会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1679

2018-01-31 19:25:37 | Weblog
会津八一に関するブログ 586

斑鳩・第5首(会津八一) 2015・10・5(月) 解説

 八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第5首)
  
  こまどり の なき の まにまに わが とも の
            かがやく まなこ わらわべ の ごと


 「読書力旺盛で、才気煥発、学問は秀れているかもしれないが、大塚の鳥屋では友はまるで子供である・・・」 (會津八一の芸術 植田重雄著)

会津八一 1678

2018-01-30 19:55:52 | Weblog
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10月の初めに 2015・10・1(木)

 寝起きにぽんすけ(人形)が叫ぶ。「運動会しよう!一等だよ、きっと!」透き通るような秋空のもとで子供達が跳ね飛び遊ぶ。その光景を思い浮かべながら小さい頃を追想してみるのもいいね。
 秋の空と言えば、この歌に尽きる。天女の衣の間から美しく澄んだ秋の空が見える。

  すゐえん の あまつ をとめ が ころもで の 
          ひま にも すめる あき の そら かな    

  (水煙の天つ乙女が衣手のひまにも澄める秋の空かな) 八一  解説

 上記は10年前の10月1日のブログ。お話するぽんすけ(人形)は、しゃべり過ぎでやかましいので、今は電池を抜き取られている。
 いい歌は年月を経ても変わらない。薬師寺に出かけて東塔の水煙の向こうの秋の空を見上げたいが、解体修理中で平成31年まで無理だ。

会津八一 1677

2018-01-29 18:41:19 | Weblog
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斑鳩・第4首(会津八一) 2015・9・28(月) 解説
 
 八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第4首)
  
  ふみ あまた とも は よめれど おほつか の
           とりや に たてば わらわべ の ごと

   (文あまた友は読めれど大塚の鳥屋に立てば童部のごと)

 同行した大学教授(山口剛)も鳥たちの前では子供のようだと詠う。

会津八一 1676

2018-01-28 19:07:42 | Weblog
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斑鳩・第3首(会津八一) 2015・9・24(木) 解説

 八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第3首)
  
  いたり つく とりや が みせ の ももどり の
            もろごゑ しぬぎ こま ぞ なく なり

      (至り着く鳥屋が店の百鳥も諸声しぬぎ駒ぞ鳴くなり)

 ヒンカラカラカラと高い声で美しく鳴く駒鳥の声が群を抜いていたと詠む。

会津八一 1675

2018-01-27 20:11:05 | Weblog
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枕草子(三十五段)・池は 2015・9・23(水)

 をかし(趣がある、興味深い、心が引かれる)と思った池を書く。その基準は詩歌によるところが大きい。(原文へ

 推奨する磐余(いわれ)の池は、大津皇子の辞世の歌で有名。

  百伝(もも)伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
  (磐余の池に鳴く鴨を見ることも今日まで、もう死ななくてはならないのだ)

 猿沢の池は采女が身投げしたと聞いて、帝がわざわざ行幸したことが素晴らしいと言い、その時の事を柿本人麿の歌から想像する。

  わぎもこのねくたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞかなしき
  (愛する人の寝乱れた髪を猿沢の池の美しい藻かと思って見るのが悲しい)

 筆者はもちろん会津八一の歌を思い出す。

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
       いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら  
解説

 枕草子は気楽に現代語訳だけを読んで楽しめばいい。訳を以下に書く。

 池は勝間田の池。盤余の池が心ひかれる。贄野(にえの)の池は、初瀬(長谷寺)にお参りした時、水鳥がたくさん隙間なく並んでいて、騒がしく一斉に飛び立っていったのが、とても素晴らしい面白かった。
 水無しの池というのは、池なのにどうしてこのような名前を付けたのだろうかと聞いてみると返事は「雨の多い五月など、とにかくいつもより雨が激しく降ろうとする年には、この池には水が全く無くなってしまう。反対に、日照りが続く年には、春の初めに大量の水が湧き出てくる」、「いつも水が全く無かったら、水無しの池という名前をつけても良いが、水が出る季節もあるというのに、一方的に名前を付けてしまったものですね」と言いたくなった。
 猿沢の池は、采女が身投げしたことをお聞きになって、帝が行幸なされたことがある池、その帝のお心がけは非常に素晴らしいものである。「寝くたれ髪を」と、人丸(人麿)が詠んだというその時の光景を思うと、何とも言いようがない。
 御前の池は、どういった由来があってこの名前を付けたのだろうかと、知りたくなる。鏡の池、狭山の池は、あの三稜草(みくり)を詠んだ歌が風情があるので、心ひかれる。
 こいぬまの池。原の池は、「玉藻を刈るな」という歌があるので面白く思う。


会津八一 1674

2018-01-26 19:57:53 | Weblog
会津八一に関するブログ 581

斑鳩・第2首(会津八一) 2015・9・20(日) 解説

 八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第2首) 

  みち の べ は なつび てらせる ごこくじ の 
             かど めぐり ゆく おほつかなかまち

    (道の辺は夏日照らせる護国寺の角巡りゆく大塚仲道)

 早大から護国寺まで1Km、大塚の鳥屋へは2Kmも無かったので30分ぐらい歩いたのだろう。買い物前の楽しい時間である。

会津八一 1673

2018-01-25 19:21:06 | Weblog
会津八一に関するブログ 580

斑鳩・第1首(会津八一) 2015・9・16(水) 解説

 八月二十三日友人山口剛を誘いて大塚に小鳥を買ふ(第1首) 
 
  とりかご を て に とり さげて とも と わが
             とり かひ に ゆく おほつかなかまち

    (鳥籠を手に取り下げて友と我鳥買ひに行く大塚仲町)

 親友山口剛と大塚中町へ小鳥を買いに行った時の歌12首。八一は鳥や植物を愛した。  


会津八一 1672

2018-01-24 19:01:32 | Weblog
会津八一に関するブログ 579

斑鳩・12首(会津八一) 2015・9・12(土)

 斑鳩 いかるが。珠数掛鳩(じゆずかけばと)をいふ。雀科の鴲(シメ)に似たる一種とする説あるも、作者は採らず。この名につきて従来の国語事典の定義まちまちにて一致せず。中には全く異る二種の鳥の属性を総合して一種として書けるもあり。それにつきて『渾斎随筆』のうちに詳説したり。      (自註鹿鳴集より)
   
 親友山口剛(早稲田大学教授・国文学者)を誘って小鳥を買いに行った時の作品である。八一の心温かい山口剛へのまなざし、鳥たちへの思いが優しく詠われる。                      斑鳩目次

会津八一 1671

2018-01-23 19:10:55 | Weblog
会津八一に関するブログ 578

南京余唱・第42首(会津八一) 2015・9・8(火) 解説

 嵐山
                                 
  だいひかく うつら うつら に のぼり きて 
         をか の かなた の みやこ を ぞ みる

  (大悲閣うつらうつらに登り来て丘の彼方の都をぞ見る)

 南京余唱の最後の歌。過日、同じような場所から京都を眺めたが、素晴らしい光景だった。

 お詫び 
   昨日はアップを忘れてしまいました。ごめんなさい。

会津八一 1670

2018-01-21 19:00:11 | Weblog
会津八一に関するブログ 577

南京余唱・第41首(会津八一) 2015・9・2(水) 解説

 太秦の広隆寺の宝庫にて
                   
  あさひ さす しろき みかげ の きだはし を
            さきて うづむる けいとう の はな

   (朝日さす白き御影のきだはしを咲きて埋むる鶏頭の花)

 葉鶏頭を愛して、雁来紅(葉鶏頭)16首を詠んでいる。我家でも今、葉鶏頭が美しく咲いている。

会津八一 1669

2018-01-20 18:56:50 | Weblog
会津八一に関するブログ 576

小泉八雲と3男・清 2015・8・28(金)

 「怪談」の著者としてしか知らなかった小泉八雲・ラフカディオ=ハーン(1850~1904)の随筆「知られざる日本の面影」の解説をテレビで見た。そこで初めて生い立ちその他を知った。
 アイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれたが、父母の離婚により、アイルランドに住む大叔母の元へ。16歳の時に左目を失明(このため彼の写真は右からの横顔しかない)、大叔母の破産などの不幸の後、19歳でアメリカへ。新聞記者や翻訳などを手がける。1890年に来日、日本が気にいり定住し、妻・セツとの間に4人の子供をもうけた。島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師を皮きりに、1896年に東京大学、1904年3月に早稲田大学に勤務したが同年9月に狭心症で亡くなる(54歳)。
 また、八雲は会津八一とも関連があった。そのことは會津八一記念館に簡単に紹介されているが、補足すると東大を追われるように退官した八雲を他の教師たちと運動して早大に招聘したのは八一だった。また、子供達の教師(早稲田中学時代)として八雲亡き後も面倒を見たのは八一である。とりわけ3男・清(画家)は八一を師と仰いだ。
 テレビから八一や小泉清の事を思い出したが、八一の死(1956年)の6年後糟糠の妻・静子(1961年死亡)の後を追うように清はガス自殺する。遺書にある「血が複雑すぎたのだろう」から八雲の生い立ちを想った。
 「浅草の善光寺でもどこでもよいから骨は、ママと一緒に葬ってくれ。意志の力ではどうにでも出来ないわたしのことについて、何も弁解することはできないのだ。要するにアブノーマルな男としての自分の生涯だけであった。これはどうにもならぬ宿命だった。血が複雑すぎたのだろう。みんな生き抜く立派な力を以って、らん子、閏、一枝、ゴーディ、仲よく愛し合って人生を肯定して生きてくれ。この上もない迷惑ばかりかけつづけた

会津八一 1668

2018-01-19 23:46:53 | Weblog
会津八一に関するブログ 575

南京余唱・第40首(会津八一) 2015・8・27(木) 

 鹿の鳴くをききて(第2首)   解説
                   
  しか なきて なら は さびし と しる ひと も 
          わが もふ ごとく しる と いはめ や も

   (鹿鳴きて奈良は寂しと知る人も我が思ふごとく知ると言はめやも)

 これほどまでに古都への哀傷を詠った歌は無い。八一の奈良への愛情を深く感じる。 

会津八一 1667

2018-01-18 21:15:08 | Weblog
会津八一に関するブログ 574

会津八一の歌碑建立 2015・8・24(月)

 昭和20年7月10日に咽頭結核で亡くなった養女きい子への八一の挽歌・山鳩(21首)の第二首を刻んだ歌碑が先月新潟県胎内市の柴橋庵に建立された。きい子の命日である7月10日に除幕式が行われた。

 やまばと の とよもす やど の しづもり に    解説
          なれ は も ゆく か ねむる ごとく に
 
  (山鳩のとよもす宿のしづもりになれはも逝くか眠る如くに)

 この建立計画については去年のブログ「きい子を追悼する歌の碑」(9月28日)で書いた。改めてこの歌に接すると八一の代表作、古都奈良を叙景的に読んだ「南京新唱」との大きな違いを実感する。
 最愛の養女・きい子への挽歌・山鳩は、八一の悲しみの心を静かに抒情的に詠いあげる。山鳩21首を味わってもらいたいが、その前に歌に関する彼の序(大意)を読んで欲しい。 

会津八一 1666

2018-01-17 18:46:36 | Weblog
会津八一に関するブログ 573

南京余唱・第39首(会津八一) 2015・8・20(木) 解説

 鹿の鳴くをききて(第1首)
                   
  しか なきて かかる さびしき ゆふべ とも 
           しらで ひともす なら の まちかど

  (鹿鳴きてかかる寂しき夕べとも知らで灯ともす奈良の街角)

 古都奈良を愛した八一は寺や仏像の荒廃した姿を背景にして寂寥感を持って詠う。

会津八一 1665

2018-01-15 18:44:33 | Weblog
会津八一に関するブログ 572

南京余唱・第38首(会津八一) 2015・8・15(土) 解説

 東大寺の某院を訪ねて
                     
  おとなへば そう たち いでて おぼろげに 
         われ を むかふる いしだたみ かな 

  (おとなへば僧立ち出でておぼろげに我を迎ふる石畳かな)

 出迎えた東大寺・観音院の僧のおぼろげな顔(誰なんだろう?)をとらえ、その一瞬を詠う。

   (明日第3火曜日は休みます