平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

感謝と祈り

2011-10-13 17:36:54 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年10月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「感謝と祈り」 フィリピの信徒への手紙1章3-11節      
 
 今朝の聖書個所はパウロの感謝と祈りが書かれている。3節に「感謝する」とあるが、それはフィリピの信徒たちが「福音に与っている」(5節)ことについてである。世には多くの感謝するべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかったのである。
 
 「継続は力なり」とよく言われる。何でも一つのことを続けることは大切なことだが、簡単なことではない。むしろ続けるには大きなエネルギーが必要。「福音にあずかっている」ということも、決して容易ではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪が赦され、滅びから救われること。それは「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。あるいは「苦しみにあずかる」とも言われ(3:10、4:14)、パウロの宣教を具体的に支援することでもあった。

 この「あずかる」と訳されている「コイノーニア」は普通、「交わり」と訳される言葉。「交わり」はキリスト教の中心、生命だが、しかも人と人との交わりであるよりも、神と人との交わり、横のつながり以上にタテの関係が強調され、福音や恵み、さらに「霊の交わり」(2:1直訳)があるかどうかがキーポイントである。
 
 私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえある。私たちはいつ信仰を失っても不思議でないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題で満ちている。このような現実の中で、福音にあずかれるということは、人間の力や業では全く不可能である。ただただ祈りによって、むしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架の愛のエネルギーによってのみ可能となるのである。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と言い、感謝が泉のようにわきあがるのである。
 
 同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、とりなし祈ること。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、人のために祈る人がいる。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのである。
 
 とくに「一同」(7,8節)という言葉が繰り返されているが、一人の例外もなく祈りの対象なのである。しかもこの世の誰も、祈りや愛の対象から除外されている人はいないはずである。私のために祈ってくれる人がいて、そのようなとりなしの祈りによって、私の信仰が支えられていることを覚えたい。しかもそれだけではなく、聖書には、霊によるとりなしがあり、イエスによるとりなしがあるのだと書かれている(ロマ書8:26-27,34)。
 
 私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されている。実際、多くの問題や危険に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見する時、私たちに生きる勇気が生まれるのである。

三位一体ってな~に?

2011-10-11 10:50:18 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年10月9日 三位一体ってな~に?

 三位一体という言葉はキリスト教のキーワード、鍵となる言葉の一つです。私たちが信じているのは、父・子・聖霊の神で三位一体の神です。でも、神は唯一なのになぜ三つに分かれるのでしょうか。ポイントはそこです。以下説明しますが、なかなか難しいのは事実です。

 先週も書きましたが、三位の「位」は位置の位、地位の位という意味です。そしてラテン語ではペルソナといって「面」という意味を持ちます。三つの位置を持つ一つなる神、三つの面を有する唯一の神ということです。三面一体と言っても良いのですが、三つの位置を持つということで三位一体となるのです。三つの位置、三つの面から人間に対する交わりの神がいてくださるのです。

 では、どういう位置になるのでしょう。父なる神は我々の上にいます、天地の創造者。子なる神イエス・キリストは我々のかたわらに立ち、下にまで降りてくださって十字架のあがないをなしてくださる救いの神。そして聖霊なる神は我々の内に臨み、救いを完成、成就すべく執り成し導いてくださる神です。創造、あがない、そして完成という三つの面をもって私たちに向かう神が共にいてくださるのです。ですからパウロは第二コリント13章13節で「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたと共にあるように」と祈っています。

 今度はたとえで説明しましょう。化学記号の「H2O」(エイチ・ツー・オー)は凍ると雪や氷になり、解けると水になり、蒸発すると水蒸気になりますが化学記号では同じ「H2O」です。見た目も性質も違いますが、同じ分子の組み合わせで、変わりません。

 また関係性から説明してみましょう。私、杉野省治は牧師ですがそれは信徒との関係において牧師であり、連れ合いの純子さんとの関係では夫です。さらに4人の子どもとの関係では私は父親です。それぞれの関係において私は三つの面の役割と働きをしています。でも、杉野省治という人物は一人です。このように三位一体論を考えれば少しは納得がいったでしょうか。

キリスト・イエスの日

2011-10-11 10:46:30 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年10月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
 
 「キリスト・イエスの日」 フィリピの信徒への手紙1章3-11節      
 
 パウロは5節で、フィリピの信徒たちが「福音にあずかっている」ことについて感謝をもって述べているが、6節ではそれを始めたのは人間ではなく、「善い業を始められた方」、すなわち神ご自身であると語っている。

 「善い業」とは十字架による救いの業であり、罪深く不信の人間に神が働きかけて、信じる者とし、救ってくださったこと。そして今はまだ救いの途上にあり、私たちの未来はどうなるか分からないが、神は「キリスト・イエスの日」までに、必ず救いを成し遂げてくださると確信していると言うのである(6節)。
 
 今日、人生80年と言われ、ずいぶん多くの日を過ごすことになる。その私たちのこれからの未来には、今日という日に大きな影響を与える特別な日というものがある。子どもの頃にはお正月や遠足など指折り数えながら、心待ちしたもの。そのように受験生は試験の日に向けて懸命に勉強している。また入院している人は、退院の日を待ちながら療養に努める。あるいは結婚の日や出産の日を待っている人もいるだろう。
 
 そのように私たちはある特定な日というものを目指し、その日に向かって生きているが、キリスト者は未来のどのような日に焦点を当てながら、今日という日を生きているだろうか。実際、若い時にはいろいろの待つ日があったが、年をとるにつれて、待つ日も少なくなり、もう死のほか待つものがないということもあるだろう。しかし、パウロは「キリスト・イエスの日」「キリストの日」(2:16)と繰り返している。彼は殉教の死さえ予感しているが、死は最後ではなく、それを越えて最高に素晴らしい、究極の日を楽しみに待っていると言うのである。
 
 私を愛し、私のために十字架において命を捨ててくださったキリストと出会う日こそ、究極の救いの日である。キリスト者は花婿が花嫁を迎えるような、喜びと生命と光の日である「キリスト・イエスの日」に、生と死の焦点をあてて生きることができるのである。そこに新しい人生の設計図が生まれてくる。
 
 私たちの人生設計はその「キリスト・イエスの日」に焦点を合わせて、生きるということである。スポーツ選手が勝利の日を目指して、今日やるべきことを精一杯行っていく。その積み重ねが勝利を導くと強く信じ確信しているから。だから、いやなことも辛いことも乗り越えて練習しているのである。パウロは第一コリント9章25節で「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」と言っている。それは主がなしてくださるという確信があるからこその節制、努力なのである。そこにこそ喜びがあり、感謝がある生き生きとした人生の歩みがあるのである。 

平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 2  神

2011-10-03 10:49:27 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年10月2日 平塚バプテスト教会信仰告白(試案) 2 神

私たちは、イエス・キリストにおいてご自身を啓示された生ける神こそ、父、子、聖霊として働かれる唯一の全知全能の神であり、神は、愛と恵みとをもって天地を創造し、これを支配される、と信じます。

 私たちの信仰は、単純に、イエス・キリストのみを信ずる信仰です。まず、イエス・キリストが真の神である、と告白されねばなりません。そして、「イエス・キリストのみ」に集中することによって、私たちの神様が示されます。父・子・聖霊としての神です。

 私たちはキリストにあって、キリストが神また父と呼ぶ方を、私たちの神また父と呼びます。多くの宗教も神々について語ります。それらの神々とキリスト教の神との決定的な違いは、私たちの神様はキリストにおいてご自身を啓示し(隠れていたものを開き示し)、また与えられるということです。人間の想像や願望が作り上げた神ではなく、人間を越えた神が人間のために存在しようと決意し、また存在されるのです。これが神の愛と自由です。

 神の愛とは、人間のためにあろうとされる神の意志と行為であり、神の自由とは、そのような神の自己決定の超越性を意味します。このようにして、神は自由な愛の神です。

 神は、自由な愛の対象として被造物を創造されました。神はご自身のかたわらに、ご自身とは異なる存在を置かれます。それは、神が孤独から逃れようとしてではなく、ご自身の内にあふれる愛によって、自由に創造され、また支配されるのです。キリストが父なる神と呼ぶ神は、その恵みにおいてすべての存在の根源といわなければなりません。

 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)。

 「父、子、聖霊として働かれる唯一の全知全能の神」のことを三位一体の神といいます。三位の「位」は位置の位、地位の位という意味です。またラテン語ではペルソナといって「面」という意味を持ちます。三つの位置を持つ一つなる神、三つの面を有する唯一の神ということです。三位一体については大切なことなので、次回詳しくお話します。