会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1294

2016-12-30 22:28:06 | Weblog
会津八一に関するブログ 208

薬師寺東塔(八一) 2011・7・22(金)    解説

 すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の 
       ひま にも すめる あき の そら かな


 参照 奈良ソムリエのバスガイドUさんと薬師寺
                     鹿鳴人のつぶやき 


   明日31日は休ませていただきます。良いお年を

会津八一 1291

2016-12-27 19:57:45 | Weblog
会津八一に関するブログ 205
                   
歌の数 2011・6・23(木)

 プロの歌人は生涯数千から数万首の歌を詠む。当然だが駄作も沢山あるだろう。会津八一は886首しか詠んでいない。調べを大事にし、推敲を繰り返したので長い年月をかけて作ったものが多い。友人から問い合わせがあったので、整理してページを作った。

     会津八一 歌の数

会津八一 1290

2016-12-26 20:13:38 | Weblog
会津八一に関するブログ 204

夢殿の書画 2011・6・17(金)

 杉本健吉と会津八一の書画集・春日野から夢殿の作品を壁にかけた。先日、夢殿を訪れた時のことが鮮明に浮かんでくる。

 法隆寺東院にて    解説

   ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
           こもりて いま も まします が ごと    



会津八一 1289

2016-12-25 19:59:22 | Weblog
会津八一に関するブログ 203

法隆寺の歌 2011・6・11(土)

 会津八一の法隆寺の歌は19首ある。残っていた3首(17,18,19)の解説をし、一覧にまとめた。19首目で“み仏たちが私を待っている”と断定的に詠む。平易な歌だが“私も恋焦がれるが相手(み仏たち)も私を待っているのだ”と言い切れる所に八一の心情の深さを垣間見る事が出来る。

 十五日二三子を伴ひて観仏の旅に東京を出づ  解説

    やまと には かの いかるが の おほてら に 
          みほとけ たち の まちて いまさむ

      (大和にはかの斑鳩の大寺にみ仏たちの待ちていまさむ)

会津八一 1288

2016-12-24 20:01:27 | Weblog
会津八一に関するブログ 202

富本憲吉記念館 2011・6・4(土)

 奈良に会津八一の歌碑を訪ねた日、最後に富本憲吉記念館に立ち寄り、静かなたたずまいの展示室で係の人の親切な解説を聞いた。代表作は「色絵金彩羊歯文(しだもん)大飾壺」。ネット上に奈良県の作った映像「近代陶芸の巨匠 富本憲吉」(5分間)あり。
 後日、友人・鹿鳴人から八一の鹿鳴集に富本憲吉を詠った歌があると教えられたので、早速八一ページに解説を加えた。

  大和安堵村なる富本憲吉の工房に立ちよりて   解説

   いかるが の わさだ の くろ に かりほ して
          はに ねらす らむ ながき ながよ を
 

  この記念館は平成24年5月31日に閉館した。  

会津八一 1287

2016-12-23 23:29:29 | Weblog
会津八一に関するブログ 201

夢違観音  2011・5・29(日)

 法隆寺大宝蔵院では真っ先に白鳳仏の代表・夢違観音が迎えてくれた。端正で若々しい顔立ちと立体的な姿は前時代の平板的な飛鳥仏(金堂の釈迦三尊像や夢殿の救世観音)とは大きく違う。飛鳥時代は大化の改新を経て白鳳時代になるが、この仏たちの変貌の経緯は興味ある所だ。以前に彫った香薬師像も白鳳仏、青年のような顔は夢違観音に似通っている。
 夢違はかって「ゆめたがい、ゆめたがえ」だったが、今は「ゆめちがい」と呼ばれる。法隆寺が「ゆめちがい」と言い始めてかららしいが、なぜ呼び名が変わったのかも興味あるところだ。

会津八一 1286

2016-12-22 19:53:14 | Weblog
会津八一に関するブログ 200

百済観音  2011・5・27(金)

 中宮寺から法隆寺大宝蔵院・百済観音堂に行く。会津八一は百済観音を詠んだ。

  奈良博物館にて(第2首)   解説

   くわんおん の せ に そふ あし の ひともと の 
          あさき みどり に はる たつ らし も
  

  奈良博物館にて(第3首)   解説

   ほほゑみて うつつごころ に あり たたす 
           くだらぼとけ に しく ものぞ なき


 いつ見ても細身の八頭身に驚き“これが八頭身なのだ!”と内心で叫んでしまう。そして、今にも落としそうな風情で水瓶を持つ左手に視線が行く。
 観音の光背を支える葦のほとんど見えない緑に春を感じ取った八一の感受性の深さに脱帽する。そして、うつつとも夢ともなき心地で立っておられると詠んだ第二首は観音礼賛の極致と言える。素晴らしい像と歌、良い時間を仲間達と過ごすことができた。

会津八一 1285

2016-12-21 20:01:16 | Weblog
会津八一に関するブログ 199

中宮寺・歌碑3 2011・5・21(土)

 会津八一はこの寺で「み仏の顎と肘のあたりにこの尼寺のかすかな朝の光が射し、なつかしく心ひかれることだ」という意味の歌を詠んだ。この歌はひっそりとした尼寺の淡い朝の光の中にある漆塗りのような黒い半跏思惟像が対象だが、現在の本堂では歌の良さが失われている。なぜなら、幾多の苦難の道(何度かの火事や移転等)を歩んだ中宮寺の本堂は1968年建立の耐火建造物で、歌の中の尼寺とは大きく違っている。その上、本堂から我々が想像するのは如来像なのに、如意輪観音あるいは弥勒菩薩と言われる仏が置かれていることにも違和感は否めない。本尊の脇侍であったであろうこの像には小さくて静寂なお堂が似合う。
 そうではあるが、この像に対座して八一の歌を味わうときは目を閉ざし、100年ほど前の尼寺を想ってみると良い。だれもが歌の素晴らしさと半跏思惟像の魅力に捕らわれてしまう。
 『この姿態柔婉な像が尼寺の尼達に護られかしづかれてゐることはいかにもふさわしいが、してみると、「あまでらの」という句も、尼寺だから尼寺といったといふ以上の趣致を一首に添えてゐることに気附く』   (吉野秀雄  鹿鳴集歌解)

会津八一 1284

2016-12-19 20:19:44 | Weblog
会津八一に関するブログ 198

中宮寺・歌碑2 2011・5・19(木)

 昨年11月29日建立の歌碑、その実現までの門跡・日比野光尊さんの活躍は4月8日に書いた。5月13日、友人達と一緒に中宮寺に出かけた。訪れるたびに新たな感動を呼び起こしてくれる本尊・木造菩薩半跏像を前に本堂でゆっくりした時間を過ごした。

 中宮寺にて   解説

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
          あさ の ひかり の ともしきろ かも


 この仏と共に八一の歌碑があることが嬉しい。


            (明日第3火曜日は休みます


会津八一 1283

2016-12-18 20:02:07 | Weblog
会津八一に関するブログ 197

夢殿と救世観音 2011・5・15(日)

 会津八一の歌碑を見て夢殿に入る。夢殿は厩戸皇子(聖徳太子)を偲んで天平11年(739)に建てられた。中央に聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音像が安置されている。
 修学旅行生の途切れる事のない列に押されてじっくりと見る事ができなかったのが残念だが、飛鳥仏としての特徴的な正面鑑賞用の仏と言える姿を脳裏に焼き付けた。金堂の釈迦三尊像(飛鳥仏)と共にアルカイックスマイルの面長の顔は特徴的である。その後見た白鳳仏である夢違観音との違いは大きい。夢違など白鳳仏は二面的=立体的で、かつそのおもざしが青年を想わせるリアルなものになっている。
 恩師・植田先生は著書でこう言う。「道人(八一)にとって伝説の救世観音が聖徳太子と等身であり、太子は観音の化身だった。小主観、小自在を拒絶して、完璧な澄みきった一首が生まれるためには、絶対者としてのみほとけと人間との出会いにすべてが賭けられているのであろう」大正時代、閑散とした法隆寺で救世観音に対峙した八一の心境には遠く及ばない。 

会津八一 1282

2016-12-17 20:26:37 | Weblog
会津八一に関するブログ 196

原家の歌碑 2011・5・13(金)

 夢殿の救世観音を詠んだ会津八一の歌碑は原家の庭に立っている。仲間たちと今日訪れ、やっと見る事が出来た。(生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目10番)

  夢殿の救世観音に   解説

   あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
         この さびしさ を きみ は ほほゑむ   


 歌碑の裏にはこう記されている。

      昭和五十四年五月十六日
                玉泉  原  與司明
                        光  子      建立
          撰 并 書        宮川 寅雄
          刻   工         太田 重喜
          用   石         神鍋山麓萬劫石

 歌碑の詳細が分からなかったが、今回知り得たことを表記しておく。

  この原家の歌碑は法隆寺に移転された。(2014・11・7)
   夢殿の近くに建立されている。


会津八一 1281

2016-12-16 23:53:37 | Weblog
会津八一に関するブログ 195

法隆寺再建論争 2011・5・9(月)

 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える、聖徳太子ゆかりの世界最古の木造建築寺院である。創建は推古天皇15年(607年)とされ、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているが、現存する法隆寺が焼失後再建されたという再建論者と建築様式の分析から(伝承どおり)創建のままであるとする人たちとの間で激しい論争が明治時代より行われてきた。会津八一は文献と実物(瓦など)の検証を唱えながら再建説をとり、独自の説を展開した。今では、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍・若草伽藍が1939年に発掘され、再建説が主流になっている。
 現在では木材の科学的な分析等により、607年創建ではなく7世紀後半が定説になっており、またスーパーヒーローと言える聖徳太子は当時の厩戸皇子のことで、太子の名は後の人が創作したことは定説化されている。
 近々、寺を訪れる予定だが遠い昔のことを想いながら歩いてみたい。

会津八一 1280

2016-12-15 20:22:23 | Weblog
会津八一に関するブログ 194

救世観音2 2011・4・24(日)

 4月16日に書いた救世観音は聖観音と同じ意味だが、日本にだけある名前だ。「くぜかんのん」と会津八一は書いているが、「くせ」「ぐせ」「ぐぜ」どの呼び名でも良いようだ。
 喜多 上(文芸評論家)は開帳されている法隆寺夢殿の秘仏救世観音について、フェノロサや八一の言葉を引用して語っている。秋艸会報31号から以下に転載。
 “この像は正面から見ると気高くはないが、側面ではギリシャ初期(アルカイック)の美術の高みに達していよう。(中略)しかし、最高に美しい形は横顔の見えにある。鼻は漢人のように高く、額は真直ぐで聡明である。唇は黒人に似てやや分厚く、静かで神秘的な微笑みが漂う(フェノロサ) 動の正面より静の側面を評価し、横顔の神秘の微笑みを絶賛しています。・・・この側面への着目が以後の仏像の見方を変えたといっても過言ではありません。・・・八一もフェノロサの先駆的な仕事を評価し、こう続けています。 “昔の日本人は仏教に対する信仰から、真正面より仏像を礼拝して其有難さも美しさも同時に感じたらしい。然し吾々としてはそれ程の信仰は無いから、側面から見て此像が何程美しくあり得るかを、今一度見なほす余地があるかも知れぬ” (卓話 會津八一の今日 喜多 上 12月21日 新潟・瑞光寺)