(先週の説教要旨) 2011年10月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「感謝と祈り」 フィリピの信徒への手紙1章3-11節
今朝の聖書個所はパウロの感謝と祈りが書かれている。3節に「感謝する」とあるが、それはフィリピの信徒たちが「福音に与っている」(5節)ことについてである。世には多くの感謝するべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかったのである。
「継続は力なり」とよく言われる。何でも一つのことを続けることは大切なことだが、簡単なことではない。むしろ続けるには大きなエネルギーが必要。「福音にあずかっている」ということも、決して容易ではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪が赦され、滅びから救われること。それは「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。あるいは「苦しみにあずかる」とも言われ(3:10、4:14)、パウロの宣教を具体的に支援することでもあった。
この「あずかる」と訳されている「コイノーニア」は普通、「交わり」と訳される言葉。「交わり」はキリスト教の中心、生命だが、しかも人と人との交わりであるよりも、神と人との交わり、横のつながり以上にタテの関係が強調され、福音や恵み、さらに「霊の交わり」(2:1直訳)があるかどうかがキーポイントである。
私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえある。私たちはいつ信仰を失っても不思議でないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題で満ちている。このような現実の中で、福音にあずかれるということは、人間の力や業では全く不可能である。ただただ祈りによって、むしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架の愛のエネルギーによってのみ可能となるのである。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と言い、感謝が泉のようにわきあがるのである。
同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、とりなし祈ること。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、人のために祈る人がいる。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのである。
とくに「一同」(7,8節)という言葉が繰り返されているが、一人の例外もなく祈りの対象なのである。しかもこの世の誰も、祈りや愛の対象から除外されている人はいないはずである。私のために祈ってくれる人がいて、そのようなとりなしの祈りによって、私の信仰が支えられていることを覚えたい。しかもそれだけではなく、聖書には、霊によるとりなしがあり、イエスによるとりなしがあるのだと書かれている(ロマ書8:26-27,34)。
私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されている。実際、多くの問題や危険に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見する時、私たちに生きる勇気が生まれるのである。