住みたい習志野

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ベートーヴェン(その2)習志野収容所でも演奏されたベートーヴェン、秘密警察に監視されていた

2020-11-19 17:55:17 | 投稿

演奏会にも警察官。秘密警察の監視下におかれていたベートーヴェン。ただの変人ではなかった

 ところで、ベートーヴェンと言えば、その変人ぶりは有名です。下宿を転々と、ウィーン市内で79回も引っ越しをして回ったとか、レストランで出てきた料理が気に入らず、ウェーターの頭から皿をかぶせたなどという珍談は枚挙にいとまがありません。彼は五線紙と鉛筆をポケットに突っ込み、ウィーンの森を散策しながら思い付いたメロディーをスケッチするのが日課でしたが、1820年のある日、一軒の農家が夕食のテーブルを囲んでいると突然、窓の外にぬっと不審な男の顔が現われました。警察が駆け付け、この浮浪者を逮捕します。幸いすぐにベートーヴェンだと判明したようですが、作曲に夢中になっている内に道に迷い、夕食の匂いに誘われて農家を覗いたのだということです。

 こういった奇行は事実だったでしょう。しかし、それにしてもずいぶん細かく記録され、語り残されているとは思いませんか。実はベートーヴェンは監視されており、こうした変人ぶりは誇張され、執拗に世に流されていたのです。

 ナポレオンが失脚すると、ウィーン会議が開かれます。いわゆるウィーン反動体制を指導したのはオーストリアの宰相メッテルニヒでした。ヨーロッパフランス革命前戻そうと、秘密警察が暗躍し思想弾圧が始まります。このような中で、「メッテルニヒなんて馬鹿野郎だ」「俺も皇帝も同じ人間だ」などと公言してはばからないベートーヴェンは、実は厄介者だったのです。そこで、ベートーヴェンの変人ぶりを誇張し、こと細かに流布することで「あれは頭がおかしい、かわいそうななのだ」「ベートーヴェンの言うことなど真に受けてはいけない」と世間に思わせたのでした。

 1825年3月、交響曲第9番が完成します。初演の演奏会は大成功でした。完全に耳が聞こえなくなっていたベートーヴェンはステージ上で、指揮者の隣に椅子を置きオーケストラの方を向いて座っていたようですが、喝采に次ぐ喝采。人々は作曲者の耳が聞こえないことに気が付くと、ハンカチを振ってこの喝采を伝えたのだと言います。ところが伝記は、続いてこう書いています。「ステージには警察官が躍り出て、熱狂する喝采を止めた。皇帝に対する喝采も3度までと決められていたのに、それを越えそうになったからである」。さて、ここで問題は、なぜそんなところに警察官がいたのか、です。

 日本でも戦前は、劇場や演説会場に臨検席という、警察官が座る場所が用意されていました。反政府的な演説や芝居には、サーベルをガチャつかせて「弁士中止」「上演中止」と命ずることが出来た。ベートーヴェンの場合も、それだったのです。「よろこびの翼の下、王侯も乞食も、すべての人は兄弟となる」などと歌い上げる「第九」の発表会など、危険なイベントとして最初からマークされていたのでした。興奮した聴衆がベートーヴェンを先頭に、王宮までデモを始めたりするのではないか。だからこそ、警察官が飛び出してきたわけですね。

メッテルニヒの反動体制はベートーヴェンの死後も20年ほど続き、1848年の3月革命でやっと倒されます。その間、伝記作家は、なぜこんな所に警察官がいたのか、はっきり書くことが出来なかったのでした。

第九の詩はシラー作。最初は「自由の歌」だったけれど検閲を恐れて「歓喜の歌」に変えた

 その交響曲第番「合唱付き」、通称「第九」ですが、演奏に1時間以上かかる大曲である上に、第四楽章では独唱者4人と大合唱団が加わり「歓喜の歌」を歌いあげます。交響曲は言葉がない、オーケストラだけの楽曲、という既成概念を超えてしまったわけです。

 その「歓喜の歌」の詩は、まさにフランス革命の産物でした。書いたのはゲーテと並ぶ詩聖シラーです。1785年、革命勃発の4年前に発表され、変革を望む若者らに広まっていったといいます。「歓喜よ、なんじの翼の下、すべての人々は兄弟となる」「手を取り合おう、幾百万の人々よ」というわけですが、「歓喜」(Freude)というのは検閲を恐れて「自由」(Freiheit)を言い換えたものだとされています。また、フランス革命のニュースがドイツに伝わると、革命歌「ラ・マルセイエーズ」のメロディーにこの詩をつけて歌うのが流行ったのだと言います。ベートーヴェンは当時、ボン大学の聴講生でしたから、学生らが毎夜、酒場でビールを傾けてはこれを歌うのを聞いていたはずなのです。ボン大学では、シラーの友人フィッシェニヒ教授をしていましたが、彼からシラーの夫人に宛てた1793年の手紙は、ベートーヴェンという青年シラーの歓喜」に新しい曲を付けようとしている、と報じています。しかし、この構想が「第九」として実現するのは上に見たように1825年、実にそれから32年後のことでした。

 ベートーヴェンは老境にさしかかり、交響曲第7番・第8番の発表(1812年)からは10年以上が経過して「もはや才能が枯れてしまったのだ」と噂されていました。実際には弟が死に、その息子、つまりベートーヴェンにとっては甥に当るカールの親権をめぐって、弟の妻と裁判沙汰になるなど、生活のゴタゴタに巻き込まれて意気消沈していたのです。耳はいよいよ聞こえなくなり、新しい作品を発表しないので経済的にも苦しくなってきた。そんな孤独な日々の中、ベートーヴェンが当初、この9番目の交響曲のフィナーレと考えたのはこんな曲でした。

現在、弦楽四重奏曲第15の終楽章として知られている雄渾な曲ですが、最初はこれを新しい交響曲のフィナーレにしようとした。当時のベートーヴェンの孤独な現実が現われていますね。

苦悩を突き抜けて歓喜に至れ、暗い曲だったはずが歓喜(祈り)の曲に大変身

 ところがふと、シラーの「歓喜の歌」を思い出したのです。俺が「歓喜」に新しい曲を付けてやると豪語していた若き日のことを思い出したのです。こうして交響曲のフィナーレは、「歓喜の歌」の大合唱に差し替えられ、今日我々が耳にするような形になりました。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ(Durch Leiden Freude!)」というベートーヴェンのモットーそのもののような曲となったのです。

 このように「歓喜の歌」と言っても、うれしいな、楽しいな、という浮かれた曲ではありません。むしろ、祈りの曲と言ってもいいでしょう。次の動画は2011年、東日本大震災の中で演奏された「第九」です。

多くの人が亡くなり大変な被害が出ている中で「歓喜の歌」とは? という人もいたでしょうが、指揮をしたズビン・メータ氏は、このような時だからこそ、苦悩を突き抜けて歓喜に、と叫んだベートーヴェンの精神を思い出して欲しい、と語っています。なおメータ氏は、3月11日の震災当日はフィレンツェ歌劇場来日公演の指揮者として東京にいました。公演はすべて中止され一行はイタリアに戻りましたが、「日本の友人たちのために何も演奏できず、去るのは悲しい」と語っていたメータ氏はその後、一人東京に戻りました。そして余震が続く中、NHK交響楽団を指揮してこの「祈りの第九」を演奏してくれたのでした。このことは、わが国の音楽史にきちんと伝えなければいけないことでしょう

最初に習志野で演奏されたベートーヴェンの曲は「自然における神の栄光」

 ところで、このブログは「住みたい習志野」ですから最後に習志野の地で最初に演奏されたベートーヴェンの曲は何だったかをご紹介しておくことにしたいと思います。大正6年(1917)10月31日習志野俘虜収容所のドイツ捕虜オーケストラと男声合唱団が、「自然における神の栄光」という曲を演奏しています。こんな曲です。



捕虜劇団の幕間(まくあい)の音楽にもベートーヴェンが使われた

また、大正8年(1919)10月に捕虜劇団がイプセン「社会の柱石」という演劇を上演した際、幕間の音楽としてベートーヴェンの交響曲第7番第二楽章演奏されたことがわかっています。

修了公演「社会の柱」

これらが当時の習志野の住民の耳にどう聞こえたのかは記録がありませんが、100年前、確かに習志野の空にベートーヴェンが響いていたのです。そのことをご紹介して、偉大な作曲家の生誕250年を迎えたささやかな祝賀にしたいと思います。(了)

 

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