会津八一 鹿鳴集・南京続唱(十四首)
昭和3年10月十三首、昭和5年一首、計十四首。南京新唱(九十九首)、南京余唱(四十二首)に対する続唱である。
故植田重雄早大教授は南京続唱についてこう記している。
「昭和三年秋十月に、美術史研究のために奈良の諸寺を訪れ、十三首ほど生まれた。今までとはちがい学問考証に没頭し、歌は余滴のように詠まれている。・・・・以前の抒情的、パセティックな作品とちがい、一首一首が歌域(かいき)をひろめ、言葉が緊密な構造力をもっている。
昭和3年10月十三首、昭和5年一首、計十四首。南京新唱(九十九首)、南京余唱(四十二首)に対する続唱である。
故植田重雄早大教授は南京続唱についてこう記している。
「昭和三年秋十月に、美術史研究のために奈良の諸寺を訪れ、十三首ほど生まれた。今までとはちがい学問考証に没頭し、歌は余滴のように詠まれている。・・・・以前の抒情的、パセティックな作品とちがい、一首一首が歌域(かいき)をひろめ、言葉が緊密な構造力をもっている。
会津八一 鹿鳴集・小園(九首) 大正十三年前後より昭和九年に至る
(小園 さきに「村荘雑事」に詠みたると同じ庭園なり。自註鹿鳴集より)
親戚筋にあたる市島春城(しゅんじょう)の別荘「閑松庵」を無償で借りた八一はここを秋艸堂と名づけ、14年間生活した。下の不動谷を加えると3千坪もあった下落合秋艸堂は学問、芸術が成熟するのにとても役立った。
注 市島春城(1860~1944)
政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍した。八一の親戚にあたり、住居の借用など、学業から生活まで手助けした。
(小園 さきに「村荘雑事」に詠みたると同じ庭園なり。自註鹿鳴集より)
親戚筋にあたる市島春城(しゅんじょう)の別荘「閑松庵」を無償で借りた八一はここを秋艸堂と名づけ、14年間生活した。下の不動谷を加えると3千坪もあった下落合秋艸堂は学問、芸術が成熟するのにとても役立った。
注 市島春城(1860~1944)
政治家・文筆家。新潟県北蒲原郡生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍した。八一の親戚にあたり、住居の借用など、学業から生活まで手助けした。
京都東山のあたりをおもひて 解説
はる と いへど まだしき れんげわうゐん の
ひとき の やなぎ もえ いで に けむ
(春と言えどまだしき蓮華王院の一木の柳萌え出でにけむ)
会津八一 鹿鳴集・旅愁(十九首) 終り
はる と いへど まだしき れんげわうゐん の
ひとき の やなぎ もえ いで に けむ
(春と言えどまだしき蓮華王院の一木の柳萌え出でにけむ)
会津八一 鹿鳴集・旅愁(十九首) 終り