平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

共に祈る教会

2017-05-13 10:50:16 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年5月7日 主日礼拝 杉野省治牧師
共に祈る教会 使徒行伝12章1~5、12~17節

 初代教会をゆさぶったものの一つは、迫害であった。ヘロデ王は、キリスト教徒を迫害すれば、自分の人気を回復し、維持していくのに好都合だと考え、ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、次いでペテロも捕らえた。ペテロは当時のエルサレム教会の指導的人物である。
 
 教会はこの世の権力に対してなんの抵抗もできない弱い存在であった。普通ならもうだめだとあきらめるところである。しかし、教会はあきらめなかった。「彼のために熱心な祈りが神にささげられた」(5節)。しかし、そのことはただ神に祈り求めていく以外に道はなかったことでもあった。信仰とはあきらめないことである。あきらめるのはすでに罪である。なぜなら、全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめないで、望みをもって生きていくことであるからである。初代教会はこの世的にはまったく弱かったが、望み得ないときにもなお、望みつつ信じる強さを持っていた。祈りの強さである。
 
 「早く起きあがりなさい」をはじめ、ペテロに対して御使いは「~なさい」と言われた(7-8節)。神はいつも私たちに「~なさい」と言われる。それは私たちに応答を求める言葉である。「彼はそのとおりにした」(8節)。ペテロは神の言葉に応答した。その時、神の世界にふれた。鎖はとけ、扉は開いた。神の言葉に応答するなら、神の世界に呼吸する者とされる。その時、神はもはや話の世界ではなく、現実となる。それが神との出会いである。神の言葉に聞き従うとき、神の現実が私たちに開かれ、神の愛と支配の世界を知る者となる。このことなしに、どんなに考えても、決して神を知ることはできない。

 言い換えるならば、私たちの信仰の土台を神に置くということである。神の確かさに置くゆえに確信して祈ることができる。自分に置くからふらふらするのである。どこまで行っても信じ切れないのである。
 
 このように祈りの根本的な姿勢は、神に信をおいて祈る。神の確かさに信をおいて祈ることである。自分の確かさや熱心さに信において祈るのではない。そのことを祈りの実践から教えられ、訓練されて成長させていただこう。

積極的な祈りへの六つのステップ ①

2017-05-13 10:31:41 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年5月7日 積極的な祈りへの六つのステップ ①

 祈りは信仰生活の基本であり、核心であります。信仰生活の成長のためにも、祈りにおいて成長することが求められます。ここに、米国の神学者で牧師のR.H.シューラー(1926年生)の勧める「祈りへの六つのステップ」を紹介します。今の自分の祈りを振り返ってみましょう。次週と合わせて2回連続で紹介します。

 ① 追及せよ。神を激しく求めなさい。罪の告白から始めなさい。具体的に述べなさい。自分のありのままの姿を打ち明け、厳しい言葉で容赦なく自分を描写し、さらけ出しなさい。「もし心を尽くして、神を求めるならば、あなたは必ず主を見出すだろう……」(申命記4:29)。

 ② 再検討せよ。あなた自身を吟味しなさい。祈る時、自分自身に向かって、「私は本当に正直だろうか」と問いなさい。ふざけたり、照れたり、ごまかしてはなりません。もし、あなたが信じられないで悩んでいるなら、そのことを告白するのです。たとえば次のように祈りなさい。「神さま、私の信仰があいまいで、暗く、だらだらしている時でも、あなたは私を愛して下さることを感謝しますと。

 ③ 確信せよ。神があなたのうちに働いて、何事か起こして下さることを積極的に確信しなさい。誠実に、また確信をもって祈りなさい。消極的な祈りは、あなたを弱くするだけです。「神さま、あなたが私を愛して下さっていることを知っています。あなたは私が犯した……のことで、私を赦そうと心から待っておられます」と祈るのです。

 祈りは実践です。ことあるごとに祈りましょう。祈りによって神さまのことがよく分かります。祈りによって自分自身のことがよく分かります。祈りによって励まされ、鍛えられます。祈りによって慰められます。祈りは信仰の訓練です。

 *『日常の祈り・苦しみの時の祈り』(佐藤優子訳 聖文舎 1978 9-11頁)引用