会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

高村光太郎13(完)   素空

2012-03-28 23:44:29 | Weblog
 高村光太郎について書き出したのは、彼の詩集を読み終えたのが端緒である。だが、詩集を読みだしたのは吉本隆明の「高村光太郎」による。3月16日吉本は亡くなり、その存在が大きくマスコミで取り上げられていることは何かの因縁があるかもしれない。団塊の世代の多くは吉本に大きな影響を受けたと言えるが、各種報道の底の浅さを見ていると現在の少し若いと思われる報道関係者にはもう彼の思想を捉える力は無さそうだ。
 そのことはさておいて、高村と吉本の終戦時における挫折とその後の姿勢を今回は明らかにしたかった。戦後、崩壊した自らの立脚点(思想)を借り物の思想で置き変えることなく、考え抜くことによって新たな思想や道筋を作りだしたことを評価する。
 そうしたことを知り得たからこそ、若い時に接した高村の「道程」や「智恵子抄」が新たな視点から内容豊かに迫って来るのである。
 また、彼らの生き様は素空自らにも跳ね返ってくる。遠い昔の挫折を「借り物の思想」で置き換えはしなかったが、残念ながら自らが自前の思想を紡ぐほどの能力も努力もなかったことを悔いている。

高村光太郎12   素空

2012-03-18 20:23:34 | Weblog
 脱原発を宣言した全日本仏教会の河野太通会長は言う。「日中・太平洋戦争で仏教の教団は何をしたか。戦争反対の声は上げず、信徒から集めた寄付金で、軍に戦闘機を贈ったこともあった。それでも戦後しばらくは、懺悔もしていない。そういうことでいいのかと思い続けてきた」「あの戦争の時、宗教者が国家に順応して戦争に協力してきたことと、原発問題に口を閉ざす雰囲気が重なる。原発事故で故郷を離れざるを得ない人々のことを思えば、命の尊厳を唱える仏教者として原発は持ってはいけないものだ。生活のあり方を見直し、原発を必要としない社会をめざすべきだ」(朝日新聞3月11日より)
 遅きに失したとはいえ、宗教家による戦争への反省が述べられている。戦後すぐに7年の隠遁生活に入った高村光太郎とは違って、多くの芸術家や文学者、思想家が何の反省も無くイデオロギーを横滑りさせていったことは醜悪この上ない。この人たちに比べればこの宗教家の反省は尊い。
 ただ、原発事故以後の廃止への流れは、一年経っただけなのにもう続行の方向に傾きつつある。「喉元過ぎれば・・・」ではあまりにも原発問題への洞察が軽すぎる。
 大事なことは「電力」なのか「人間」なのか、考えなくても答えは出ている。

        「3月16日、吉本隆明氏(87)死去 合掌」

高村光太郎11   素空

2012-03-14 23:16:41 | Weblog
 吉本隆明は終戦時の高村光太郎の「一億の号泣」を読んで、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。なぜなら、それまで2人が信奉してきた価値観、とりわけ天皇制ファシズムが崩壊した中で彼は新たな立脚点になる思想的拠り所を模索し始めていたからである。
 しかし、高村は「一憶の号泣」後、全ての活動を停止し「戦争責任」を自問して7年間岩手での隠遁生活をする。そのため吉本は彼を評価することになる。(ただ高村の反省に疑問を呈する人もいるが)
 高村はこう語った。「何も偉いことはありません。この通りの生活をしています。私は戦時中戦争に協力しました。文学の方面や美術の方面などで。戦争に協力した人は追放になっています。私には追放の指令が来ませんが、自分自ら追放、その考えでこう引込んでいるのです」。
 そして1947年7月に以下の詩を作っている。
「わが詩をよみて人死に就けり」
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

高村光太郎10   素空

2012-03-06 23:37:56 | Weblog
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん (一億の号泣より) 
 
 戦争中、軍国青年だった吉本隆明は、終戦で拠り所にした全ての思想を失って一からの出直し、新しい思想の拠り所を模索し始めた。その為、尊敬し影響を受けた高村光太郎が敗戦に出会っても旧来のイデオロギーで詩を発表したことに違和感を感じた。
 以下は吉本隆明「高村光太郎」(1957年7月1日)より引用
 戦争に負けたら、アジアの植民地は解放されないという天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。
 敗戦は突然であった。
 翌日から、じぶんが生き残ってしまったという負い目にさいなまれた。
 わたしは、影響をうけてきた文学者たちは、いま、どこでなにをかんがえ、どんな思いでいるのか、しきりにしりたいとおもった。
 そんな日、高村光太郎の「一億の号泣」は発表されたのである。
 わづかではあるが、わたしは、はじめて高村光太郎に異和感をおぼえた。 

高村光太郎9   素空

2012-03-04 00:09:34 | Weblog
 終戦の時の歌も大事なのでここに掲載する。

   一億の号泣

 論言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来る
 玉音の低きとゞろきに五体をうめる
 五体わななきてとゞめあへず
 玉音ひゞき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん