の鮎を食いに、都へ上って来い」の意である。
 この句には、「京にて睦まじかりつる友の、武蔵の国に年経て住みけるが、隅田川一見せんとさそひければまかりて」という詞書がついている。
 これによって、この句が、貞室が友人を訪れて江戸へ下った折、その友人に上京をすすめたものであることが分かる。
 都鳥は、ユリカモメが正しい名称で、カモメとしては小型で、首から腹にかけて白く、嘴と足が赤くてよく目立つ。

 『伊勢物語』に、在原業平が、隅田川のほとりでこの鳥を見て、「名にしおはばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠んだことが記されている。
 この歌以来、都鳥は隅田川の鳥として有名になった。
 江戸の友人を、この都鳥に擬していることはいうまでもない。
 都鳥は水鳥であり、川魚などを餌とするところから、鮎食いに上れといったのだが、その裏には、鮎のシーズンだから上京しないか、という勧誘の心を含ませているのである。
 隅田川の都鳥を見せてもらった返礼に、嵯峨の鮎をご馳走しようというわけだが、いかにも気の利いた表現で、貞室の才能をうかがうに足る。
 なお、都鳥は、いまでは冬とするが、この当時はまだ、都鳥にははっきり季節が定まっていなかったと思われる。


      読みさしの「仁勢物語」昼寝覚め     季 己

 ※ 「仁勢(にせ)物語」⇒仮名草子。2巻。1639年ごろ成る。作者未詳。「伊勢物語」のパロディー。

紐とく

2008年07月03日 21時55分19秒 | Weblog
 「紐とく」とは、①下紐を解く、②つぼみが開く、ほころびるの意であるが、『萬葉集』にも数多く見られる。

                      東歌・陸奥国歌
        筑紫なる にほふ子ゆゑに 陸奥(みちのく)の
          かとりをとめの 結ひし紐とく (巻十四)

 「下紐を解く」という語には、極度に性欲的な連想がともないがちであるが、着物をとめておく紐でなく、もっと信仰的なものである。
 旅に出て行く男は、妻あるいは愛人の魂を分割して、着物に結びこめて行く。それが守護霊ともなる。
 だからそれは、宗教的に解くことの出来ない神秘な結び目である。
 それを他国の女ゆえに解き放ったという空想を楽しんでいるのだ。

 「結ひし紐とく」という言い方は、いかにも無人格で、そのためこれは、九州へ行った男の歌なのか、東国の女の恨みの歌なのか、どちらとも確定できない。当事者の抒情ではないことは言えよう。
 陸奥の男の、防人などで、筑紫に行ったものが、その地の女と通じて、故郷の愛人を忘れるほど美しい女であった、という民謡の類ではないか。
 「筑紫なる」は、「筑紫にいる」の意で、「筑紫」は広く九州を指し、また狭く北九州を指す。
 「みちのく」は、「道の奥」のこと。道は地方の国々であって、さらにその奥地が「みちのく」である。
 「かとりをとめ」の「かとり」は地名の「香取」で、香取の神に仕える処女であろう。
 陸奥には、「かとり」と呼ぶ地は見当たらないが、香取伊豆乃御子神社、香取御児神社などの名も見えるから、下総の香取の神の分霊が東北各地に祀られていて、信仰が広く分布していた、と考えるべきであろう。

 「にほふ子」は、派手やかに色めく美しい女。「にほふ」は当時、色彩が匂い出ることで、艶麗ということばが当たっていよう。
 陸奥から見れば、大宰府のあった筑紫は、ずっと派手やかだったに違いない。ことに、東北から来た防人たちの眼には、南国の女たちが魅力的だったことは想像できる。現代で言えば、さしずめ沖縄出身の比嘉愛美に魅力を感じるように……。

 この歌のようなことはざらにあったと思われ、それだけに共感の度合いも深かったろう。個人の特殊経験ではないから、ある時の一つの出来事として、陸奥の方で、語り伝えられ、謡い伝えられたものであろう。
 陸奥と筑紫の文化の相違から、筑紫女の方が、いくらか美しく眼に映るのであったかも知れぬ。派手やかな筑紫女が、ほかならぬ香取処女が結った大事な紐さえも解かせてしまったといった含みがある。諸国の女を比較して語ろうとするようなところが見えている。
 後世の歌謡になると、もっと言い方が露骨になってくる。


      月下美人 海を眼下の巫女溜り     季 己 

美斉津匠一展

2008年07月02日 21時51分31秒 | Weblog
 夏の季語の一つに「絹糸草」がある。
 ただ、いまは詠む人がほとんどなく、最近の歳時記には、載っていないものもある。
 以前は、夏の日に、涼しさを求めて楽しむものの中に、絹糸草というのがあった。だが、絹糸草という名の植物はなく、イネ科のオオアワガエリのことである。

 明治の初めに、牧草として輸入されたイネ科の植物に、オオアワガエリ、俗にチモシーと呼ばれるものがあった。
 成長すれば、高さ1メートル以上になるが、葉の幅は細くて1センチくらいにしかならない。そこが絹糸草の狙い目なのであろう。
 浅い水盤の底に綿を敷いて、十分に水を含ませ、その上一面にチモシーの種を蒔いておくと、二十日ばかりして、高さ3センチ程の、糸のように細い若葉が生え揃う。
 その緑の新鮮さやしなやかさは、極暑の真夏といえども、そのあたりには常に涼風がただよっているかのように感じられる。
 種を蒔くとき、いろいろな図柄の形に蒔いて、その文様の緑を楽しむことが出来る。この絹糸草の緑の中に、箱庭や盆石に使われる灯篭や鷺に鶴、蓑笠をつけたお百姓姿の人形などを立てておくのも、また一興であった。

 俳句もそうであるが、日本人の趣味には、広大な自然の姿を、そのまま掌にのせて慈しむかのような、格別な味わい方がある。
 絵画の世界で、それを楽しんでおられる作家に、美斉津匠一さんがいる。
 「ミサイズ」という姓は珍しく、一度覚えたら忘れられないだろう。長野県の小諸や佐久に「美斉津」姓が、数軒かたまってあるとのこと。
 その「美斉津匠一展」が、東京・銀座の「画廊・宮坂」で開かれている。(7月6日まで)

 美斉津さんは、泥んこ遊び大好き少年がそのまま長じて、画家という創造者になったのではないかと思われる、好人物である。
 ある時は自然に没入し、またある時は自然を凝視し、感じたものに己の慈愛を込めて、線と色彩で表現している。
 独特の感性の持ち主である彼は、作品に関してはわがままで、額縁まで自分で作らなければ気がすまない、ウルトラこだわり創造人間でもある。つまり、額縁までも含めて、彼の一つの作品なのだ。
 それでいて、作品は自己主張することなく、観る者を、あたたかく、やさしく包み込んでくれる。

 色彩でいえば、赤と黄色の発色がすばらしく、白が非常によく効いている。
 「白が効果的に使えるようになれば、一流である」とは、創画会の大御所の弁である。
 赤・黄・白の三拍子揃った作品は、案内状にもなった「机の上の静物」。手馴れた作品ではあるが、いつまで眺めていても飽きない。
 「空を見上げて」も、独特の視点で描かれ、詩情あふれる作品だ。
 「ポットとカップ」は渋い作品だが、背景の色彩が何ともいえぬ奥深さがあり、いつまでも身近に置きたい作品である。
 「集合住宅」・「ポットハウス」も楽しくなる作品だ。
 今回、人物が登場したが、これもまたvery goodである。
 「初夏の風に耳を澄ませて」は、大・小二作品あるが、どちらも独自の感性で愛情深く描かれていて、おすすめである。
 個人的には、題名が“短歌”的なので、これが“俳句”的に、「耳を澄ませば」くらいにしていただけたら、言うことなしの作品だと思う。
 「祈り」シリーズの3作品も、甲乙つけがたい佳品である。題は、「祈り」だけでよく、“春”・“早春”をつけるのは、蛇足だと思う。

 このままの姿勢で、画面の単純化を心がければ、「平成のクマガイ・モリカズ」になれるのではないかと、秘かに期待している。


      あともどりせぬモリカズの蟻の列     季 己