会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1180

2016-08-31 23:03:53 | Weblog
会津八一に関するブログ 94

お別れの会 2006・6・5(月)

 植田重雄先生のお別れの会は6月3日早稲田教会で行われた。略歴・著書の紹介、関係者のお別れの言葉で、生前の先生の大きさが自然に浮かび上がってくる。
 式辞の牧師の言葉「一番大切なものは自分を大切にするこころ、そして他人をもっと大切にするこころと考えています。愛とか真実とか平和という言葉に置き換えてもよいかと思います」
 宗教哲学者・植田先生が教え子達を大切にしたこと、そうした大きな愛に包まれていたことをひしひしと感じながら献花してきた。  

会津八一 1179

2016-08-30 19:55:19 | Weblog
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植田先生4 2006・5・25(木)

 東大安田講堂が炎上したことに象徴されるこの時代、大学は騒然としていた。語学の単位を温情で与えたが、この生徒は不埒だった。会計学の教授が「勉強して私のゼミに入りなさい。無試験で一流企業に入れてあげる」と豪語したことに反発し、授業を放棄した。
 事後、大学で植田先生とはほとんどお会いしていない。しかし、社会に出て皮肉なことに就職に困った。面接で履歴の不備を先生の名を勝手に出して補った。すぐに電話をかけ、事情を説明したがとても面食らっておられた。しかし、全て了承された上に、いろいろとアドバイスを下さった。その時から先生との交流が始まった。

会津八一 1178

2016-08-29 20:05:22 | Weblog
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植田先生3 2006・5・22(月)

 ものいはず 争はず 嘆かず いきづきて
          まりも暗緑に かたまりにけり  
植田重雄

 歌集・六曜星の口絵に版画家中川雄太郎作として版画が掲載されている。この歌は戦没した多くの友への追悼を記録した第一歌集・鎮魂歌の一首で、先生がとても気に入っていた。我家には直筆のこの歌が額に入っている。
 敗戦間近の学徒出陣を経験した先生の心の置き所と、その後の物静かな学究生活の根底にあるものを見事にまりもの歌は表している。


会津八一 1177

2016-08-28 19:29:15 | Weblog
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植田先生2 2006・5・20(土)

 「なぜ歌を詠むかと問われるならば、感動が短歌の凝縮された形態を通して、存在の世界を開き、美の閃きが宇宙の実在に触れさせてくれるからである」先生は第三歌集・六曜星のあとがきで言っている。そして「詩歌は自然賛美だけで充分である」とも語っている。
 60年代後半、騒然とした大学の中では寡黙な先生だった。時の流れに流されず、内面の世界の充実に精魂を傾けておられたようだ。授業を政治討論に変えてしまう生徒達をじっと見守り、たびたび授業を中断させたSUを先生は良く覚えてみえた。怪我で出席日数が全く足らなかったドイツ語の期末テスト、無解答で裏面に反省文を書いたら単位を下さった。

会津八一 1176

2016-08-27 19:43:06 | Weblog
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植田重雄先生 2006・5・19(金)

 先生が14日、胃がんで亡くなられた。専門は宗教倫理学、クラス担任でドイツ語を教わった。ただ、在学中は反抗ばかりしていたので、本当にお世話になったのは社会に出てからである。和歌を同封した手紙で、郷土の研究や歌を読むことをいつも勧めてこられた。
 上京するたびに訪問しようと思いながら、最後にお会いしたのは1999年国立博物館の「室生寺のみ仏たち」の会場だった。上野公園「伊豆栄」のうなぎを友人Yとご馳走になり、いろいろなお話を伺ったが、夕方お別れするときに「もう帰るのか?」と言われた言葉が今でも耳に残っている。素空にとって恩師と呼べるたった一人の先生だった。

会津八一 1175

2016-08-26 19:24:27 | Weblog
会津八一に関するブログ 89

二上山(ふたがみやま) 2006・5・6(土)

 奈良と大阪の境をなす葛城山脈の北に連なる二上山は517mの低い山だが、奈良でも屈指の歴史を持つ。とりわけ、大津皇子(おおつのみこ)の屍を二上山に葬る時詠んだ姉・大来皇女(おおくのひめみこ)の万葉集の歌は有名である。

  うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む 
  (生きてこの世の人である私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めよう)

 二上山をのぞみて(会津八一)    解説

     あま つ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の 
           を さへ みね さへ かつらぎ の くも  

        (天つ風吹きのすさみに二上の峰さへ嶺さへ葛城の雲)

会津八一 1174

2016-08-25 19:20:23 | Weblog
会津八一に関するブログ 88
                                  
当麻寺 2006・4・21(金)

 一夜にして蓮糸曼荼羅を織り上げたと言う中将姫伝説で有名な大和の当麻寺に出かけた。会津八一はここで五首詠んでいる。

 当麻寺にて(第二首)       解説

   ふたがみ の すそ の たかむら ひるがえし 
        かぜ ふき いでぬ たふ の ひさし に

     (二上の裾の竹群ひるがえし風吹きいでぬ塔の廂に)

会津八一 1173

2016-08-24 19:06:28 | Weblog
会津八一に関するブログ 87

馬酔木 2006・3・28(火)

 小田原城ではカンヒザクラや水仙、こぶしの白い花が咲いていた。その時咲いていた写真の花の名を度忘れして思い出せなかった。何度も家人に聞かれたけれど思い出せない。堀辰雄の小説や万葉集にも歌われていてとても好きな花なのに!情けない。 
 浄瑠璃寺の春
 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
(大和路・信濃路 堀辰雄)



馬酔木2 2006・3・30(木)

 堀辰雄の浄瑠璃寺の春から、会津八一の歌を思い出した。南京新唱では浄瑠璃寺の歌が三首読まれている。新たに第二首の解説を上げた。

  浄瑠璃寺にて(第二首)        解説 

    かれわたる いけ の おもて の あし の ま に 
              かげ うちひたし くるる たふ かな 

       (枯れわたる池の面の葦の間に影うち浸し暮るる塔かな) 
 

会津八一 1172

2016-08-23 20:20:24 | Weblog
会津八一に関するブログ 86

書家・会津八一 2006・3・12(日)

 神田の八木書店から案内が届いた。会津八一は歌人として有名だが、晩年は書家としても有名だった。法隆寺の歌が130万円と書いてある。彼の書はマニアにはたまらないだろうけれど、八一ってだれ?と言われることが多い近年では、高値に人はびっくりするだろう。
 素空は八一ファンでこの書は素晴らしいと思うが、思うことと値段には落差がある。 

  

会津八一 1171

2016-08-22 20:06:44 | Weblog
会津八一に関するブログ 85

浄瑠璃寺の歌 2006・3・1(水)

 奈良の冬は底冷えする日が多いと聞いている。春を告げる東大寺二月堂のお水取りが過ぎても、浄瑠璃寺周辺はまだまだ寒いという。そんな早春の小雪ふる山道を会津八一は浄瑠璃寺へと歩む。今とは違い廃仏毀釈が吹き荒れた明治時代の寺は荒廃しており、訪れる人も少なかった。そんな時代に奈良の寺と仏を宗教の歌としてではなく、芸術として歌い上げた八一の功績は大きい。

  浄瑠璃寺にて               解説
  
    じやうるり の な を なつかしみ みゆき ふる 
           はる の やまべ を ひとり ゆく なり

     (浄瑠璃の名を懐かしみみ雪降る春の山辺を一人行くなり)

会津八一 1170

2016-08-21 20:41:28 | Weblog
会津八一に関するブログ 84

水仙 2006・2・15(水)

 今年の冬は寒すぎたのかビオラやパンジーが弱弱しい。その中でずっと水仙が咲き続けている。この水仙は一個の球根から増え続け、今では家の周りを囲んでいる。折に触れ、黄水仙を手に入れて植えたがほとんどが数年すると無くなってしまう。
 ここのところ暖かかったので、桃の蕾が膨らんでいる。チューリップの芽も動き出しそうだ。
 梅雨頃の花の終わった水仙を、八一がこう歌っている。

  村荘雑事(第3首)           解説

    はな すぎて のび つくしたる すゐせん の 
             ほそは みだれて あめ そそぐ みゆ

     (花過ぎて伸び尽くしたる水仙の細葉乱れて雨そそぐ見ゆ)

会津八一 1169

2016-08-20 18:58:36 | Weblog
会津八一に関するブログ 83

毘沙門天 2006・2・2(木)

 七福神その3は毘沙門天。
 元は四天王の1つで須弥山の北方を守護し、戦勝の神と言われる。日本では、四天王の1体として安置する場合は「多聞天」と呼び、単体の場合は「毘沙門天」と言う。室町後期に日本の民間信仰・七福神の1つに加えられた。
 会津八一の歌にも詠まれる。

   浄瑠璃寺にて(第3首)             解説   
    
    びしやもん の ふりし ころも の すそ の うら に 
                くれなゐ もゆる はうそうげ かな

       (毘沙門の古りし衣の裾の裏に紅燃ゆる宝相華かな)   

会津八一 1168

2016-08-19 20:04:22 | Weblog
会津八一に関するブログ 82

月日の流れ 2005・12・15(木)

 早いものでもう12月も半ばになった。歳月の流れの速さは特に年末に感じる。目の前の鹿の顎(あご)の動きに託して、時の流れの止めがたさを詠んだ八一の歌をどうぞ。この歌は、古都のいにしえからの悠久の流れを想いながら味わうと一層深いものになる。

  春日野にて 第9首          解説

    をぐさ はむ しか の あぎと の をやみ なく
            ながるる つきひ とどめ かね つも

    (を草食む鹿のあぎとのを止みなく流るる月日とどめかねつも) 

会津八一 1167

2016-08-18 19:56:07 | Weblog
会津八一に関するブログ 81

木隠れて 2005・11・17(木)

 木立の奥で(木隠れて)牡鹿達の恋争いが続く。古都の秋の夜の静寂が浮かび上がる八一の歌をどうぞ。争う鹿の角の響きを聞いた事は無いが、鹿鳴人が紹介する奈良ホテルに投宿し、秋の夜を楽しんでみたい。

 春日野にて 第5首               解説             
 
    こがくれて あらそふ らしき さをしか の 
          つの の ひびき に よ は くだち つつ

        (木隠れて争ふらしき牡鹿の角のひびきに夜はくだちつつ) 

会津八一 1166

2016-08-17 20:12:19 | Weblog
会津八一に関するブログ 80

鹿の角切り 2005・10・25(火)

 奈良の秋の風物詩、鹿の角切りが終わったと鹿鳴人が23日のブログで書いている。会津八一は鹿を沢山詠っているが、その中でもこれは一風変わった鹿の歌である。

  春日野にて 第4首               解説

    つの かる と しか おふ ひと は おほてら の 
             むね ふき やぶる かぜ に かも にる

    (角刈ると鹿追ふ人は大寺の棟ふき破る風にかも似る)