壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

光明皇后

2008年07月08日 20時56分52秒 | Weblog
 暑中見舞いのかわりに、きょうは、光明皇后の「雪」の御歌をおとどけしよう。

                     光明皇后
       わが背子と 二人見ませば いくばくか
         この降る雪の うれしからまし (『萬葉集』巻八)

 光明皇后が、聖武天皇に奉られた御歌である。
 皇后は、藤原不比等の女で、神亀元年(724)二月に聖武天皇夫人となる。ついで、天平元年(729)八月に皇后とならせたまい、天平宝字四年(760)六月七日、陽暦のちょうど今頃、崩御せられた。御年六十。

 「まし」という助動詞は、現在の事実に反することを想像する、反実仮想とも呼ばれ、
 ①(とてもかなわぬことだが)もし…だったら…だろう。
 ②(実際はそうでないけれど)もし…だったら…しただろうに
 などの意となる。

   この美しく降った雪を、あいにくとわたしは一人で見ております。
   もし、わが背の君と二人して眺めることが叶いましたならば、
   どんなにかこの雪がうれしかったでしょうに。
   一人で見ているのが残念でございます。

 この歌は、天皇への思慕を手放しで表白しているものと、とっていいだろう。
 このように素直に、思いのまま、会話のままを伝えているのは、まことに不思議なほどである。
 特に、結びの「うれしからまし」のようなお言葉を、皇后のご生涯と照らし合わせつつ味わい得るということの幸せを、しみじみと感じる。

 法華滅罪之寺というよりは、尼門跡寺院、氷室御所といったほうが、ぴったりするのがこの法華寺である。
 いつ行っても、きちんと箒目のついている白砂。いちめんに畳を敷いた清潔な本堂。それに、尼さんの物腰が丁重で、礼儀正しいのには、こちらまで思わず知らず威儀を正さざるを得なくなる。
 門跡の人柄のあらわれもあろうが、この寺のもつ由緒ある歴史と、いまの本尊、十一面観音の均整の美しさも、われわれの心を正すのかもしれない。

 寺地は光明皇后の父、藤原不比等の邸で、皇后に伝えられ、天平十七年(745)にこの旧皇后宮が宮寺とされ、やがて法華寺と呼ばれるようになったものという。
 本尊の、国宝・十一面観音像は、平安初期の貞観彫刻の秀作といわれるが、観音菩薩の化身ともてはやされた光明皇后をモデルにして、天竺国のすぐれた彫刻家が製作した三躯の一つという伝説が生まれるのも当然であると思われる。
 天衣の端をわずかにつまんだ姿態といい、光背の替りに一本一本の蓮葉を配した構成といい、素人目にも造型の自由さがうれしい。

 法華寺には、光明皇后が、千人の困窮者を入れた風呂というものがある。その千人目に、ライ病患者の姿をしたアシュク仏があらわれ、皇后にその膿を吸いとらせた、という有名な話がある。いかに皇后が慈悲ぶかいかということを説明するのであろう。
 いまの風呂は、「唐風呂」といわれるもので、江戸時代の建物である。それでも光明皇后の伝説を偲ぶのをさまたげない。

 法華寺の仏さまは、いつから安産の守護仏になったものか、安産を祈る人々は、「御守犬」という小さくて可愛い犬形の御守をいただいて帰る。大・中・小の三種類があるのだが、いつ伺っても品切れ?状態で、入手困難な御守ナンバーワンではなかろうか。
 安産には全く無縁な変人も、奈良へ行くたびに立ち寄り、三種類そろえるのに数年かかっている。
 ここ数年、法華寺には行っていないので、今でも入手困難かどうかは定かではない。
 「御守犬」を尼僧の手から受けるのは、いささか面映ゆいが、尼僧のお手製の、この極小のものにさえ、願いを託する人間というものは、いまさらのようにあわれではある。
 そう書いている生涯独身の男は、もっとあわれか……。


      流れとは別のみづおと落し文     季 己