気が重いよ…伊那篇

落ちるところまで落ちた男の日記

堀場秀孝県議2期目へ

2015-04-13 19:27:01 | 昭和レトロ
長野県議会には、元プロ野球出身の議員が2人いました。
1人が、上田市小県郡選挙区選出の堀場秀孝議員。
もう1人が、佐久市北佐久郡選挙区選出の桃井進議員。
実は、今回の県議会議員選挙後に、この2人の思い出を綴った記事を書くぞ!と決めていたのです。
ところが、昨日の選挙で桃井氏は落選。
今後は、無投票で当選を決めた堀場氏(以下敬称略)1人が元プロ野球選手議員となります。



堀場は、今年60歳(還暦)。
そう、江川卓・達川光男・山倉和博・中尾孝義などと共に、かつて甲子園・神宮で活躍した一流選手なのであります。
丸子実業高(現丸子修学館高)時代は、捕手として春1回、夏2回甲子園に出場。
昭和40年代後半、丸子実業は強かったですね~。
堀場は、強肩・強打のキャッチャーとして、いかつい顔も相まってプロ注目の選手でした。
49年の大学受験時、堀場は江川や中尾らと慶応義塾大学を受験。
残念ながら、3人共不合格。
堀場は、1浪後慶応入学。
江川は、浪人せず法政大学の二部(夜間)に入学。
中尾は、浪人後次年も慶応不合格で、専修大学に入学。

大学に入学後も、堀場は凄かったですね~。
東京六大学リーグで、1年春シーズンから正捕手ですよ。
通産8シーズンで、打った安打が125本(高田繁に次ぐ歴代2位)。本塁打11本。
日米大学野球では、ライトを守っていた記憶があります。
(だって、同年齢ながら1学年上には早稲田の山倉、法政の袴田英利、東洋の達川、同学年には早稲田の金森栄治、専修の中尾が捕手でいましたからね)

昭和54年、絶頂期の堀場はプロ入りを拒否。
野球部を創部したばかりのプリンスホテルに入社しました。
堀場(慶応)・金森(早稲田)・中尾(専修)・石毛宏典(駒沢)らが同期入社。
ここで、堀場・金森・中尾という大学ビッグ3捕手が同一チームにいたことが不運でした。
堀場は、次第に目立たなくなって行きました。



だから、昭和57年に27歳で、広島カープに入団(ドラフト外)したときは、正直驚きましたね。
でも、堀場ファンの私は、凄く嬉しかったです。
広島には、甲子園・神宮・全日本で常に一緒だった達川がいたのです。
結局、この達川の牙城を崩すことは出来ませんでした。

62年のシーズンからは、大洋ホエールズに移籍。
この移籍直後の、ゴールデンウィーク頃に、堀場はブレークするのです。
毎日、プロ野球ニュースやスポーツ新聞を見るのが楽しみでしたね。
この年、45試合に出場。当時、大洋には若菜とか市川という捕手がいたのに45試合ですよ。
29安打を放ち、内本塁打3本。打率.266の成績を残したのです。
翌年も代打の切り札で、打率.295。
テレビ神奈川で、大洋対阪神を観戦するのが楽しみでした。
大洋の堀場と阪神の御子柴進(松本工出身)の対決。
感動で涙を流しながら、見てましたよ。

そして、野球人生の最後は、読売巨人軍です。
平成2年の1シーズンですが、堀場は慶応OBの藤田監督の下、確かに巨人軍の選手として在籍していました。
オープン戦では、テレビにも映ったのですが、結局公式戦は出場機会無し。
当時の伊那市営球場改装オープン記念のイースタンリーグ(2軍戦)で、来伊しています。



引退後、ベースボールマガジン社社員や、近鉄バファローズ球団職員を歴任。
もう長野県には戻って来ないか~と思っていましたが、4年前の県議選に出馬。
久し振りに、ゴリバ(ニックネーム)の顔を見ました。
そして、今年、無投票で再選。
これからも、長野県のために頑張ってください。

桃井進氏(ロッテ-パリーグ審判員)については、またおいおい書かせて貰います。

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