会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1322

2017-01-31 19:59:27 | Weblog
会津八一に関するブログ 237
      
南京余唱第8首(八一) 2012・1・19(木)

 香具山にのぼりて(第2首)   解説

  かぐやま の かみ の ひもろぎ いつしかに
      まつ の はやし と あれ に けむ かも
    
  (香具山の神の神籬いつしかに松の林と荒れにけむかも)

 ひもろぎ(神籬)とは、神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。その神座も無くなって荒れている香久山を悲しんで詠んだ。


会津八一 1321

2017-01-30 20:09:05 | Weblog
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南京余唱第7首(八一)2012・1・14(土) 

 香具山にのぼりて(第1首)    解説

  はにやま と ひと は なげく を ふみ さくむ 
        わが うげぐつ に かみ は さやらず

  (はにやまと人は嘆くを踏みさくむ我がうげぐつに神はさやらず)

 大正15年、八一は香具山に登って5首詠う。畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれた香具山は「春過ぎて夏来るらし~」(持統天皇)など古来からいろいろと詠われている。



会津八一 1320

2017-01-29 20:00:24 | Weblog
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南京余唱第6首(八一) 2012・1・13(金)

 吉野の山中にやどる(第4首)   解説

  ふるみや の まだしき はな の したくさ の 
      をばな が うれ に あめ ふり やまず      

   (古宮のまだしき花の下草の尾花がうれに雨降りやまず)

 吉野の山中で生涯を終えた後醍醐天皇の悲哀、その宮址で南北朝の昔をあわれむ八一の心が、まだ咲かない桜、残っているススキに降り続く早春の冷たい雨であらわされている。

会津八一 1319

2017-01-28 19:58:58 | Weblog
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南京余唱第5首(八一) 2012・1・5(木)

 吉野の山中にやどる(第3首)    解説

  あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
         てまり つく こ の こゑ の さやけさ   

   (雨ごもる宿の廂に一人来て手毬つく子の声のさやけさ)

 故植田重雄先生はこう書いている。
 「早春の雨に降りこめられ、宿屋の廂(ひさし)に、所在なげに手まりをつく少女の声に、山の深い静寂を聴いている。・・・透徹したこの感覚性が、一首で一つの世界を完結させている」


会津八一 1318

2017-01-27 20:04:01 | Weblog
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南京余唱第4首(八一) 2011・12・30(金)

 吉野の山中にやどる(第2首)     解説 

  みよしの の やままつがえ の ひとは おちず 
        またま に ぬく と あめ は ふる らし    

  (み吉野の山松が枝の一葉落ちずま玉に貫くと雨は降るらし)

 「降る雨がすべての松の葉に雨の滴を玉(珠)として貫き留めようとしている」と言うことだが、用語その他が難しい。 

会津八一 1317

2017-01-26 21:38:35 | Weblog
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南京余唱第3首(八一) 2011・12・26(月)

 吉野の山中にやどる(第1首)   解説

  はる さむき やま の はしゐ の さむしろ に 
         むかひ の みね の かげ のより くる    

     (春寒き山の端居のさ莚に向かひの峰の影のよりくる)

 吉野の山の宿に滞在して4首詠う。春とは言えまだ山中は寒い。夕陽と共に動く山影が近寄ってくる情景は寂しい。山の早春の夕べが静かに詠われる。


会津八一 1316

2017-01-25 22:34:35 | Weblog
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南京余唱第2首(八一) 2011・12・22(木)

 吉野塔尾御陵にて     解説  

  すめろぎ の こころ かなし も ここ にして 
        みはるかす べき のべ も あら なく に
  
 (すめろぎの心かなしもここにして見晴るかすべき野辺もあらなくに)


 塔尾御陵(とうのおのみささぎ)前で詠んだ。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇で、南朝の初代天皇。

会津八一 1315

2017-01-24 20:11:35 | Weblog
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南京余唱(なんきょうよしょう) 2011・12・18(日)

 南京余唱 大正十四年の作。前半二十七首は同年三月に、後半十五首は同年十一月に詠まれた。「新唱」に対する余唱である。(鹿鳴集歌解・吉野秀雄より) 
 全42首、新たに八一の歌の解説を始めた。

 吉野北六田の茶店にて      解説 
 
  みよしの の むだ の かはべ の あゆすし の 
         しほ くちひびく はる の さむき に 
   
    (み吉野の六田の川辺の鮎鮨の塩口ひびく春の寒きに)

 八一45歳、1925年(大正14年)3月、春に奈良を訪れて詠んだ第1首である。この年、早稲田中学教員を辞し、早稲田大学付属高等学院教授となる。
 中国大陸の石仏調査するためとこの頃乗馬の練習をしていたので、乗馬服姿で奈良を訪れたと言う。


会津八一 1314

2017-01-23 20:02:37 | Weblog
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比叡山12首(会津八一) 2011・12・13(火)

 昭和13年、会津八一は新設の早大文学部芸術学専攻科の主任教授になり、同年10月、専攻科の学生を引率して奈良と京都・比叡山の見学旅行を行う。その時の作品が鹿鳴集にある比叡山12首である。
 前年、盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まり、言論や研究の自由を圧迫する暗い時代へと向かっていた。東大の矢内原忠雄や早大の津田左右吉辞職などが起こっている。

  これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第2首)    解説

   いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら 
           わせだ の こら の もの いはぬ まで 


 恩師・故植田教授は「戦況の見通しは暗く、泥濘を歩むような様相を呈していった」とこの第2首に時代の影響を敏感に感じ取っている。
 全12首に時代性や政治性を読み取ることは難しいが、そんな時代に八一は「学問は新しい資料や事実があらわれれば、今までの説や研究は時代おくれとなる。しかし、藝術はその人のものであるから、新旧はない」と短歌や書に力を発揮して行く。
 比叡山12首が飛びぬけて秀でた歌とは思わないが、時代と八一の心意気をもとに鑑賞すれば一つの世界が開けてくる。
 素空にとって比叡山の歌は、自身における伝教大師像完結のためのものでもあった。以下の12首目をもって比叡山12首の解説を終わる。

  法隆寺福生院に雨やどりして大川逞一にあふ    解説

   そうばう の くらき に のみ を うちならし 
          じおんだいし を きざむ ひと かな    

    (僧坊の暗きに鑿をうち鳴らし慈恩大師を刻む人かな)  

会津八一 1313

2017-01-22 20:28:59 | Weblog
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比叡山第11首(八一) 2011・12・10(土)

 これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第2首)    解説

  いかで かく ふり つぐ あめ ぞ わが ともがら 
         わせだ の こら の もの いはぬ まで    


 (いかでかく降り継ぐ雨ぞわがともがら早稲田の子らのもの言わぬまで)


 学生たちとの奈良旅行は次を参照   
   古都宿帳―早稲田大学奈良研修旅行―

 また、最後の奈良旅行は次を参照   
   最後の奈良見学旅行


会津八一 1312

2017-01-21 22:30:58 | Weblog
会津八一に関するブログ 227

比叡山第10首(八一) 2011・12・7(水)

 これよりさき奈良の諸刹をめぐる(第1首)    解説

  ゆく として けごん さんろん ほつそう の 
       あめ の いとま を せうだい に いる    

  (行くとして華厳三論法相の雨のいとまを招提に入る)

 八一は学生を連れて奈良をたびたび巡った。この時は京都の比叡山に登る前に奈良にある寺々を訪れたが、雨の合間に唐招提寺に入ったと詠う。

会津八一 1311

2017-01-20 20:12:03 | Weblog
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比叡山第9首(八一) 2011・12・5(月)

 下山の途中に(第2首)     解説

  あきやま の みち に すがりて しのだけ の
          うぐひすぶゑ を しふる こら かも    

      (秋山の道にすがりて篠竹の鶯笛を強ふる子らかも)

 この歌は昭和13年に詠まれた。物を売る子供の姿を戦後生まれの素空はほとんど見たことがない。「うぐひすぶゑ(鶯笛)」は青竹の管でつくった笛で、指で管の両端を押さえ、その指の頭で風口の開き加減を調節しながら吹いて、ウグイスの鳴き声に似た音色を出す。古くからあった笛で、最初はウグイスの鳴き合わせの訓練用だったが、のちに子供用の玩具として売られた。


会津八一 1310

2017-01-19 20:37:15 | Weblog
会津八一に関するブログ 225

比叡山第8首(八一) 2011・12・1(木)

 下山の途中に(第1首)    解説

  くだり ゆく たに の さぎり と まがふ まで 
         まつ の こずゑ に しろき みづうみ    

    (下りゆく谷のさ霧とまがふまで松の梢に白き湖)

 伝教大師像作りと八一の歌に導かれて比叡山に出かけたのは去年の9月、帰路、比叡山ロープウェイの所々で車を止めて、琵琶湖を眺めた。



会津八一 1309

2017-01-18 20:57:37 | Weblog
会津八一に関するブログ 224

比叡山第7首(八一) 2011・11・29(火)

 山中にて(第3首)   解説

 かの みね の いはほ を ふみて をのこ やも 
         かく こそ あれ と をたけび に けむ     

   (かの峰の巌を踏みて男やもかくこそあれと雄叫びにけむ)

 「をのこ やも かく こそ あれ」とは「男たるものこうでなければいけない(天下を取る)」と叫んだ平将門の言葉。(将門の伝説)


会津八一 1308

2017-01-16 20:23:21 | Weblog
会津八一に関するブログ 223

比叡山第6首(八一) 2011・11・25(金)

 山中にて(第2首)    解説

  さいちょう の たちたる そま よ まさかど の 
          ふみたる いは よ こころ どよめく   

      (最澄の立ちたる杣よ将門の踏みたる岩よ心どよめく)

  将門の伝説
 将門、藤原純友と相携えて比叡山に登り、王城を俯瞰して、壮んなるかな、大丈夫此に宅(を)るべからざるかと叫んで反を謀り、純友に向かって、他日志を得なば我は王族、まさに天子となり、公は藤原氏、能くわが関白になれと謂ったといふ伝説がある。(吉野秀雄・鹿鳴集歌解より)

 お詫び
 昨日は予期せぬ降雪でアップできませんでした。申し訳ありません。

        (明日第3火曜日はいつも通りブログを休みます