女性はどうして誰かのモノになったのか?
このテーマ、差別を受けた女性ならだれもが気になることですが、教えてくれる本がない。日本の原始社会に男女の不平等はなかった。
それじゃ、どうして3世紀あたりに男女の不平等がはじまったのか? 興味があるよね。でも、教わった日本の歴史は、狩猟採集制、稲作伝来、卑弥呼の次は天皇制の始まり。その間生きた人はスルーされている。ないものは仕方ないから、調べてみました。
男女区分のはじまり
母系制社会と結婚
日本の古代の女性史研究は高群逸枝(たかむれいつえ)さんが有名です。高群さんは、戦前の国家体制・家制度の女性が忍従させられているのに強い憤りを持ち、それが歴史が始まって以来のものか見極めようとして独学で研究を始めました。私の今の問題意識と同じ。
(高群逸枝さん(1894〜1964))
現在は家制度の国家体制じゃなくなったけど、高群さんが疑問をもった戦前の伝統回帰を主張している政治勢力がやりたい放題。私は怒っているのだよ。
でも、高群さんは、私が若い頃の友人、ピリピリしたフェミニストが赤ちゃんのオムツを替えながら、私に「タカムレが、タカムレが…」と目を潤ませていたのを思い出す。まぁ、私にとって高群は食わず嫌いの範疇。友人は今では中小企業の創業者夫人になり、当時のことは忘れてしまったらしい。
高群さんは、女性が従属しきっていない原始共産制社会を母系制としましたが、その後、高群さんを受け継いだ研究者たちにより、母系制ではなく、日本の古代は東南アジアによくある非父系(双系)社会で、そのことで女性の活躍が可能にしたというのが定説になってきました。タカムレは食わず嫌いのまま卒業だね。
以下、結婚制度についてのkoki解説
古代社会は集団婚(兄弟姉妹の群婚)だった。農作業のない春や秋に祭りがあって、酒やごちそうが供され、歌や踊りを楽しむ習俗。
万葉集などでは「歌垣(かがい)」という。そこに青年男女が集まってきて好きな相手と交わることができた。規模の大きい合コン+フリーセックスだね。
この一時的な性の解放は集団婚ともいえる。民俗として明治時代まであった地方もある。
(沖縄の「もうあしび」)
毛遊び - Wikipedia
かつて沖縄で広く行われていた慣習。主に夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会をいう。このような習俗は沖縄のみならず、近代以前までは日本各地にみられ、古くは『歌垣(かがい、うたがき)』と呼ばれる男女交際の場があり、恋歌の掛け合いをしながら互いの気持ちを確かめ合ったと言われている。
(歌垣)
男女どちらかが求愛の問いかけをして、OKだったらすぐに結ばれる。性愛=結婚だが、親や兄弟とこれまでどおり仕事と生活を共にし、同じ家に住む。
夜になると主に男性の方が女性の家に通う「妻問婚(つまどいこん)」。夫の両親と顔を合わせることもないと、嫁・姑問題はおきないね。夫婦というのはいつ離れるかもしれない流動的な関係。現在の若い人の事実婚と似ているね。それぞれアパートを借りて行き来している。嫌いになったらさっさと別れる。
そんな関係は、男女が経済基盤をそれぞれちゃんと確立しているからできること。結婚が「永久就職」でなく、子どもができたら育児を任せられるしくみがあれば、不安はあるが結婚しないほうが自由でいいと考える人が日本でも増えた。
(結婚・同棲・未婚比率)
日本人は女性が結婚で経済的安定を得る代わりに我慢をしいられるのが当たり前と考えるのが一般的。そして女性が経済的困窮に陥れば、最後は売春で稼ぐしかない。で、現在の日本では売春が激増している。夜、新宿2丁目に通りかかれば、自主売春の女性が並ぶように立っている。家もなくネットカフェに泊まるために男に声をかける。警察も注意しないし、支援のNGOも行政が排除してしまった。悲しくなる。女性が食べていけた古代には社会的職業としての売春はなかった。
奴隷制のはじまり
稲作が伝わった頃、土器も手でこねるのではなく、ろくろを使って大量に作ることが可能になり、青銅や鉄も朝鮮と近い北九州から伝わり、縄文の文化は滅びていった。
そのころ、中国人や朝鮮人との混血もだんだん増えていったから、「日本民族」というのも判然としているわけではない。農業は女性が中心、関連した酒づくりとか、植物から布をつくり、蚕を育て…、生産活動は高まっていった。
生産活動がすすむと氏族間の不平等が拡大し、生産活動で力を発揮できない男は暴力志向になるのかしらね。強い氏族が弱い氏族を征服し、滅ぼしてしまわないで、組織はそのままで一部を奴隷化した。男の奴隷を奴(ぬ)、女の奴隷が婢(ひ)で、両方で奴婢(ぬひ)という。
民主平等の社会から、王、「大人(たいじん)」=貴族、「※下戸(げこ)」=平民、奴婢という階級ができてくる。
※「戸」とは律令制における課税単位。元来、最上位の大戸から、上戸、中戸、下戸と定めた上で婚礼時の酒量を決めたことから、転じて酒を良く飲む人を上戸、余り飲めない人を下戸と呼んだ
邪馬台国では大人は一夫多妻、下戸は一夫一婦制、女性と子どもは家長の従属物。ヤマト政権のトップは「大王(おおきみ)=のちの天皇」と呼ばれて、軍事力でなく祭祀的な宗教権力で統治した。人々はたえず反抗し、ストライキなども行い血で血をあらうことが日常茶飯事であったという。
奈良時代の風土記には、ヤマト王権に対抗し、大分県で大勢の女性首長が山にこもって戦い、滅ぼされた「土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)」という一団があったと記されている。「土蜘蛛」というのはヤマト王権側の侮蔑的な表現だが、妖怪の「土蜘蛛」。能の「土蜘蛛」は滅ぼされる者のあでやかさが圧倒的。舞台が糸でいっぱいになる。弥生時代から古墳時代の前期の多くの墳墓では30代から40代の女性首長らしき女性が埋葬されている。女性が生き生きと働いて生きていた時代は古代に男性支配の時代になっていく。
(妖怪土蜘蛛)
(能「土蜘蛛」)
古代天皇制への道
卑弥呼と壱与
(映画「卑弥呼」)
卑弥呼(ひみこ、ひみか)、この誰もが知る有名人は3世紀に実在したことは確かなようだが、謎に満ちている。
卑弥呼について書かれたオリジナルは「魏志倭人伝」のみ。「魏志倭人伝」は通称で、正しくは三国時代の中国の歴史をまとめた『三国志』のなかの「魏書東夷伝の倭人の条」のことを指す。卑弥呼が活動していた時期に一番近い3世紀末に書かれた中国史書で、2000字ほどだが、漢字ばっかり(漢文)なので中身は詰まっている。日本語でもいいから一度読んでみられることをお薦めする。
日本で文字(漢字)が使用されるようになったのは6世紀頃。卑弥呼が生きた3世紀には記録できるようなしっかりした文字はなかった。
(魏志倭人伝冒頭の部分)
(後漢時代の地図 倭国(邪馬台国)の場所は九州だが、今は九州説と畿内説が有力)
古代の東アジアにおいて女性が統治する国というのはきわめてまれなトピックス、しかも父系親族社会、儒教の男尊女卑が定着している中国で書かれ、これを男性が読むから、卑弥呼=巫女で女王という認識だけが独り歩きする。
前回に魏志倭人伝のオリジナルの日本語読み下しを書いたが、卑弥呼は巫女で祭祀担当で行政面は弟が補佐する男女の共同統治、これは女性だから男性の手助けがいるということではなく、5世紀で武力で国を統一した男王雄略でさえ、呪術の能力を発揮し、神風を吹かせたり、豪族に支えられていた。
ただ、卑弥呼とそのパートナーは、中国の覇権争いに乗じて魏の皇帝に貢物を携えた使者を送り、称号をもらった。外交手腕があったことは確かなようだ。
大国に認めてもらい、国内での地位を固めるのは、今の自民党政治にも受け継がれているね。首相指名を受けるとすぐにワシントン詣でをし、大統領に「ジョー」と言うのと同じようなものだね。
(三角縁獣鏡 魏から卑弥呼の貢物への返礼品という説がある)
卑弥呼が倭国の王と呼ばれてからどうなったか?教科書ではフォローがないが、魏志倭人伝には卑弥呼の死について、大きな墓が築かれたこと以外の詳細はない。倭国は南の狗奴国(くぬのくに、くなこく)と長い間対立関係にあったことから、戦死、病気、老衰…いろいろ説がある。
(箸墓(はしはか)古墳 卑弥呼か壱与の墓という説あり。ミューオン(宇宙線)使った調査では未盗掘。宮内庁管理のため発掘は許可されない)
卑弥呼の死後、跡継ぎとなったのが13歳の少女、壱与(いよ)であった。古代は未婚の女性でも女王になれる。古代社会はさまざまな面で男女の差があまりなかった。女性の社会的地位もそれなりに認められていることから、未婚女性でも財産が所有できた。
卑弥呼の名前は、古事記や日本書紀にはない。ただ、日本書紀のなかに、神功皇后が摂政として政治をおこなった時代に、倭から魏に使者を送ったという記述がある。神功皇后は女性だったので、卑弥呼か壱与のことだという説もある。
次は女性天皇について。女性天皇認めるかどうか?という話題に貢献する古代女性天皇のお話。これは古代にいれようと思いましたが、女性統治つながりで、卑弥呼のあとにしました。お楽しみに。(koki)
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