会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

會津八一 1237

2016-10-31 23:14:42 | Weblog
会津八一に関するブログ 151

あき ちかみ かも 2009・9・5(土) 

 窓からの風は涼しく、愛犬・うららは気持ちよく椅子の上で寝ている。文珍の落語「まんじゅう怖い」を久しぶりに聞きながら、昨日からの部屋の整理を続ける。観光やゴルフ場案内などの本はネットで代用できるので廃棄することにした。最後に本棚にある色紙の中から、秋の歌を選んで玄関の掛け軸を替えた。

 法隆寺村にやどりて      解説

   いかるが の さと の をとめ は よもすがら 
         きぬはた おれり あき ちかみ かも 

    (いかるがの里の乙女は夜もすがら衣機織れり秋近みかも)

会津八一 1236

2016-10-30 20:13:10 | Weblog
会津八一に関するブログ 150

図書館通い 2009・9・2(水) 

 大学在学中から、文壇の寵児として大活躍していた相馬御風と同郷(新潟)の会津八一は早大文学部時代から親交があった。ただ、八一は生家が経済的苦境に陥ったことなどもあって、在学中は図書館にこもってひたすら勉強するだけだった。卒業後も恵まれず、雪深い新潟の高校・有恒学舎の英語教師の職しかなかった。その後、1910年に坪内逍遙らの尽力で早稲田中学の教師になり、その後の学究の道を開く。
 43歳(1924年)の処女作「歌集・南京新唱」はほとんど売れず、短歌が世間に認められたのは59歳(1940年)の「鹿鳴集」による。だが、早大旧図書館が今では「会津八一記念館」になっているのだから、そこに図書館での学習とその後の学究の素晴らしさが表れている。

会津八一 1235

2016-10-29 19:58:45 | Weblog
会津八一に関するブログ 149

9月のはじめに 2009・9・1(火) 

 冷夏のように思えた8月だったが、残暑が厳しい9月になった。まだまだ、小犬・うららは冷蔵庫の前でアイスノンを出せと要求する。当分暑さは続きそうだ。
 7、8月と小さな円空仏を作っていて、制作が止まっていた香薬師像に今月は力を入れたい。顔は概ね彫りあげたが、八一が詠んだ「うつらまなこ(うっとりとした、特有の目つき)」を再現するのは難しい。

 香薬師を拝して     解説
  
   みほとけ の うつらまなこ に いにしへ の 
          やまとくにばら かすみて ある らし

     (み仏のうつら眼にいにしへの大和国原かすみてあるらし)

会津八一 1234

2016-10-28 20:37:46 | Weblog
会津八一に関するブログ 148

奈良の美人 2009・8・24(月)             

 安藤更生らが奈良の美人姉妹に心ときめかしたのは、大正末期、まだ20代前半の頃だが、若い仲間たちの間では「奈良には美人がいない」が通説だった。その話を聞いた先生の会津八一(40代)は「奈良に美人がゐないのは、奈良の男が甲斐性がないからだ。余所から美しいのを連れてくる力もないし、せっかく奈良で生まれた美人もこゝに留めて置く甲斐性がないのだ」と文化論?をぶったと言う。昭和40年頃には奈良で美人をよく見かけるようになったから、八一の説に従えば奈良の男も甲斐性が出てきたかも知れないと安藤は書いている。
 現在、奈良の商業界で活躍するSUの友人が、東京に遊学しその後奈良に帰って余所の美しい人を伴侶にしたのは昭和50年頃、奈良の甲斐性のある男の代表なのだ。

會津八一 1233

2016-10-27 20:43:10 | Weblog
会津八一に関するブログ 147

日吉館の由来 2009・8・23(日)             

 八一に師事した安藤更生の随筆に「奈良の美人」がある。その中に日吉館の名の由来が書いてある。「日吉館の先代、松太郎爺さんは、このKの家の山番だった。Kの家では松太郎夫妻が感心によく働いてくれるといふので、今の日吉館の後半部の方を増築して、下宿屋を出させてくれた。爺さんは貧乏な暮らしから、到頭一軒の店がもてるやうに出世したといふので、俺は日吉丸が太閤さまになったようなものだ、といふので、店を日吉館となづけたのである」
 このK家の姉妹が美人で、若い安藤更生や上司海雲が心ときめかした話が書いてある。

安藤更生(あんどう こうせい)
 美術史家。東京生。本名正輝。東京外大卒、早大中退。早稲田中学時代から会津八一に師事。八一と奈良美術研究会を始め、のち奈良に東洋美術研究会を創設。「東洋美術」を創刊。平凡社に入社後、中国滞留を経て早大教授となる。1970年没。

上司 海雲(かみつかさ かいうん)
 奈良市生。龍谷大学英文科卒。昭和14年、東大寺塔頭観音院住職。昭和47年、二百六世東大寺別当、華厳宗管長。名筆家、随筆家としても知られる。文化人サロンを形成し「観音院さん」の名で親しまれた。1975年没。

会津八一 1232

2016-10-26 19:56:59 | Weblog
会津八一に関するブログ 146

南京新唱(なんきょうしんしょう) 2009・6・13(土)

 会津八一の処女出版である歌集・南京新唱(99首)全ての解説を終えた。下記は終歌である。歌の地を訪れること、オリジナルな解説と写真を掲載することを念頭に、ほぼ7年かかった。その間、メルヘンの仲間や友人達、奈良の鹿鳴人の協力に支えられた。ありがとう。

 東京にかへりて後に          解説

   ならやま を さかりし ひ より あさ に け に
            みてら みほとけ おもかげ に たつ

      (平城山を離りし日より朝に日にみ寺み仏面影に立つ)

会津八一 1231

2016-10-25 20:16:47 | Weblog
会津八一に関するブログ 145

画家・中村彝(つね) 2009・6・2(火)

 先日出かけた東京国立近代美術館で、結核のため37歳でこの世を去った中村彝の作品に初めて出会った。「エロシェンコ像」である。この画家の名前を知ったのは、会津八一の随筆(渾齋隨筆)の中にある「中村彝君と私」である。
 2人は大正12年に一度だけ会った。八一の歌を愛唱する彝は、翌年12月20日に手紙でその歌を絶賛し4日後に亡くなる。「彝さんはこの方の歌を毎日唱ってゐるうちに、一度に喉がつまって亡くなったのだそうです」と駆け付けた八一が紹介されたと随筆にある。
 その他の八一文献からも知っていた中村彝の作品との出会いは、大好きな関根正二の作品とともに美術館での喜びだった。

会津八一 1230

2016-10-24 20:51:46 | Weblog
会津八一に関するブログ 144

6月になって 2009・6・1(月)

 数日前に孵化したと奈良から知らせがあった鈴虫が、我が家でも昨日から生まれだした。虫たちは身の安全のため、慎重に外気温を確かめてから誕生してくる。基準の温度が数日続かないと決して生まれない。自然の不思議、魅力的な所だ。
 紫陽花が咲き始めた。初夏から夏への始まりであり、山の緑が目に鮮やかな季節だ。

  東京にかへるとて         解説
   
    あをによし ならやま こえて さかる とも
         ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま

     (あをによし平城山越えて離るとも夢にし見えこ若草の山)

会津八一 1229

2016-10-23 20:14:30 | Weblog
会津八一に関するブログ 143

麦秋 2009・5・27(水)

 刈り入れを目前にした黄金色の美しい麦畑が、新聞やテレビで取り上げられている。麦秋(ばくしゅう)とは、麦の収穫期を迎えた梅雨前の初夏を言い、季語でもある。今では農機具が発達したので、刈り入れはコンバインなどで短時間に行われるが、昔は米も麦も植え付けから刈り入れまですべてが手作業だった。以下に八一の早稲の歌。

 汽車中(第2首)      解説
 
   わさだ かる をとめ が とも の かかふり の
          しろき を み つつ みち なら に いる

   (早稲田刈る乙女がとものかかふりの白きを見つつ道奈良に入る)

会津八一 1228

2016-10-22 22:59:12 | Weblog
会津八一に関するブログ 142

日吉館 2009・5・17(日)

 会津八一が定宿とし、また多くの文化人が愛した奈良の日吉館が取り壊されることになったと友人のブログに紹介されている。今後は店舗兼用住宅になると書かれている。この地の歴史的な意義を考えて、文化的な施設に変わるといいが、奈良博物館前の一等地で文化庁が現状変更を許可したとなるとそうもいくまい。(日吉館写真)

 春日野のやどりにて     解説

  かすがの の よ を さむみ かも さをしか の
         まち の ちまた を なき わたり ゆく

      (春日野の夜を寒みかも牡鹿の街の巷を鳴き渡りゆく)



会津八一 1227

2016-10-21 22:09:01 | Weblog
会津八一に関するブログ 141

蝦夷(えぞ、えみし、えびす) 2009・5・15(金)

 新潮・現代国語辞典によると、蝦夷(えぞ)はアイヌの旧称、また北海道の古称だが、角川・古語辞典によると、古語としては昔の大和朝廷に服従しなかった北関東以北に住んでいた人々を言い、室町時代以降は北海道、千島、樺太の名称である。
 会津八一は自らを「越の蝦夷」と詠んでいる。

  奈良にて(会津八一)     解説

   いにしへ の なら の みやびと いま あらば
          こし の えみし と あ を ことなさむ
      (古の奈良の宮人今あらば越の蝦夷と吾をことなさむ)

会津八一 1226

2016-10-20 21:09:33 | Weblog
会津八一に関するブログ 140

室生寺の歌 2009・5・9(土)

 昨日の室生寺は降り続いた雨で、シャクヤクは終わっていた。静謐とした寺の塔と仏たちをと思ったが、シャクヤク目当ての観光客の銀座だった。

 室生寺にて(第1首)   解説 

  ささやかに にぬり の たふ の たち すます
       このま に あそぶ やまざと の こら  

  (ささやかに丹塗りの塔の立ちすます木の間に遊ぶ山里の子ら)

 室生寺にて(第2首)   解説

  みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の
       あせ むす まで に しげる やまかな     

  (み仏の肘まろらなる柔肌の汗むすまでにしげる山かな)

会津八一 1225

2016-10-16 20:01:03 | Weblog
会津八一に関するブログ 139

レプリカ  2009・4・29(水)

 香薬師像(新薬師寺)は盗難に会い、レプリカでしか見れない。新薬師寺の開帳(レプリカだが)では、厨子の中で正面からしか見れなかった。昭和女子大所有のレプリカは、この春特別展示されたがやはり正面のみ。早大文学部の美術史学専修室にもあり、商用でなければ見学OK、写真撮影も許可が出た。
 仏像作りでは360度全ての角度から手本を見たい。寺では無理だが、国立博物館の特別展(薬師寺・日光月光、興福寺・阿修羅)などでは見ることができ、貴重な機会である。今回の東京行きは、次回作成予定の香薬師像のためだった。

     (都合により17日~19日は休みます

會津八一 1224

2016-10-15 20:34:22 | Weblog
会津八一に関するブログ 138

宮川寅雄「秋艸道人随聞」より  2009・4・22(水)

 「・・・かれ(会津八一)が努力し、達成する過程に求めたものは、円満と調和と妥協ではなくて、すこぶる険しい抵抗と反撥の道だった。かれの歩んだ道は、個性的で不羈(ふき)ですらあったことは、すこしでもかれを知るものにとっては周知のところだった。
 会津八一は、いわば圏外の人であり、孤高の道を歩んだ。学問においても、創作においても、つねに非正統をかざして、頑強に時流に抗した。その思想も文学も、きわめて肯定的であり、豊潤をめざしていたにもかかわらず、その形成の径路は、時流に否定的であり、反抗的ですらあった。・・・

 「円満と調和と妥協」の中にいる我が身に無い物を八一はすべて持っていた。全集12巻をやっと読み終えることが出来たのは、彼の全人的な魅力のおかげである。

會津八一 1223

2016-10-14 19:54:31 | Weblog
会津八一に関するブログ 137

秘仏開帳 2009・4・19(日)
 
 昨日友人たちと秘仏開帳の観心寺に出かけ、八一の歌に読まれているこの如意輪観音にやっと会うことができた。予想をはるかに上回る美しく妖艶な仏像だった。静寂の堂内ではなく、満座の人々の中に浮かび上がる仏を僧の話を聞きながら見るのも別の感慨があった。

  観心寺の本尊如意輪観音を拝して1     解説

   さきだちて そう が ささぐる ともしび に
         くしき ほとけ の まゆ あらは なり

     (さきだちて僧が捧ぐる灯火に奇しき仏の眉あらはなり)

  観心寺の本尊如意輪観音を拝して2     解説

   なまめきて ひざ に たて たる しろたへ の 
         ほとけ の ひぢ は うつつ とも なし

     (なまめきて膝に立てたる白妙の仏の肘はうつつともなし)