会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1553

2017-09-30 22:09:36 | Weblog
会津八一に関するブログ 469

最後の奈良見学旅行2  2014・7・22(火)

 愚かな戦争は未来を担う学生たちも戦場に駆り出した。「戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ」植田先生の眼は鋭い。
 最後の奈良旅行は戦地に赴く学生たちとの別れともいえる。多くの学生は八一の鹿鳴集を携えて出征したと言う。

 奈良見学旅行は、いろいろな行事を避けたためにおくれ、ようやく十一月十一日に行われることになった。芸術科の学生だけでなく、奈良美術に興味を持つ学生はだれでも参加してよいということである。それは間もなく入隊し、戦地に赴く学生たちに、美の故郷である奈良とその仏像を観てほしいという、會津先生のおもいやりであったとおもう。しかし、あわただしい入営間近の旅行である。郷里に帰り、身辺を整理したり、親戚知人への別れの挨拶もひかえていた者にとって、全日程をこなすことはむつかしかった。だから、十一日から二十二日までの全日程を、はじめから終りまで旅行したのは、ごく少数で、大方は五、六日、あるいは三、四日、道人の一行に加わり、途中で別の自分の選んだ寺社を旅する者、随時参加して道人に別れの挨拶をして帰郷するものなどまちまちであった。それも時局の厳しさを反映するものである。

会津八一 1552

2017-09-29 21:20:05 | Weblog
会津八一に関するブログ 468

放浪唫草・第58首(会津八一) 2014・7・21(月)

 観世音寺の鐘楼にて(第4首)     解説 

  つき はてて くだる しゆろう の いしだん に 
           かれて なびかふ はた の あらくさ 

  (撞き果てて下る鐘楼の石段に枯れて靡かふはたの荒草)

 枯れ草の靡く鐘つき堂は閑散としている。菅公の悲哀と一人旅の八一が目の前に浮かんでくる。

会津八一 1551

2017-09-28 18:55:18 | Weblog
会津八一に関するブログ 467

最後の奈良見学旅行1  2014・7・18(金)

 恩師・故植田重雄先生の「會津八一の生涯」(1988年)を読んだのが、会津八一との出会いである。先生の本はほとんど読んだが学術書で難しい。そうした中で、感情が表に出て、情感豊かに書かれている「最後の奈良見学旅行」(秋艸道人 會津八一の学藝・補遺二 2005年)は印象に残った。そこには生身の先生がいたからである。
 最近、会津八一の第二歌集・山光集の歌の解説を進めているが、この補遺二と関連する。学徒出陣間際(昭和18年)の学生たちを連れたこの「最後の奈良見学旅行」を数回に分けて紹介する。現在の戦争への道を開こうとする愚かな選択を憂いながら。

 會津八一(秋艸道人)先生は、毎年美術科・史学科の学生のために、大和の寺や古美術の見学の旅行を行ってきた。しかし昭和十八年の秋のそれは、特別のものであったようにおもう。太平洋各戦域でアメリカは総反攻に転じ、ミッドウウェー海戦、ガダルカナルの激闘、アッツ島の玉砕等々日本は守勢に立たされていた。
 当時、貴族院議員であり、土佐の武市半平太の嗣子なる人が、まだ日本は敗北したわけではない、三十万人の学生の精鋭がいるではないか、これらをして国難に当たらしめ退勢を挽回しようと提案した。戦後は戦争責任を軍部にだけかぶせたが、政治家もなかなか率先してやったものだ。やがて「徴兵猶予の停止」が宣言され、学園の学問や研究の火は消えることになった。いわゆる学徒出陣である。雨の降る明治神宮外苑球場での、東條英機総理のもと、閲兵分列の壮行会が行われたのは十月十五日である。

会津八一 1550

2017-09-27 18:40:06 | Weblog
会津八一に関するブログ 466

放浪唫草・第57首(会津八一) 2014・7・17(木)

 観世音寺の鐘楼にて(第3首)    解説

  ひとり きて わが つく かね を ぬばたまの 
        よみ の はて なる ひと さえ も きけ
 
(1人来て我が撞く鐘をぬばたまの黄泉の果てなる人さえも聞け)

 私の撞く鐘の音よ、私の想うあの世の菅公・菅原道真に届け! 

会津八一 1549

2017-09-26 19:17:13 | Weblog
会津八一に関するブログ 465

放浪唫草・第56首(会津八一) 2014・7・12(土)

 観世音寺の鐘楼にて(第2首)     解説

  いたづき の たぢから こめて つく かね の 
        ひびき の すえ に さぎり は まよふ 

  (いたづきの手力こめて撞く鐘の響きの末にさ霧は迷ふ)

 病身だが力を込めて鐘をついた。その響きは夕霧とともに漂い消える。

会津八一 1548

2017-09-25 19:19:15 | Weblog
会津八一に関するブログ 464

放浪唫草・第55首(会津八一) 2014・7・8(火)

 観世音寺の鐘楼にて      解説

  この かね の なり の ひびき を あさゆふ に 
            ききて なげきし いにしへ の ひと 

      (この鐘の鳴りの響きを朝夕に聞きて嘆きし古の人)

 菅原道真は九州に左遷された。八一は幹事と対立し、早稲田中学教頭の職を辞して、九州の旅を続けている。

会津八一 1547

2017-09-24 23:23:01 | Weblog
会津八一に関するブログ 463

放浪唫草・第54首(会津八一) 2014・7・4(金)

 菅原道真をおもひて      解説
     
  わび すみて きみ が みし とふ とふろう の
            いらか くだけて くさ に みだるる  

  (わび住みて君が見しとふ都府楼の甍砕けて草に乱るる)

 学問の神様と言うことではなく、左遷された菅原道真の悲哀が彼への思いを深くする。

会津八一 1546

2017-09-23 22:03:30 | Weblog
会津八一に関するブログ 462

放浪唫草・第53首(会津八一) 2014・6・28(土)

 大宰府のあとにて    解説

  いにしへ の とほ の みかど の いしずゑ を
              くさ に かぞふる うつら うつらに 

   (古の遠の御門の礎を草に数ふるうつらうつらに)

 大宰府跡に立って、遠い昔に思いを馳せる。以前、奈良・飛鳥の川原寺跡で古のことをしきりに考えたことを思い出す。

会津八一 1545

2017-09-22 18:54:23 | Weblog
会津八一に関するブログ 461

放浪唫草・第52首(会津八一) 2014・6・24(火)

 旅中たまたま新聞にて大隈候の病あつしと知りて   解説

  わせだ なる おきな が やまひ あやふし と
        かみ も ほとけ も しろし めさず や 

   (早稲田なる翁が病ひ危ふしと神も仏もしろしめさずや)

 旅先で大隈重信の重病を知ったが、東京へは直ぐに戻らなかった。旅前の学内での対立もあって知人らが帰京を勧めなかったという。

会津八一 1544

2017-09-21 20:31:16 | Weblog
会津八一に関するブログ 460

放浪唫草・第51首(会津八一) 2014・6・20(金)

 車中肥後の海辺にて      解説

  たち ならぶ はか の かなた の うなばら を
          ほぶね ゆき かふ ひご の はまむら 

   (立ち並ぶ墓の彼方の海原を帆船行きかふ肥後の浜村)

 墓のある風景、次歌にある大隈重信(早大初代総長)重症の影響があろうか。 

会津八一 1543

2017-09-20 23:39:58 | Weblog
会津八一に関するブログ 459

法隆寺壁画と鈴木空如 2014・6・19(木)

 鈴木空如(1873~1946)と言う日本画家をNHKの日曜美術館で知った。法隆寺金堂壁画12面の原寸大の模写を単独で生涯3度も行っていて、1949年の火災による壁画の焼損後、1967年に行われた再現模写事業に無名の空如の模写は貴重な資料となったと言う。
 再現模写が完成したことは嬉しいことだが、空如の模写があったことも素晴らしい。
 会津八一は法隆寺に何度も足を運び、壁画の歌を多く作っている。そして壁画について鹿鳴集自註でこう書いている。
 「・・・これ等の壁画の保存方法につきて意見を求められしに対して、作者は、これら十二枚を、いとも周到なる用意のもとに切り取りて、別の安全な処に保管し、その跡には現代作家をして新(あらた)に揮毫(きごう)せしむるに如(し)かずとの意見を送りたるに、忽(たちま)ち法隆寺の内外より猛烈なる反感を招き、不謹慎、不敬虔の譏(そしり)をさえ受けしが、その後、その寺にて不注意より起こりし火災のために、壁画は殆ど全滅とも云ふべき大破を来(きた)したり。」
 八一の嘆きとは別に、空如のような目立たないところで価値ある仕事をした人を評価したい。

会津八一 1542

2017-09-18 19:01:32 | Weblog
会津八一に関するブログ 458

放浪唫草・第50首(会津八一) 2014・6・15(日)

 木葉(このは)村にて(第8首)     解説

  ましらひめ さる の みこと に まぐはいて
        みこ うまし けむ とほき よ の はる 

  (ましら姫猿の尊にまぐはいて御子生ましけむ遠き代の春)

 木葉村にて8首は尊と姫の間の子の誕生で締めくくる。緊張を解いた遊び心溢れる歌である。

            (明日第3火曜日は休みます)

会津八一 1541

2017-09-17 19:09:56 | Weblog
会津八一に関するブログ 457

放浪唫草・第49首(会津八一) 2014・6・11(水)

 木葉(このは)村にて(第7首)     解説

  さる の みこ ちやみせ の たな に こま なめて
            あした の かり に いま たたす らし 

    (猿の皇子茶店の棚に駒並めて朝の狩りに今立たすらし)

 馬に乗る陶器の猿を今にも狩りに出ようとしていると遊び心で詠んでいる。八一の頭には常に古代の風景があった。


会津八一 1540

2017-09-16 18:15:24 | Weblog
会津八一に関するブログ 456

放浪唫草・第48首(会津八一) 2014・6・7(土)

 木葉(このは)村にて(第6首)    解説

  ひとごと を きかじ いはじ と さる じもの
          くち おしつつみ ひじり さび す も
 
  (人言を聞かじ言はじと猿じもの口おし包み聖さびすも)

 三猿(さんざる、さんえん)は江戸初期の左甚五郎作と伝える日光東照宮のものが有名。八一は木葉村の三猿を滑稽味を以て詠った。

会津八一 1539

2017-09-15 21:13:25 | Weblog
会津八一に関するブログ 455

放浪唫草・第47首(会津八一) 2014・6・3(火)

 木葉(このは)村にて(第5首)    解説

  さる の こ の つぶらまなこ に さす すみ の
           ふで あやまち そ はし の ともがら 

      (猿の子のつぶら眼に注す墨の筆過ちそ土師のともがら)

 猿のまるくてかわいい目を上手に描いて欲しいと優しい気持ちで詠う。