会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1428

2017-05-23 20:07:55 | Weblog
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会津八一の挽歌 2013・3・28(木)

 昭和20年7月10日、八一の身の回りの世話をした養女・きい子を疎開先の新潟で亡くす。その時詠んだ山鳩21首は挽歌中でも屈指のものである。続く観音堂10首、柴売6首と合わせて、八一64歳の代表歌である。
 順次、歌の解説を紹介していきたいが、その前に会津八一の生涯と年表を書いておきたい。

 會津八一の生涯 

 会津八一は1881年(明治14)8月1日に新潟市古町通五番町に生まれる。“八一”と言う名は生まれた日による。1946年(昭和31)11月21日新潟で永眠(75歳)。美術史家、歌人、書家で、号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)、八朔(はっさく)、渾斎(こんさい)等である。
 1906年(明治39)早稲田大学文学部を卒業、1931年(昭和6)早稲田大学文学部教授になる。独自の歌、書で世に知られる。奈良美術研究のかたわら南都に取材して盛んに短歌をつくり、1924年(大正13)に歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)」を上梓(じょうし)する。その後南京新唱を含む「鹿鳴集(ろくめいしゅう)」「山光集(さんこうしゅう)」「寒燈集(かんとうしゅう)」を出版、生涯に千首余の歌を詠む。オリジナリティに富んだ書は独自の世界を切り開き、ファンが多い。
 学者としては1933年(昭和8)「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」で学位を受け、美術史を早大で教える。
 1945年(昭和20年)戦災で東京から新潟に移った後は、夕刊新潟社の社長、後に新潟日報社の社賓となり、新潟の文化向上のためにも尽くした。   生涯と年表のページへ

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