会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

辺見庸講演 2006・5・27(土)

2006-05-28 00:55:13 | Weblog
 ずっと以前に、ラ・フランスさんから以下のようにコメントが入っていた。改めて紹介する。
 嬉しい話 (ラ・フランス)
 「辺見さんが・・・・6月24日(土曜日)大阪に来て頂ける事になりました。回復の途上にあり、様態如何で又キャンセルもありうるかも知れませんが、非常に嬉しい事です。場所は大阪中央公会堂(中ノ島公会堂)、PM6時から、演題「憲法改悪にどこまでも反対する」です。6月16日までに郵便振込み口座に1000円の振込みが必要で、郵便口座00970-4-243904.その受領証が入場券になります。主催は・辺見庸講演実行委員会・・・・」
 4月27日にあった東京の講演会に行けなかったので、是非行きたいと思っている。

植田先生4 2006・5・25(木)

2006-05-26 00:07:41 | Weblog
 東大安田講堂が炎上したことに象徴されるこの時代、大学は騒然としていた。語学の単位を温情で与えたが、この生徒は不埒だった。会計学の教授が「勉強して私のゼミに入りなさい。無試験で一流企業に入れてあげる」と豪語したことに反発し、授業を放棄した。
 事後、大学で植田先生とはほとんどお会いしていない。しかし、社会に出て皮肉なことに就職に困った。面接で履歴の不備を先生の名を勝手に出して補った。すぐに電話をかけ、事情を説明したがとても面食らっておられた。しかし、全て了承された上に、いろいろとアドバイスを下さった。その時から先生との交流が始まった。

三重県知事の発言 2006・5・23(火)

2006-05-24 01:49:39 | Weblog
 石原産業がフェロシルトの撤去命令の取り消しを求めて愛知県を訴えた。己の悪行を反省せず居直ったのだ。ところが野呂三重県知事がその提訴に理解を示した。そもそも危険なフェロシルトをリサイクル製品として認めたのは三重県である。だから野呂知事は先頭に立って、フェロシルト撤去を指導する立場にあるはずだ。
 盗人と結託して悪行を繰り返す悪代官とは言い過ぎだろうが、石原産業を抱える四日市市民としてはとても恥ずかしい思いをしていることを忘れないで欲しい。悪いことは悪いと当たり前のことを言い是正を求めることが、不自然に見えたり蔑視される社会は歪んでいる。

植田先生3 2006・5・22(月)

2006-05-23 01:16:10 | Weblog
  ものいはず 争はず 嘆かず いきづきて
             まりも暗緑に かたまりにけり  植田重雄

 歌集・六曜星の口絵に版画家中川雄太郎作として版画が掲載されている。この歌は戦没した多くの友への追悼を記録した第一歌集・鎮魂歌の一首で、先生がとても気に入っていた。我家には直筆のこの歌が額に入っている。
 敗戦間近の学徒出陣を経験した先生の心の置き所と、その後の物静かな学究生活の根底にあるものを見事にまりもの歌は表している。

植田先生2 2006・5・20(土)

2006-05-21 01:11:51 | Weblog
 「なぜ歌を詠むかと問われるならば、感動が短歌の凝縮された形態を通して、存在の世界を開き、美の閃きが宇宙の実在に触れさせてくれるからである」先生は第三歌集・六曜星のあとがきで言っている。そして「詩歌は自然賛美だけで充分である」とも語っている。
 60年代後半、騒然とした大学の中では寡黙な先生だった。時の流れに流されず、内面の世界の充実に精魂を傾けておられたようだ。授業を政治討論に変えてしまう生徒達をじっと見守り、たびたび授業を中断させたSUを先生は良く覚えてみえた。怪我で出席日数が全く足らなかったドイツ語の期末テスト、無解答で裏面に反省文を書いたら単位を下さった。 

植田重雄早大名誉教授 訃報 2006・5・19(金)

2006-05-21 01:10:51 | Weblog
 先生が14日、胃がんで亡くなられた。専門は宗教倫理学、クラス担任でドイツ語を教わった。ただ、在学中は反抗ばかりしていたので、本当にお世話になったのは社会に出てからである。和歌を同封した手紙で、郷土の研究や歌を読むことをいつも勧めてこられた。
 上京するたびに訪問しようと思いながら、最後にお会いしたのは1999年国立博物館の「室生寺のみ仏たち」の会場だった。上野公園「伊豆栄」のうなぎを友人Yとご馳走になり、いろいろなお話を伺ったが、夕方お別れするときに「もう帰るのか?」と言われた言葉が今でも耳に残っている。SUにとって恩師と呼べるたった一人の先生だった。

新谷のり子 2006・5・18(木)

2006-05-19 00:47:40 | Weblog

 「(淡谷のり子さんを)ものすごく尊敬しています。戦時下、戦意を鼓舞する歌をうたうのか、そうでないのかと二者択一を迫られた時、淡谷先生は『私は愛の歌しかうたいません』と言った。モンペをはけ、お化粧はいけないと言われ、特高に囲まれても、ドレス姿でうたい続けた。そんな時代が再び訪れたら、自分はどうなの?(毎日新聞)」と新谷のり子が言う。そんな心配をしなければいけないほど、最近のこの国は危なっかしい。
 1969年、新谷のり子の歌う「フランシーヌの場合」は一世を風靡した。この歌は反戦・反安保闘争や学園闘争が、目先の華々しさに反して崩壊していく過程でよく歌われたが、自殺したフランシーヌの悲哀が運動の物悲しさと合っていたからかもしれない。遠い昔のことだが。

憲法記念日

2006-05-04 01:36:07 | Weblog
 日本が世界に誇るこの憲法は59歳になった。大切な憲法なのに日刊紙は一面で小さな記事としか扱っていない。某日刊紙にいたっては一面に記事なし。困ったことだ。視聴者に迎合するテレビはもっとひどくて、語る気もしない。
 強者の論理や悪しき民族主義などによって、地球上に初めて出現した唯一の平和憲法が、なし崩しからさらに改悪への道を進んでいる。それはアメリカのイラク侵攻とコイズミさんの自衛隊派遣と共に急速に進められてきた。アメリカの国家としての覇権主義にベトナム戦争以来、一貫して反対してきたが、ただ1つアメリカを評価するのはこの憲法を作る原動力になったことだ。