会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1091

2016-05-31 23:41:50 | Weblog
会津八一に関するブログ 5

おめでとうございます 2002・1・1

 皆さん、いい新年を迎えましたか?大晦日は親族で楽しく過ごした。紅白を見終わって諏訪神社に初詣。心新たに新年の御挨拶を送ります。ITを使った商店街の発展はここ1番に入る。PCスクールを柱にした情報センター4月設立へ過密スケジュールが続くがギスギスせず、穏やかさも持って進みたい。会津八一の歌から、ほのかなぬくもりを感じて下さい。

    春日野にて(第8首)                 解説
     もりかげ の ふじ の ふるね に よる しか の
                  ねむり しづけき はる の ゆき かな

      「森かげの藤の古根による鹿のねむり静けき春の雪かな」 
                    歌集 鹿鳴集・南京(なんきょう)新唱より

会津八一 1090

2016-05-30 20:00:39 | Weblog
会津八一に関するブログ 4

十一面観音 2001・12・10

 信心には乏しいのだが、仏像を見るのは好きだ。十一の仏を一体に表現し、衆生に広く救いの手を差し伸べる。奇異に思えるが悠久の流れの中で苦労して仏を人体を通して具現化した仏師たちは素晴らしい。光明皇后を表したといわれる奈良・法華寺の艶やかな観音は会津八一をして、その歌で「赤きくちびる」と言わしめ、お堅い短歌界で賛否の論争になった。
 奈良桜井の聖林寺の観音はただ見入るばかりだ。若い和辻哲郎が圧倒された意味が良くわかる。良いものはやっぱりいい。素晴らしい物を求め、良い仕事をしたいですね。時間に追われて不本意なことはしたくないが難しい。

  法華寺温室懐古(第2首)    解説
   からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に
                 うみ に あきたる あかき くちびる

会津八一 1089

2016-05-29 20:15:05 | Weblog
会津八一に関するブログ 3

鬼のふんばり2 2001・8・26

 ハッピー姫が初掲載した写真「鬼のふんばり」の時にどうしても思い出せなかった八一の歌を紹介する。東大寺三月堂は仏像の宝庫、人気のない堂内で仏像に圧倒されながら、悠久の時を感じる贅沢を味わってみてはどうですか。

  三月堂にて 会津八一 (鹿鳴集 観仏三昧)      解説
   びしゃもん の おもき かかと に まろび ふす
          おに の もだえ も ちとせ へ に けむ


    「毘沙門天=多聞天の重い踵に踏み押さえられて転び伏している
     邪鬼の苦しい悶えももう千年の年を経ることになるのだなー」

会津八一 1088

2016-05-28 19:59:35 | Weblog
会津八一に関するブログ 2

燈花会・万灯籠(奈良) 2001・8・14

 仲間と8人、奈良の同級生・鹿鳴人さんを頼って出かけた。お盆に大仏殿の上部窓が開放され、大仏の顔を遠くから見る事が出来る。いつもと違う幻想的で美しいお顔を初めて見た。沢山の灯篭とろうそくの明かりで浮かび上がる古都の素晴らしさを満喫してきた。再び会津八一から。
  東大寺にて                       解説
    おほらかに もろて の ゆびを ひらかせて
             おほき ほとけ は あまたらし たり
   「ゆっくりと大きく、両手の指をお開きになって、
     大仏様は宇宙空間一ぱいに偏満したお姿であられます」

              (この歌碑は南大門と大仏殿の間にある)

                        会津八一の歌と解説へ


会津八一 1087

2016-05-27 20:41:08 | Weblog
 昨日で「会津八一の歌と解説」で書いたものをすべてこのブログに掲載し終えた。「会津八一の歌と解説」は10数年かかって完成させたものだ。その間、折につけ「素空の部屋(SURUMEの部屋)」で書いてきた会津八一関連の小文を今日から再現していく。

会津八一に関するブログ 1

邪鬼 2001・8・13

 一日一写真にハッピー姫が「鬼のふんばり」を載せてくれた。珍しい写真、ご苦労様。歌人会津八一は仏像に踏みつけられている邪鬼を詠んだ。
  西大寺の四王堂にて (南京新唱より)            解説
    まがつみ は いま の うつつ に ありこせ ど 
            ふみし ほとけ の ゆくへ しらず も

 「踏みつけられていた邪鬼は今もこのように残っているが、踏みつけていた御仏は(焼失して)行方知れず、今はもう見る事が出来ないのだなー」
 SURUME14日奈良の燈火会・万灯篭を見に行ってきます。

会津八一 1086

2016-05-26 19:56:54 | Weblog
星占い6・八一の歌の意味 (完)
 
 太陽を詠む(第2首)
   おほそらの獅子の宮居にやどる日のゆうをよき日とあをうましけむ
 星占いから考えて、意味は
 「太陽が獅子宮(獅子座の方向にある7月23日ー 8月22日)にある時の夕方を良い日と定めて私を生んでくれたのであろう」となるだろう。
 太陽を詠むの第1首は
   ひのかみのこがねのむちにおどろきてそらにみだるるあかつきのくも
 「夜明けの太陽の輝く陽射しに驚いたように暁の雲が乱れている」と言う意味だと思うが、歌としては2首とも凡作である。
 八一の解説ページの読者の質問に、西洋占星術の仕組みを学習しながら上記の結論を出した。
 「世の中には知らないことが多い」が感想だが、連れ合いに「獅子座、知っているよ。私が生まれた時だよ」と言われた。

会津八一 1085

2016-05-25 20:09:04 | Weblog
星占い5・西洋占星術2
 
 占星術を地球を中心にし、太陽が動くと考えると以下になる。
 地球から見て、太陽が一年かけて地球の周りを一周する時に描く天球上の大円を黄道といい、これを一二等分したものが十二宮で、太陽が一カ月ごとにこれらの宮を順に移動すると考えられた。それぞれ星座の名前でもって呼ばれ、それが占星術の十二星座になっている。
 誕生時に太陽が十二宮のどの宮(サイン)に位置したかにより、その人物の性格や相性、運命などを占う。
            
      <

会津八一 1084

2016-05-24 19:43:28 | Weblog
星占い4・西洋占星術1
 
 「獅子の宮居」とは獅子座(7月23日ー 8月22日)の事だと言うことにたどり着いたが、事は簡単ではない。若い時から「占い」に関心がなかったので星占いを理解するまでに時間がかかった。わかっているのは8月1日生れの八一は占星術で獅子座(生れ)と言うことだけ。
 西洋占星術について国立科学博物館のHPから以下を転載する。
 「ある人の誕生日と星座を結びつけ、その人の性格や運勢を占うのが星占い、西洋占星術とよばれるものです。
 太陽や月、惑星は星座を作る星(恒星)とことなり、星座の間を動いて行きます。そこで占星術では、生まれたときにこれらの天体が位置する星座の性格が、その人の一生を決めると考えます。特に、私たちの生活にもっとも影響する太陽の位置する星座が、基本的な運勢・性格を決めています。星座の中で太陽の動くみちすじを黄道とよびますが、黄道にそった12の星座を黄道12星座とよんでいます。じっさいの星座には大小があり、太陽が位置する期間もまちまちなので、占星術では星座(Constellation)のかわりに宮(Sign)とよび、1年を12等分して黄道12宮とよびます。
 星座(宮)の性格とは、その名前から連想される性格です。たとえば、しし座は勇猛な性格、てんびん座はかたよりなくバランスをとる性格、というように説明されます。・・・・


          
            

会津八一 1083

2016-05-23 20:02:24 | Weblog
星占い3・古代ギリシャへの憧れ 

 少し星占いからそれるが、八一が「日本希臘学会」(大正9年)を設立した翌年、長野の山田温泉で詠んだ「山中高歌10首」の第6、7首を紹介したい。古代ギリシャの神々に精通した歌である。
  いにしへ の ヘラス の くに の おほがみ を
           あふぐ が ごとき くも の まはしら     
第6首
      (いにしへのヘラスの国の大神を仰ぐがごとき雲の真柱)
 「古代ギリシャの偉大なゼウスの神像を仰ぎ見るような雲の柱であることよ」と詠み
  あをぞら の ひる の うつつ に あらはれて
           われ に こたへよ いにしへ の かみ
   第7首
      (青空の昼のうつつに現れて我に答えよ古の神)
 「青空が広がるこの現実の世界に姿を現して、憂患の中にある私の呼びかけと問いに古代ギリシャの神よ、答えてください」と叫んだ。
 「この時代は、兄のギリシャが奈良の弟をいつも連れそって歩いていた」(植田重雄)が、この後、八一は奈良美術の研究に没頭して行くのである。
 話を星占いに戻そう。

会津八一 1082

2016-05-22 20:01:29 | Weblog
星占い2・獅子座の人
 
 英語教師をした新潟で星座を研究した八一にはこんな俳句がある。
    「日の暮れて獅子座に飛ぶや赤蜻蛉
    「星ならば君は何星夕涼み」(先輩の博士を偲んで)
 新潟から戻った早稲田中学教師時代に少しの間だったが「古代希臘学会」(大正5年)から「日本希臘学会」(大正9年)を設立し会長として活動する。その頃に「おれはもともと獅子座の住人なのだが、縁あってこの地球に生れてきた。縁尽きれば、またわしは獅子座に帰ってゆくのだ」と八一は言っている。
 星座を研究した八一が獅子座の住人と言うことは、彼は星占い(西洋占星術)にも精通していたと思われる。占星術で獅子座は、7月23日ー 8月22日に生れた人の性格や相性、運命を占うとある。八一は8月1日に生れている。


会津八一 1081

2016-05-21 20:34:34 | Weblog
星占い1・歌の意味がわからない 

 太陽を詠む(第2首)
   おほそらの獅子の宮居にやどる日のゆうをよき日とあをうましけむ
 上記の歌は會津八一の歌。本人が没にしたものだが、彼の死後、拾遺の中に取り上げられている。メールでこの歌の意味を問われたが、さっぱりわからない。
 八一だから、日本の古代に関係があるだろうと「獅子の宮居」を友人の宮司に聞いたがわからない。
 とりあえず、直訳して「(太陽が)大空の獅子の宮(住家)に泊まる(沈む)日の夕方を良い日だとして私をお産みになったのだろう」としたが、全く意味をなさない。
 その後、八一が大学卒業後英語教師として赴任した新潟の寒村(板倉村)で星座を観測していたことを思い出した。学生時代に小泉八雲に学んだ詩人キーツ(卒論になっている)などから古典ギリシャへと進み、ギリシャ神話の神々の名がつけられている星座に興味を持ったのは自然だ。
 「獅子の宮居」とは西洋占星術の星座(獅子座)の事だったのだ。
 八一は板倉村で5年過ごしたが、その時星座の研究に時間を割いている。「田園に灯をとぼして夜な夜な狸が立っている」と言う噂が立ったが、それは提灯を持って星図を読み、星を見ていた八一だった。
 当時の親友への手紙で失恋した彼女(渡辺文子)を「(君と)我が恋ふる人とをたとえなば、・・・・、彼女は北天のLyraか」と書いている。
                                “Lyraは琴座(りらざ)の星”     

会津八一 1080

2016-05-20 20:02:12 | Weblog
會津八一の生涯 (年 表) 

 會津八一は1881年(明治14)8月1日に新潟市古町通五番町に生まれる。“八一”と言う名は生まれた日による。1946年(昭和31)11月21日新潟で永眠(75歳)。美術史家、歌人、書家で、号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)等である。
 1906年(明治39)早稲田大学文学部を卒業、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授になる。独自の歌、書で世に知られる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくり、1924年(大正13)に歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を上梓(じょうし)する。その後南京新唱を含む「鹿鳴集(ろくめいしゅう)」「山光集(さんこうしゅう)」「寒燈集(かんとうしゅう)」を出版、生涯に千首余の歌を詠む。オリジナリティに富んだ書は独自の世界を切り開き、ファンが多い。
 学者としては1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」で学位を受け、美術史を早大で教える。
 1945年(昭和20年)戦災で東京から新潟に移った後は、夕刊新潟社の社長、後に新潟日報社の社賓となり、新潟の文化向上のためにも尽くした。

 年 表
1881年(明治14)    新潟市古町通五番町に生まれる(8月1日)
                 父、政次郎、母、イク。八一は3男4女の次男
1895年(明治28)14歳 新潟県尋常中学校(現県立新潟高等学校)入学
1899年(明治32)18歳 俳句を始め、万葉集や良寛らの歌を読む
                  この頃、尾崎紅葉、坪内逍遥に会う
1900年(明治33)19歳 高校を卒業、上京し正岡子規と面会、その後脚気を病み帰郷
1901年(明治34)20歳 「東北日報」「新潟新聞」の俳句選者となる
1902年(明治35)21歳 東京専門学校(現早稲田大学)高等予科に入学
                  翌年早稲田大学文学科に入学
1906年(明治39)25歳 大学卒業、 英語教師として新潟県中頚城(なかくびき)郡
                板倉村の有恒学舎(現県立有恒高等学校)に赴任
1908年(明治41)27歳 初めて奈良に旅行し、20首の短歌を詠む
1910年(明治43)29歳 坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校英語教師になる
1924年(大正13)43歳 第1歌集「南京新唱」刊行
1925年(大正14)44歳 早稲田大学附属高等学院教授となる
1926年(大正15)45歳 早稲田大学文学部講師となり東洋美術史を講義
1931年(昭和 6)50歳 早稲田大学文学部教授となる
1938年(昭和13)57歳 早稲田大学文学部に藝術学専攻科を設置し主任教授となる
1940年(昭和15)59歳 歌集「鹿鳴集」刊行
1942年(昭和17)61歳 随筆集「渾齋随筆」刊行
1944年(昭和19)63歳 歌集「山光集」刊行
1945年(昭和20)64歳 早稲田大学教授を辞任
                  空襲により罹災し、新潟県北蒲原郡中条町へ
                  7月10日、養女きい子亡くなる(33歳)
1946年(昭和21)65歳 夕刊新潟社の社長に就任
1947年(昭和22)66歳 歌集「寒燈集」刊行
1948年(昭和23)67歳 早稲田大学名誉教授となる
1948年(昭和24)68歳 従兄弟中山後郎の娘蘭を養女とする
1950年(昭和25)69歳 新潟日報社の社賓となる
1953年(昭和28)72歳 宮中歌会始の召人となる
                  「自註鹿鳴集」を刊行
1955年(昭和30)74歳 香川県五剣山八栗寺の鐘銘を揮毫
1956年(昭和31)75歳 11月21日、冠状動脈硬化症により新潟大学付属病院
                 で永眠

会津八一 1079

2016-05-19 23:34:22 | Weblog
最後の奈良見学旅行11(完)
   「秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年(植田重雄著)」
  
 郷里に帰ると、待ちかねていた家族、親戚、知人、友人と別れの挨拶をするのに忙しく、どのようにして入隊前の日々を過ごしたか分からない。沢山の護符や、千人針の腹巻きをもらった。十二月一日、中部三部隊(旧歩兵第三十四連隊)に入営すべく、幾人かの人々と一しょに郷里の方々に見送られ、藤相鉄道の相良駅の車窓に立った。発車前、さかんに別れと励ましの言葉を受け、万歳の声とともに小旗が一せいに振られた。やがて、軽便が動き出すと、駅の隅で、祖母が小旗を持ってじっと見ていた。
 わたしは四歳のとき、母を亡くしているので、祖母が母代りをしてくれていた。
 二十一日、會津先生は人々に扶けられ、ようやく東京に戻ることができたが、肺炎で危篤となり、五ヶ月も病床に臥し、生涯でもっとも大きい病気となった。また眼の病いにも犯された。その間、献身的に看病したのが、養女のきい子さんである。きい子さんも過労で結核に犯され、ついに『山鳩』『観音堂』の悲劇となる。やがて、昭和二十年、六十歳以上の人々は大学を辞職し、疎開の準備に取り掛かる。その時、空襲に遭い、万巻の書籍、資料を焼失し、故郷新潟に帰り、最晩年を過ごされた。
 この昭和十八年、学徒出陣の折の奈良見学旅行が、會津先生にとっても学生にとっても最後の旅行となった。


 「最後の奈良見学旅行」は以上で終わる。會津八一は1956年(昭和31年)11月16日永眠。植田重雄は2006年(平成18年)5月14日に亡くなった。同年6月3日のお別れ会(早稲田教会)に参列し、師に感謝とお別れをしてきた。

会津八一 1078

2016-05-18 20:19:38 | Weblog
最後の奈良見学旅行10
   「秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年(植田重雄著)」

  別れにあたり、わたしはおそるおそる一首を差し出し、「先生、今日でお別れします。これをお読み下さい。日の丸もお願いします」と日章旗を前に出した。その歌はつぎのような歌である。
 みいくさに出征(いで)たつわれや大和路のもゆる夕日をいつかまた見む
 道人はしばらく黙っていたが、
「植田、どんな戦場に行こうとも必ず歌を詠め、どんなことがあっても歌をわすれるな」
 と激しい声でわたしに向かって叫ばれた。日の丸に「祈武運長久 植田重雄君」、墨痕淋漓と書いて下さった。憔悴して苦しそうだった道人は、墨のかわく間じっと眼をつむっていたが、
「戦争はいつまでもつづくというものではない。戦争は終る。その時は研究をつづけるのだ」
 といわれた。有難いことであった。わたしも郷里の家に帰らなければならない。あわてて身支度をととのえ、お別れした。しかし、心の中でもうお別れですと暗然と呟いた。
 みほとけのきみがみ歌を口ずさみ大和路をゆく今日をかぎりに
 師と別れいそぎ故郷に帰りたり荒寥として独り行く道


 師弟ともに出征を望んでいるわけではない。「歌を詠め」「研究を続けるのだ」八一の声が聞えてくる。植田先生は戦後、大学に戻り宗教倫理学をメインにしながら、會津八一研究の労作を出版した。

会津八一 1077

2016-05-16 19:58:38 | Weblog
最後の奈良見学旅行9  
   「秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年(植田重雄著)」

 十八日、道人は當麻寺から高野山金剛峰寺にゆき、明王院に泊った。山中は、はや雪が積り、疲労と寒さで風邪をこじらせたらしいが、十九日の朝、秘宝赤不動を拝して感動の十一首が生まれた。
 うつせみ の ちしほ みなぎり とこしへ に 
            もえ さり ゆく か ひと の よ の ため に 
 あかふどう わが をろがめば ときじく の 
            こゆき ふり く も のき の ひさし に 
 この見学旅行は、たんに仏像や古寺を巡る旅ではなく、戦争の動乱の中で大学が解体、学問を停止し、師弟が最後の別離、みほとけとのお別れであったから、悲愴な想いが道人の歌にもこもっている。


 上記二首は、山光集・明王院の前書に「十九日高野山明王院に於て秘宝赤不動を拜すまことに希世の珍なりその図幽怪神異これに向ふものをして舌慄へ胸戦き円珍が遠く晩唐より将来せる台密の面目を髣髴せしむるに足る予はその後疾を得て京に還り病室の素壁に面してその印象を追想し成すところ即ちこの十一首なり」と書いた八一の赤不動を詠んだ力作である。

               ー明日第3火曜日は休みますー