会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1436

2017-05-31 20:44:05 | Weblog
会津八一に関するブログ 351

山鳩・第7首(会津八一) 2013・4・25(木)  解説

 ふみ よむ と ただに こもれる わが いほ に
          はべりて すぎし ひとよ かなし も 
    
  (文読むとただに籠れるわが庵に侍りて過ぎし一世悲しも)

 学者八一は学問と芸術のために一人部屋に籠ることが多かった。その東京での生活の身の廻りを14年間支えたのはきい子である。亡くなってから初めて気がついたことは、きい子の献身であり、また彼女の心根だった。

会津八一 1435

2017-05-30 20:43:47 | Weblog
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山鳩・第6首(会津八一) 2013・4・22(月)  解説

 やみ ほそる なが て とり もち まがつひ に 
      もえ たつ やど を いでし ひ おもほゆ

(病み細る汝が手取り持ちまがつひに燃えたつ宿を出でし日思ほゆ)

 昭和20年4月13日、八一ときい子が住む東京目白文化村の家(滋樹園秋艸堂)は空襲で全焼する。疎開のためにきい子が手配(18日発送予定)した荷物も全て燃えてしまう。きい子の手をとって猛火をくぐって逃れ出たその日を八一は思い起こしているのである。

会津八一 1434

2017-05-30 00:20:38 | Weblog
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山鳩・第5首(会津八一) 2013・4・19(金)  解説

 いたづき を ゆきて やわせ と ふるさと の 
     いなだ の かぜ を とめ こし もの を  
  
(いたづきを行きてやわせと故郷の稲田の風をとめこしものを)

 戦火の都ではなく、稲田を吹き渡る風がこころよい故郷の環境に希望を持って親子は疎開した。だが、それも空しくきい子は帰らぬ人になった。「とめこしものを」に八一の深い思いが込められている。

会津八一 1433

2017-05-28 19:58:47 | Weblog
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山鳩・第4首(会津八一) 2013・4・15(月)  解説

 やすらぎて しばし いねよ と わが こと の 
       とは の ねむり と なる べき もの か  
    
 (安らぎてしばしいねよとわが言の永遠の眠りとなるべきものか)  

 安心して眠りなさいと言った八一の言葉にきい子は静かな寝息と共に眠りについた。疲れている八一も同時にまどろんだのだ。だが、彼が眠っているうちにきい子は逝く。愛するものをたった一人で旅立させてしまった八一の心を思う。

会津八一 1432

2017-05-27 20:12:56 | Weblog
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山鳩・第3首(会津八一) 2013・4・12(金)  解説

 あひ しれる ひと なき さと に やみ ふして 
        いくひ きき けむ やまばと の こゑ     

  (相知れる人無き里に病み伏して幾日聞きけむ山鳩の声)

 病臥のきい子は来る日も来る日も悲しげな山鳩の鳴き声を聞く。思いに浸り、日記を書いた。それは悲しい生の最後の記録であった。万感の思いできい子を見送った八一も山鳩の声を聞きながら涙するのである。


会津八一 1431

2017-05-26 19:57:59 | Weblog
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山鳩・第2首(会津八一) 2013・4・9(火)   解説

 やまばと の とよもす やど の しづもり に 
     なれ は も ゆく か ねむる ごとく に 
   
   (山鳩のとよもす宿のしづもりになれはも逝くか眠る如くに)  

 きい子が病臥する観音堂は、山鳩が繰り返し鳴いている。鳴き声のみが聞こえる静かさの中で、きい子は逝ってしまう。「なれ は も ゆく か」は八一の悲痛な叫びである。

会津八一 1430

2017-05-25 19:15:52 | Weblog
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山鳩・第1首(会津八一) 2013・4・5(金)  解説

 いとのきて けさ を くるし と かすか なる 
       その ひとこと の せむ すべ ぞ なき   

 (いとのきて今朝を苦しとかすかなるその一言のせむすべぞなき)

 咽頭結核の養女・きい子は昭和20年7月7日の朝早く、苦しいと言って八一を起こす。どうすることもできないなか、10日未明、か細い声で、また苦しいと言って八一を起こしたきい子は夕方眠るように死についた。看病で疲れ切りまどろんでいた八一の傍らで!

会津八一 1429

2017-05-24 20:15:46 | Weblog
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会津八一の挽歌「山鳩 序」 2013・3・30(土)

 きい子は八一の実弟高橋戒三夫人の妹、20歳で身の回りの世話に入り、33歳で八一の養女になるが、昭和20年7月10日34歳結核で死去。
 このきい子については小説や舞台劇にもなっている。
 八一はきい子を悼んで山鳩21首を詠むが、その序は涙なしに読むことができない。文語で句読点が無いので、読みづらいが是非味わってほしい。

 寒燈集・山鳩 序

きい子もと高橋氏二十歳にして予が家に来り養うて子となすよく酸寒なる書生生活に堪へ薪水のことに當ること十四年内助の功多かりしはその間予が門に出入せしものの齊しく睹るところなるべしもとより蒲柳の質なりしを幾度か予の重患に侍し遂に疲労を以て病因をなしたるが如し今春臥して痾褥に在るに當り一夜たちまち戦火を被りわづかに身一つを以て免れ予とともに越後に歸り・・・」  序 全文へ

会津八一 1428

2017-05-23 20:07:55 | Weblog
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会津八一の挽歌 2013・3・28(木)

 昭和20年7月10日、八一の身の回りの世話をした養女・きい子を疎開先の新潟で亡くす。その時詠んだ山鳩21首は挽歌中でも屈指のものである。続く観音堂10首、柴売6首と合わせて、八一64歳の代表歌である。
 順次、歌の解説を紹介していきたいが、その前に会津八一の生涯と年表を書いておきたい。

 會津八一の生涯 

 会津八一は1881年(明治14)8月1日に新潟市古町通五番町に生まれる。“八一”と言う名は生まれた日による。1946年(昭和31)11月21日新潟で永眠(75歳)。美術史家、歌人、書家で、号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)等である。
 1906年(明治39)早稲田大学文学部を卒業、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授になる。独自の歌、書で世に知られる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくり、1924年(大正13)に歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を上梓(じょうし)する。その後南京新唱を含む「鹿鳴集(ろくめいしゅう)」「山光集(さんこうしゅう)」「寒燈集(かんとうしゅう)」を出版、生涯に千首余の歌を詠む。オリジナリティに富んだ書は独自の世界を切り開き、ファンが多い。
 学者としては1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」で学位を受け、美術史を早大で教える。
 1945年(昭和20年)戦災で東京から新潟に移った後は、夕刊新潟社の社長、後に新潟日報社の社賓となり、新潟の文化向上のためにも尽くした。   生涯と年表のページへ

会津八一 1427

2017-05-22 20:07:34 | Weblog
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激減する猿沢池の柳 2013・3・22(金)

 報道によると「1980年代半ば、緑のすだれが隙間なく囲んでいるように見えた奈良公園・猿沢池のシダレヤナギが枯れて3分の1に激減した」とある。いろいろ対策をしているが、めぼしい効果が今のところないそうだ。
 あの有名な「衣掛柳」も枯れて、新たに植えられたようだと言う。この柳だけは無くなって欲しくない。 
 天皇を思慕する采女が寵愛が薄れたのを悲しみ、つらさに堪えかねて猿沢池に入水自殺をした時に衣をかけた柳は会津八一にとっては記念すべき柳だった。失恋の痛手を胸に秘めて、28才の八一が初めて訪れた奈良で詠んだ思い入れの深い柳であるからだ。

 猿沢池にて   解説

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
        いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら    

   (吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら


会津八一 1426

2017-05-21 17:21:54 | Weblog
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観仏三昧(会津八一)第28首 2013・3・21(木)

 二十八日高尾神護寺にいたる  解説

  あきやま の みづ を わたりて いまだしき 
       もみじ の みち を われ ひとり ゆく

    (秋山の水を渡りて未だしき紅葉の道を我一人行く)

 この歌で会津八一が仏像や寺を詠んだ歌の解説を終わる。引き続いて、八一の挽歌(養女・きい子へ)を紹介していきたい。 

会津八一 1425

2017-05-20 18:47:48 | Weblog
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観仏三昧(会津八一)第27首 2013・3・17(日)

 二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を弔(とむら)ふ 第3首 解説

  ぶつだん に とぼし たつれば すがすがし 
         あすかぼとけ の たちて います も 
    
  (仏壇に灯火立つればすがすがし飛鳥仏の立ちていますも)

 仏教が伝来した538年から大化の改新の645年、あるいはその後20年くらいまでを仏教美術史的に「飛鳥時代」という。飛鳥仏はその頃の仏像。

会津八一 1424

2017-05-19 20:01:05 | Weblog
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観仏三昧(会津八一)第26首 2013・3・13(水)

 二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を弔(とむら)ふ 第2首 解説

  ここ にして きみ が ゑがける みやうわう の 
         ほのほ の すみ の いまだ かわかず   

    (ここにして君が描ける明王の炎の墨のいまだ乾かず)

 不動明王の背景の火炎が墨でえがかれている。その墨が生々しく今も乾かないように見えると詠む。



会津八一 1423

2017-05-18 19:54:08 | Weblog
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観仏三昧(会津八一)第25首 2013・3・12(火)

 二十六日山内義雄に導かれて嵯峨に冨田渓仙の遺室を弔(とむら)ふ 第1首 解説

  きうきよだう の すみ の すりかけ さしおける 
           とくおう の ふで さながらに して    

  (鳩居堂の墨の磨りかけさし置ける得応の筆さながらにして)

 冨田渓仙の遺室が生前そのままに目の前の現れたことを詠む。

会津八一 1422

2017-05-17 19:52:01 | Weblog
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観仏三昧(会津八一)第24首 2013・3・11(月)

 この日修学院(しゆがくいん)離宮を拝す 林泉は後水尾(ごみずのお)法皇の親(みずか)ら意匠して築かしめたまふところといふ  解説

  ばんじよう の そん もて むね に ゑがかしし 
        みその の もみぢ もえ いでむ と す
   
   (万乗の尊もて胸に描かししみ園の紅葉燃え出でむとす)

 修学院離宮は1655年から1659年にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇が女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。