平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

自分の弱さを誇る

2011-06-03 13:51:09 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年5月29日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

「自分の弱さを誇る」 第二コリント12章1-10節
 
 「弱さ」は今の社会では好まれない。自己責任が問われ、自分の力で自分の取り分を確保する強さが求められるからである。しかし、現実の人間関係において、「弱いときにこそ強い」ということはすでに多くの方が体験しているところである。「負けるが勝ち」とか「逃げるが勝ち」といったことわざもある。これらは弱いがゆえに負けたり逃げた経験を通して生まれたことわざである。このように「弱い」ということが決してマイナスの要素だけではないということであろう。

 では、聖書の言う「弱いときにこそ強い」にはどんなメッセージが込められているのか。なぜ、パウロは「弱いときにこそ強い」と言うのか。「弱いときにこそ強い」。実に不思議な表現である。これは信仰の逆説である。それはキリストの力強さがその弱さの中で明らかになるからである。パウロはキリストに服従する信仰において徹底して自分を捨てて無となってゆく。パウロはガラテヤ書の中で、「もはや、われ、生くるにあらず、キリスト、我が内に在りて、生くるなり」(2:20、文語訳)と書いている。

 本当に強い人、優しい人とは自分の弱さに対峙できる人、向き合うことのできる人である。ロブスターは脱皮する時には自らの弱さを晒す危険を冒すという。うまく脱皮できなければそのまま死んでしまうし、脱皮しても24時間は柔らかい外皮のため、外敵に襲われたらひとたまりもない。しかし、24時間水をたくさん吸うことができた時、外皮は次第に硬い殻となって、一回りも二回りも大きくなって成長してゆくという。私たちも霊的に脱皮してゆくためには自らの弱さや限界を見つめ、きちんとそれに対峙する必要がある。その弱さのどん底にキリストが降り立って下さったのだということを知った時、私たちは本当の信仰の慰めと喜びとを味わうことができる。それは信仰による底突き体験と呼べるかも知れない。

 パウロは「肉体のとげ」で苦しんだ。「とげ」という表現からは、パウロが何か激痛を伴う病気で苦しんでいたことが分かる。外部からの迫害と教会内の心配ごとに加えて、身体的な病気という三重苦にパウロが苦しめられていたことが第二コリント11章から12章には報告されている。何とかそれを自分から離れ去らせて下さいと「三度も祈った」。「三度」というのはたった三回という意味ではなく、「三」は聖書では完全数でもあるから、「何度も繰り返して、徹底的に、真剣に」という意味である。しかし、パウロが願ったようなかたちでその祈りは聞かれなかった。「肉体のとげ」は取り除かれなかった。しかし、別のかたちでその祈りは聞かれたのである。

 パウロはそこで主イエスの声を聴くことができた。「我がめぐみ、汝に足れり、我がちからは、弱きうちに、全うせらるればなり」(文語訳)。このキリストの声が弱さの中で、パウロを強めたのである。この声のゆえに、パウロは「そは、我弱き時に強ければなり」と言うことができたのである。キリストの力がパウロの弱さの中で働いている。キリストの現臨。それを私たちは祈りを通して、聖霊によって知らされる時、霊的に脱皮し、受け入れることができるのである。

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