会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

辺見庸5 いま、「永遠の不服従」とは何か C

2005-09-29 17:17:53 | Weblog
 「死に魅入られて」

 “戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。その行動がときに穏当を欠くのもやむをえないだろう。必要ならば、物理的にも国家に対抗すべきである。だがしかし、もしもそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な不服従のプロセスから離脱することだ”
 強固な意志でこう不服従を叫んでいた倒れる前の力強い辺見庸は、ある意味で傲慢に見えた。しかし、倒れてから、落花する染井吉野を前に「ぼくの眼は、傲慢でも酷薄でも賢しげでもなく、ただ弱弱しく朦朧として」死を見ていたと述べ、そればかりではなく死も彼を見返していたと言う。
 一線で活躍するジャーナリストが「見る」側からしか物事を見ていなかった不遜に気付く。〈見る者は見られない〉〈見られる者は見てはならない〉と言う関係の傲慢さを患者になって初めて医者の態度から悟る。患者が医者を見る・診てはいけないという不条理。
 僕ら団塊の世代は激動の1960~70年代に、もっと広義に言えば元気な青壮年期には「見る」側からしか見ていなかった。その後、多くの人が志を曲げ、大きく体制の中に編みこまれていった。生きていく上で仕方が無かったともいえるが、あの巨大なうねりの一翼を支えた世代の脆さを同世代として容認はできなかった。しかし、挫折、転向、転進は「見られる」側の「眼」を培ったかもしれない。
 見られる側の眼が備わったとき、世の中はどのように見えるのだろう?見る側だけの眼が何を見ているのか厳しく検証しなければいけない。そこには挫折や蹉跌や死を味わってきた者の優しさがあるはずだ。
 
 

プリーモ・レーヴィ

2005-09-23 01:39:48 | Weblog
 プリーモ・レーヴィはアウシュビッツから生還したユダヤ人作家で、1947年に出版した強制収容所の体験を生々しく綴った『これが人間か』(邦題『アウシュヴィッツは終らない』朝日選書)で、世界に注目された。この本は人類としての必読の書と言われている。

『アウシュヴィッツは終わらない』から

暖かな家で 何ごともなく生きているきみたちよ
家に帰れば 熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ。
これが人間か、考えてほしい
泥にまみれて働き 平和を知らず パンのかけらを争い
他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。
これが女か、考えてほしい
髪は刈られ、名はなく すべてを忘れ 目は虚ろ、体の芯は
冬の蛙のように冷えきっているものが。
考えてほしい、こうした事実があったことを。
これは命令だ。
心に刻んでいてほしい 家にいても、外に出ていても
目覚めていても、寝ていても そして子供たちに話してやってほしい。
さもなくば、家は壊れ 病が体を麻痺させ 子供たちは顔をそむけるだろう。
         

辺見庸4 いま、「永遠の不服従」とは何か B

2005-09-22 20:56:36 | Weblog
 「人間であるがゆえの恥辱」
 
 国家を「腐った民主主義国家」と言い『ライブドアの騒ぎのとき、「お金でジャーナリズムの魂は買えない」みたいな、反発がありましたが、失笑ものでした。魂が買えないとしたら、とっくの昔に売り渡されているからであって・・・』と資本の論理(お金が全てを支配する)の冷酷な現実をシビアに指摘する。
 闘病中、看護士の普通の生真面目な問いかけと介護に「人間としてのある種の喜びと安堵を覚えた」が、現実の政治経済社会(特に市場や資本)に係わる議論、とりわけ人間性の全く感じられない議論に「人間であるがゆえの恥辱(プリーモ・レーヴィ)」を感じ「かってアジアの人々に到底癒しがたい恥辱を植え付け、そうすることにより自らも深い恥辱の底に沈んだこの国はもはや、恥辱とは何かについて考える力さえ失いつつある」と言う。
 戦争の教訓と反省の中で我々団塊の世代は「謙虚さ」と「人間であるがゆえの恥辱」をもって成長した。若い頃、悪しきナショナリズムを排しコスモポリタンを標榜していて、在日朝鮮人のクラスメートとよく話し合ったが、彼は民族としての恥辱と言う強烈な反日感情を前面に出してきた。もちろん、日本人としての過去の反省を述べたが、それらが通らないほど彼の反日感情が激しく議論が前に進まないことがたびたびあり戸惑ったものだ。
 昨今の拉致問題の推移を見ていると過去に日本・日本人が行ってきた行為が棚上げにされつつある。誤解を恐れずに言うなら「針小棒大」という言葉を思い出す。日本人と言う立場ではなく、「地球」人として世界のいろいろな事象を判断するなら、事の善悪や価値基準が変わってくるだろう。人を人と思わず、単なる物として扱う現代社会の中で、辺見庸は「人間であるがゆえの恥辱」を人間として判断し行動する基準にしようと言うのである。

後悔など・・・

2005-09-20 00:56:06 | Weblog
 そこまでコイズミさんに勝たせるつもりは無かったと言う人や少数意見を尊重して政権の運営を!などと書く現在のマスコミの論調に呆れている。誤解を恐れずに言うなら 「・・・人知というものの存外な底の浅さ・・・(辺見庸)」の帰結である。
 「郵政」という狭い範囲での改革を全ての判断にするとは木を見て森を見ないに等しい。郵政民営化案の中にも改悪といえる部分が沢山ある。その上で、改革・改正なる言葉に踊らされて、郵政以外の改悪される沢山の事柄に目を向けなかった。改悪と言う言葉さえマスコミには無かった。面と向かってこの部分はコイズミ改悪であると書いた日刊紙は皆無に等しい。改革・改正と言いながら、過去にどれほど改悪がなされてきたことか!
 コイズミ自民党の政策の中には改悪と言えるものが沢山ある。今後4年間の正邪の行く末を見たい。新しい歴史の誕生か教訓なのか!

辺見庸3 いま、「永遠の不服従」とは何か A

2005-09-19 15:23:12 | Weblog
 「死の実感」と「制度的殺戮」 

 「爛れきった政治家、糞バエに成り下がった新聞記者、浮いた言葉に酔う似非知識人」たちに容赦ない怒りを放った「永遠の不服従のために」の辺見庸。脳出血で倒れ「ぼーっと薄明るく煙る死の河と谷を前にとぼとぼと引き返し」混濁した記憶と頭脳(社会生活上有用とされる物がなくなり、どうでもいいような記憶が残る)で始まる1年4ヶ月を過ごす。半身不随のなかで彼が考えたことは何か?或いはその間に彼の内面がどう変化したのか、しなかったかを週間金曜日の編集部が問うた。
 ある意味で強者であった彼が「死の実感」についてまづ語る。観念的でしかなかった死への洞察を自らの体験から、麻痺からの演繹として行うと言い、その上で、戦争に代表される「制度的殺戮」に言及する。もちろん尊厳を伴う個々の死が、制度の殺戮では単なる死者数一般として無機化される事への怒りと拒否についてである。
 一度地獄を見たものがとよく言うが、生身で死の実態に触れた辺見庸の変化を編集部ならずとも関心を持つのは当然である。吟味された言葉で容赦なく語った内容がどう変化するのか?出だしには体験をもとに弱さではない優しさが加わった。

辺見庸2 「永遠の不服従のために」

2005-09-17 15:22:20 | Weblog
 「永遠の不服従のために」は「サンデー毎日」2001.7.29~2002.8.25号に掲載された「反時代のパンセ」に加筆・訂正して2002年10月に刊行された。2001.9.11テロ以降のアメリカのアフガン・イラクへの侵攻、日本の自衛隊派兵等の国家の非道に対して彼は吼えた。
 「戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。その行動がときに穏当を欠くのもやむをえないだろう。必要ならば、物理的にも国家に対抗すべきである。だがしかし、もしもそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと意義や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである」人間的とは何か、非人間的とはなにか、を問いながら不条理に対する根源的な怒りを持って、持続性のある「反抗」を勧める。
 同時に丸山真男の「歴史が重大な岐路にさしかかると、群れなす変節の先陣を切るのは、いつも新聞である」を引用して、権力に迎合するジャーナリストを痛烈に批判する。9.11以後の国家の途方もない暴力性、人間のかぎりない非人間性、歴史の不可測性、人知というものの存外な底の浅さを感じ、失意と焦慮に揺り動かされて書いたという。
 だが、残念なことに病に倒れ、1年4ヶ月の闘病生活を余儀なくされる。そして、今夏、復活した彼の前に示された現実は、以前と少しも変わらず、その上、日本はコイズミ自民党が圧勝した。
 群れなす変節の先陣を切るのは、いつもマスコミ、とりわけテレビであろうが新聞も例外ではない。その上で人知というものの存外な底の浅さだと言えるかもしれない。
 復帰直後の「いま、『永遠の不服従』とは何か――死、記憶、時間、恥辱、想像力の彼方へ」を紹介していきたい。

辺見庸1 出会い

2005-09-17 01:22:16 | Weblog
 脳出血で倒れ1年4ヶ月ぶりに復帰した芥川賞作家・辺見庸との出会いは、アメリカのアフガン侵攻に硬派な発言をする新聞記事だった。偶然、本屋で「赤い橋の下のぬるい水」を手にし、彼の作品を読み繋いだ。奇妙な感触の全く知らなかった世界へ引き込んでいくこの本を当時、知人達に勧めた。後に今村昌平によって映画化されるが、原作には全く及ばない。
 その後、アメリカの海外侵攻を批判しながら、雑誌に評論を続け「永遠の不服従のために」として単行本を出版する。

 当時の「SURUMEの独り言」にこう書いた。

赤い橋の下のぬるい水 2001・11・3 
作家・辺見 庸 原作の映画が今日から公開されている。奇妙な小説だが非常に面白い。泉鏡花の幻想世界を思い出した。政治家の言動に論理的で的確な批判をしている記事を読んで名前を知った。書店で名前から手に取ったのが上記の本だ。今回のアフガン問題にも硬派の発言をし、大量大虐殺を懸念している。同感。

辺見庸
1944年、宮城県生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。共同通信を経て作家に。91年、「自動起床装置」で第105回芥川賞受賞。主な著作に「ハノイ挽歌」「赤い橋の下のぬるい水」「不安の世紀から」など。

コイズミ自民党2

2005-09-14 17:54:46 | Weblog
 東京ブロックで自民27位に登録された安井潤一郎さん、名前を貸しただけなのに思わぬ大勝で自民党の議席が転がり込んだ。安井さんは早稲田にあるスーパー稲毛屋の社長で、地域商店街の活性化を推進している。
 4年前に商店街活動の先輩としてお話を伺い、地域活動の手本にしてきた。パズルランドの愉快な雑記帳などのテンプレートは彼から学んだ。商店街活動をお聞きしたのであって、政治経済全般に係わるお話を聞いたわけではないので、議員に全て適格かどうかは判断しかねるが、彼のような、いわゆる政治屋ではなく、地域に根ざした活動を展開する人の活躍は心から応援したい。
 コイズミさんに反対するのは、コイズミさんの超タカ派的な政治姿勢と今回の一連の行動に見られる独善的な政治の運営にある。コイズミ自民党を評価しないのは、この間述べてきた市場原理のもとに弱者を切り捨ててきたことにある。「経済に活力をもたらしつつ、弱者への優しい目配りは忘れない」(朝日新聞)今後はこのことが問われるだろう。
 選挙後、一気に増税をしてしまおうとか言われていたり、或いはアスベスト対策が後退し、選挙向けだけだったような気配がある。郵政以外のいろいろな課題がどう処理されていくかよく見ていかねばならないだろう。
 郵政の処理をコイズミさんに託しただけで、増税をお願いしたわけではない、戦争遂行を支援したわけではないと言っても泣き言に過ぎない。もしそうなるなら、郵政を餌にコイズミさんにだまされたことになる。マジックとはそもそもだますことの上に成り立つものなのだ。

コイズミ自民党

2005-09-13 02:11:30 | Weblog
 衆議院選挙はコイズミ自民党の圧勝になった。郵政民営化が大改革であるかのような幻想を振りまき、国民をそれに乗せた。そこに小選挙区制の特性も有利に働いた圧勝だ。
 最も重要な行財政改革の本丸は、財務省を中心にした官僚天国の改革であり、政官業の癒着に対決し解決することだが、彼は全く手をつけていない。強いものには抵抗しないようだ。すでに民営化の流れにある郵政などは、ある意味で弱いものいじめの典型とも言える。(刺客などは弱いものいじめそのものだ)
 長年、権力の中枢にあり、政官業の癒着の代表と言える自民党を基盤にした政権に、今後の改革が期待できるだろうか?刺客などともてはやされた「恥の文化に背を向けた虚飾の人々」が自民党を根底から変えるとはとてもは思えない。
 野党や国民が心配するその他のもっと大事な課題について語らなかったコイズミ自民党が、その数を背景に「問答無用」で政治を進めていく恐怖を感じる。
 政治への不信感が増大し自らの無力を痛感するが、戦争を容認し 「市場の原理にまかす」を振りかざして弱者を踏みつけて歩もうとするコイズミさんは「ノー」である。戦争がなく、強者が弱者を気づかいながら、共に歩んで行く社会で無ければ未来は暗い。

 
 

お話しする人形・プリモプエルと老人

2005-09-09 23:56:53 | Weblog
 90代で1人暮らしをするおばあさんが、ケンタ君と名付けたお話しする人形(プリモプエル)を大事にしている話を聞いた。洋服を着せ、人形に何でも話す。プリモプエルが的確な返答をしてくれるわけではないが、このお年よりには話しかければ、なにかを必ず言ってくれる人形がとても大事なのだ。活躍するプリモプエルに拍手を送りたい。
  だが手放しで喜んでいるわけにはいかない。見方によれば、高齢者を1人住まいにし、話し相手が人形だけとは社会の貧困そのものの図ではないだろうか?脳出血で倒れ1年4ヶ月ぶりに復帰した辺見庸がこう書いている。要約すると「資本主義の普遍的なものは一つ、それは市場。国家は市場が集中する場であり、富と貧困を生み出す途方も無い工房である。人類の貧困を生む作業に加担して、骨の髄まで腐っている」
 先進国は経済のグローバル化で後進国を食い物にし、市場原理に任すと言うコイズミさんは働く人たちを失業やパートタイマーに追い込み、差別を助長してきた。そんな社会は高齢者や障害者を弾き飛ばしていく。辺見庸はこうした状況に「人間としての恥辱」と言う言葉を対置し、毎日新聞の牧太郎は今回の狂乱選挙についてこう言う。「恥の文化に背を向けた虚飾の人々が登場する。恥の文化とは、自然の摂理に従い、最大多数の幸せを表現するために人知を集めた行動規範である」
 今日、期日前投票を行ってきた。日本はどこへ行くのだろう?
 

障害者自立支援法案と選挙

2005-09-03 15:51:08 | Weblog
 思わぬ衆院解散でこの法案は廃案になった。改善される面もあるが、障害者にサービス料の一割を負担する悪法である。国家の財源の不足を政府は言うが、財源不足の責任は国の舵取りをしてきた政府の長年の放漫な国家運営にあるのではないか?そのツケを弱者に廻すとは全く非情である。何時から人の心は変わったのか、それともそもそも鬼畜の心しかもっていなかったのだろうか!
 「官から民へ」「市場の原理に任す」から来る強者の論理の結果である。儲けれる者は儲けるだけ儲ければいい。社会的弱者と手を携えて、人が人として人間らしく共に生きていく共生社会などは無視をする。
 アメリカンドリームとは、膨大な低所得者を踏み台にして大金持ちに成り上がったものたちの悪趣味な話しである。(ハリケーン被害で死んだ人たちの多くは事前に逃げる術も無かった貧困層である。軍事費のほんの一部を割けば、災害は防ぐことができただろう)そのアメリカと手を携えて進むのがコイズミさんだ。あるいはホリエモンの存在がその象徴だ。巨額の報酬をほしいままにして社会の話題を得ているが、彼に弱者との共生の考えがあるのだろうか?少なくとも、従来の経営者は働く人(従業員)や弱者とのことも考えながら、己の報酬の額を決めてきた。「官から民へ」「市場の原理に任す」とは勝手にしなさいということである。
 税金は国家に公共のことを委託した国民がおさめたお金である。だから役所は税金で運営され、民営化などされない。世の中には国家が公共性があるとして保護し、税金でまかなわねばいけない領域がある。無駄を省きながら、そこを見据えて国民の幸せを実現するのが本当の為政者である。

辺見庸復活

2005-09-01 22:41:10 | Weblog
 去年の春、講演中に脳出血で倒れた辺見庸、半年後、奇跡的に回復しハビリに励んでいると聞いていたが音沙汰がなかった。コイズミマジックの中、恐ろしい勢いで日本が戦争への道を歩む中、友人から彼の近況が届いた。
 「週間金曜日」で7月から4回の連載を始めたと言う。編集長がこう書いている。”事実上の復帰第一作となる集中連載が始まった。インタビューに答える形の書き下ろしという、新しい表現方法は辺見氏の発案である。「いま、『永遠の不服従』とは何か――死、記憶、時間、恥辱、想像力の彼方へ」というタイトルも氏がつけた。”
 近々読むつもりだ、ワクワクしながら!

ドナの手紙(シンディ・シーハンのこと)

2005-09-01 00:49:01 | Weblog
友人から送られてきたものの一部を転載する。

ブッシュよ、息子の命を奪った崇高な使命とは何なのか? 全米を揺るがすシーハン
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 オーストラリア人女性ドナマルハーンは、2003年春イラクでの「人間の盾」に参加し、2004年春には米軍包囲下のファルージャに入り、その帰路地元レジスタンスによる拘束を経験し、2004年冬から翌年春にかけてイラク・パレスチナを旅し、現地から報告してくれました。そのドナが、今度はアメリカから報告します。2004年4月にバグダッドのサドル・シティで戦死した米兵の母親、シンディ・シーハンのことです。彼女はなぜ息子が死んだか答えて欲しいと、今月6日にテキサス州クロフォードのブッシュ大統領私邸に向かい、ブッシュの牧場の外で警察に止められ、ならば大統領が会うまで帰らないとキャンプを張り続けて面会を要求しています。全米から支援者が続々とかけつけるなか、日本のマスコミも報道するようになりました。今回は、ドナから立て続けにメッセージが届いたので2通分をまとめてお届けします。   (翻訳:福永克紀/TUP)
 
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