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住みたい習志野

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習志野原の開拓の歴史伝える「7坪の家」 最後の1棟

2023-09-17 07:48:58 | 歴史

(毎日新聞の記事より)

習志野原の開拓の歴史伝える「7坪の家」 最後の1棟の家族の思い

習志野原の開拓の歴史伝える「7坪の家」 最後の1棟の家族の思い | 毎日新聞

習志野原の開拓の歴史伝える「7坪の家」 最後の1棟の家族の思い | 毎日新聞

 かつて習志野原といわれた千葉県船橋、習志野、八千代市にまたがる一帯には、戦後にこの地を開拓した人たちが住んだ「7坪の家」と呼ばれる建物が点在していた。多くが取り...

毎日新聞

 

かつて習志野原といわれた千葉県船橋、習志野、八千代市にまたがる一帯には、戦後にこの地を開拓した人たちが住んだ「7坪の家」と呼ばれる建物が点在していた。多くが取り壊され、現在は最後とみられる1棟が残るが、老朽化で早ければ年内に解体される見通しになっている。終戦間もない時代、小さな家で懸命に生きた一家の思いとは――。

 「冬にはすきま風が入ってきて、寒かったね」。今年7月、船橋市の住宅地の一角にある古びた木造平屋の建物を見ながら、所有者の高橋みちさん(91)と長女の和子さん(69)=いずれも同市=はここで暮らした日々の思い出をしみじみと語った。黒ずんだ板張りの壁が、時間の流れを感じさせた。

 習志野原では明治初期に旧日本陸軍の演習場が開設された。深刻な食糧難に陥った戦後、1000万平方メートルを超える広大なこの土地で、復員軍人や海外からの引き揚げ者らによる農地開拓が始まった。

 みちさんの夫熙(ひろし)さん=2022年6月に96歳で他界=もその一人だった。

(飯山満通信:公民館地域講座の記述)

飯山満通信 『習志野原の変遷』 習志野原開拓の経験

(南習志野原開拓史)

https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0008/0002/p022513_d/fil/2-004.pdf

開拓者の住宅は二 回に別けて計画されました。

第一次は、昭和21年 3月末までに10坪の住宅が 100棟 、第一地区より第五地区にそれぞれ20棟づつ建てられました。

家屋の基礎は、今震災に見られる仮設住宅のように、丸太を打ち込み、水平を見て土台が敷かれ家が建てられました。外装は松板の横張利で、屋根は板張りの上にルーフイング張りで、内装は壁でなくベニヤ張りで天丼板はなく、梁や屋根板が見え、座敷は畳は入らず、 また窓や玄関格子にはガ ラスが無く、襖戸はベニヤ張りでした。

第二次は 7坪の開拓者住宅で、 250棟が契約されたが、インフレによって再三の契約変更があり、完成は二十二年末になりました。 その間に農地開発営団、全国農業会などの主催による懸賞家屋 27棟が、第一地区に建てられました。

屋根はトントン葺きで内装では壁がなく、各自で壁を塗り着けました。 もちろん畳はありません。

 

 

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津田沼駅と幕張駅の間に習志野駅が建設されていたかもしれない話

2023-09-10 00:31:46 | 歴史

昔、今の習志野市の5倍以上の面積の「大習志野市」にする構想があった。津田沼駅と幕張駅の間に「幕張本郷駅」ではなく「習志野駅」をつくる、という計画もあった

「津田沼駅と幕張駅の間に習志野駅が建設されていたかもしれない話」という動画、習志野市の知られざる物語です。

幕張本郷駅が建設される前、津田沼駅と幕張駅の間に習志野駅を建設するという計画があった

今はもうありませんが、幕張町、犢橋(こてはし)村、津田沼町、二宮町などの市町村が昔は存在していた

昭和の大合併が始まったころ、津田沼町は二宮町と合併し、市制を敷くことを決めた

津田沼町と二宮町が合併した後は、幕張町や犢橋村、幕張町の北にある大和田町などの町村とも合併して、

習志野市を成立させようとしたこれが大習志野市構想。しかしこれはうまくいかなかった

「大習志野市」構想

 

二宮町は津田沼町ではなく、船橋市と合併してしまった(1953年8月)

当時の船橋市は、津田沼町にも合併の申入れをした

しかし当時の津田沼町長は、船橋市の財政が人件費などに多く使われていることを批判し、合併を拒否した

二宮町を取られた津田沼町は次に、幕張町と犢橋村を選んだ

そして津田沼町、幕張町、犢橋村は合併協議会を開き

次の3項目を決定

なので津田沼駅と幕張駅の間、合併後の習志野市のちょうど中央に、習志野市の中心駅となる習志野駅をつくり、そこを市の中心街にしようとした

しかしその後は結局幕張町の大部分と犢橋村は千葉市と合併、大和田町は八千代市となってしまったので、津田沼町と幕張町の一部が市政を敷き、現在のような習志野市の形になった

習志野駅の建設は3町村の合併協議会で決めたことなので、合併協議会の解散とともに計画が消滅した

習志野歴史散歩:習志野市の市域が決まるまでのお話 - 住みたい習志野

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習志野市の市域が決まるまでのお話習志野市役所って、新京成の「習志野」駅にあるの?「今、習志野の駅にいるんですが、市役所はどこですか?」言うまでもなく、新京成の習...

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関東大震災のちょっといい話/朝鮮人300人の命を守り抜いた「日本のシンドラー」警察署長 大川常吉

2023-08-29 16:17:05 | 歴史

今年は関東大震災から100年。さまざまにニュースでも取り上げられていますが、震災の混乱の中、朝鮮人300人の命を守り抜いた警察署長の話、ご存じでしょうか?

関東大震災のちょっといい話/朝鮮人300人の命を守り抜いた警察署長 大川常吉

(以下の記事より一部引用)

関東大震災のちょっといい話 朝鮮人300人を守り抜いた警察署長 大川常吉 関東大震災100周年 写真レポート 山村武彦 関東大震災の奇跡 조선인 300명의 생명을 지켜 뽑은 경찰서장

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、10万人以上の死者・行方不明者を出したが、もう一つの悲劇はデマににより引き起こされた朝鮮人虐殺事件であった。

このデマは『朝鮮人が婦女を犯し、井戸に毒物を投入した』などというもので、このため、日本刀や竹槍、猟銃などで武装した自警団が、関東一円で三千七百もつくられ、朝鮮人を襲ったという。

『警察史』から抜粋すると、『二日夕、自警団員が四人の男を朝鮮人だと鶴見署に突出し、「持っている瓶に毒が入っている。たたき殺せ」と騒いだ。

当時、46歳の大川署長は「そんなら諸君の前で飲んで見せよう」瓶の中身を飲み、暴徒を納得させた。

翌日、状況はさらに緊迫。大川署長は多数の朝鮮人らを鶴見署に保護する。群集約千人が署を包囲し、「朝鮮人を殺せ」と激高。大川署長は「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先に片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝。

体を張っての説得に群集の興奮もようやく収まったかに見えた。しかし、それでも収まらない群集の中から代表者数名が大川に言った「もし、警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と。

すると大川は「その場合は切腹して詫びる」と答えた。そこまで言うならととうとう群衆は去って行った。

保護された人は朝鮮人220人・中国人70人ら、計300余人に上る。保護された朝鮮人・中国人は合わせて301名に増え、9月9日鶴見警察署から横浜港に停泊中の崋山丸に身柄を移しその後海軍が引き受けて保護した。保護された朝鮮人のうち225名はその後も大川署長の恩に報いるべく震災復興に従事したという。

本に書かれた大川常吉さんの素顔

キョンナムさんの「ポッカリ月が出ましたら」という本に大川常吉さんのことが、こんな風に書かれています。

 当時、鶴見で職工をしていた門司亮さん(後に民社党の衆議院議員)の著書の中にも”朝鮮人守った署長”という見出しでこのときのことが書かれている。

 このときの様子を詳しく知りたくて、94歳になられるという門司さんの自宅を訪ねた。体調がすぐれず床についておられたが、質問に答えてくださった。

ー大川さんを知ったのは…。

「震災のとき、私は26歳で鶴見の浅野製鉄所という会社の職工をやってたのね。大川さんは鶴見の警察署長をしていて、よく会うことがあったよ」

ーどういう印象の方でしたか。

「本当におとなしい人でね。警察の署長をしているような感じの人ではなくて、温厚な人だった。」

ーあの時代、日本人の朝鮮人に対しての差別意識は大変強かったと思うんですが、大川さんはなぜ、命をかけてまで朝鮮人たちを守ろうとしたんでしょう。

「どこの国の人間だろうと、人の生命に変わりはない、と。人の命を守るのがオレの仕事、任務だと言ってたからね。そりゃあ、よくできた男だった」

ー助けられた人たちは、全員無事だったんですか。

「そう、警察に何日間か保護して、住民の救済用に使った船に乗せ、神戸とかに送ったみたいだね。
 大川さんがいなけりゃ、みんな殺されてたよ。ハリガネで縛って竹ヤリで殺したりしてたんだから。震災のあと、会社に行ったら会社の前に死体がいっぱい積んであった……」

(動画:300人!! 関東大震災のデマから朝鮮人を救った男 大川常吉について)

(動画:デマと虐殺と関東大震災)

(news23の報道より)

「ころしたちょうせんをうみへながしました」虐殺目撃した小5児童の作文 

「ころしたちょうせんをうみへながしました」虐殺目撃した小5児童の作文 関東大震災から100年 初めて撮影許される “ひらがな”だけで綴られた惨状【news23】 | TBS NEWS DIG

「ころしたちょうせんをうみへながしました」虐殺目撃した小5児童の作文 関東大震災から100年 初めて撮影許される “ひらがな”だけで綴られた惨状【news23】 | TBS NEWS DIG

関東大震災から9月1日で100年を迎えます。震災では地震による被害の一方、デマにより多くの朝鮮人らが虐殺される事件がおきました。横浜市にある図書館に当時の小学生がその...

TBS NEWS DIG

 

関東大震災から9月1日で100年を迎えます。震災では地震による被害の一方、デマにより多くの朝鮮人らが虐殺される事件がおきました。横浜市にある図書館に当時の小学生がその様子を記した作文が保管されています。

小学校5年生の作文
「ころしたちょうせんを かんごくまえのうみへ ながしました」

「ちょうせんじんがにげたので みんなおとなのひとは てつのぼうをもって ちょうせんせいばつにいきました」
「てつのぼうでころしたり」
「ころしたちょうせんを かんごくまえのうみへ ながしました」

関東大震災、間一髪で命拾いした王貞治さんのお父さん(ブログ読者からの情報提供) - 住みたい習志野

関東大震災から100年 「福田村事件」と「払い下げられた朝鮮人」という2つの映画 - 住みたい習志野

 

 

 

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知らなかった!原爆のことは敗戦から8年間隠されていたが、学生の「原爆展」がきっかけで知られるようになった

2023-08-10 02:52:55 | 歴史

NHK「歴史探偵」なぜ隠された?原爆被害の実態

今では原爆の実態が知られるようになっていますが、戦後8年間原爆の事実はひた隠しにされていた、という事実をNHK「歴史探偵」で9日放送しました。

(下の画面をタップすればご覧になれます)

歴史探偵「消えた原爆ニュース」20230809 - 動画 Dailymotion

歴史探偵「消えた原爆ニュース」20230809 - 動画 Dailymotion

歴史探偵「消えた原爆ニュース」20230809を見る - Dailymotionでyk5tvを視聴

Dailymotion

 
なぜ隠された? 原爆被害の実態 歴史探偵

なぜ隠された? 原爆被害の実態 歴史探偵

加賀藩から江戸まで真夏に氷を運んだ氷献上に挑戦!金沢から東京まで480km。氷は溶けることなく無事届くのか?ハラハラ、ドキドキ、感動の歴史ドキュメント。

NHK_PR

 

原爆の被害について、終戦から6年間は詳しい状況が伝えられなかった

アメリカでは国内向けに Duck and Cover(身をかがめて両手で頭を覆い隠す)という宣伝動画をテレビで流し、原爆は大した爆弾ではない、ちょっと身を隠せば大丈夫、というでたらめなキャンペーンを行っていた。そうして自らの戦争犯罪を隠そうとしていた。

ところが、朝日新聞に鳩山一郎のインタビュー記事が載り、その中で鳩山が「原子爆弾や無辜(むこ)の国民殺傷は国際法違反の戦争犯罪」と語ったためGHQ(アメリカ占領軍)は激怒し、朝日新聞を2日間発行停止にした。

以後、厳しい「事前検閲」とPress Code(報道統制)が行なわれるようになる。

1948年事前検閲は廃止になるが、Press Code(報道統制)は続き、メディアは「発行停止処分」を恐れ、「自主検閲」により、自分で自分の首をしめるようになった。

そんな折、京都大学で天野重安教授(病理学)による原爆被害、体内に残った放射能などに関する特別講義が行なわれ、学生たちは原爆の実態を初めて知らされ、ショックを受ける。

「知ってしまった以上、広く知らさなければならない」と、学生たちは「原爆展」を企画するが、占領下で大学の協力を得られなかった。

仕方なく学生たちは広島現地に行って聞き取りを始めたが、被爆者の多くは自らの体験を話そうとしなかった。

そこには当事者しかわからない苦しみがあった。

「ものすごく嫌な思いをして、被爆者が差別されている。うつる、とかそういう全く正しくないね…」

そこに転機が訪れる。学生たちの一人がある人物に出会う。吉川(きっかわ)清さん。「平和のための真面目な催し物に感動した」と自らのケロイド(原爆による大やけど)写真の公開を許してくれた。

京都大学で行った原爆展には3万人が来場。来場者の一人は「死んでいく人たちの呻(うめ)き、想像を絶する痛み、苦しみ 悲しみを見 感じた時 何という恐ろしいことをと大きい声で叫びたい気持ちでした」という声を寄せた。

学生たちの中には軍隊経験者もいて、朝鮮戦争も起きる中、また戦争に持っていかれるかも知れない、という切実な危機感があった。逮捕されても戦争を止めなければ、という強い思いがあった。

その後「原爆展」は日本各地で行なわれ、1年後の「アサヒグラフ」は原爆被害を特集し、原爆の実態が広く知られるようになっていった。

再放送:2023816日(水)16:15-17:00NHK総合、45分)

 

 

 

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習志野の民話「小すずめのバラード」の「小すずめ」とは一体、何ものか?

2023-08-08 17:14:53 | 歴史

習志野の民話「小すずめのバラード」の「小すずめ」とは一体、何ものか?

以前の投稿

習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史(菩提樹、聞き書き民話、西郷寅太郎) - 住みたい習志野

で「習志野の民話」の中の「小すずめのバラード」というお話を紹介しました。

市役所に消された?聞き書き民話「小すずめのバラード」

「習志野市制施行60周年記念 習志野の民話」(習志野市制施行60周年記念事業実行委員会・平成26年)という本があります。中に「小すずめのバラード」という一篇が入っているものと入っていないもの、2つのバージョンがあります。編集に当たった「習志野民話の会」が60周年記念事業の補助金を申請したところ、役所の事務局が「これはカットしろ」と命じたようです。その結果、「小すずめのバラード」が入っていないものが印刷・配布された。しかし、民話の会の中で「補助金をくれないのなら、我々のお金で『小すずめ~』が入っているものも作ろう」ということになり、そのお陰でわずかな部数ながら『小すずめ~』が入っているものも存在する、というわけです。(「小すずめのバラード」、ドイツ人捕虜オーケストラのお話です。以下、「習志野の民話」より)



 

ドイツ人俘虜収容所のお別れパーティー用に作られた「ビール新聞」に載った、「野ばら」の替え歌、「小すずめのバラード」

※「バラード」とは四行詩のことです。

 

このお話と関係するエピソードが、「ドイツ兵士の見たニッポン」という本(87ページ以降)の中に書かれています。

 帰国を前に開いたお別れパーティーのための「ビール新聞」には「小すずめのバラード」と題する、ゲーテの有名な「野ばら」のパロディーが載っている。

また「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者、Hさんは、後に以下のように述べています。

史料紹介

東京のドイツ-日本研究所図書館に、習志野収容所で発行された「収容所楽団と男声合唱団のお別れパーティーのためのビール新聞」なる印刷物が所蔵されている。解放・帰国を間近に控えた彼らの、パーティー当夜の気分を伝えてくれる楽しい史料である。

習志野収容所「収容所楽団と男声合唱団のお別れパーティーのためのビール新聞」(1919年11月30日)に載った「小すずめのバラード」

Spätzlein–Ballade
1. Sah man da ein Spätzlein stehn, Spätzlein schlug das Becken,
 Auch die Pauke wunderschön; um den Rhythmus wär’s gescheh’n
Ohne diesen Recken!
Spätzlein, Spätzlein, hab gut acht, acht auf Pauk und Becken!
2. Lange Pause setzt als denn ein für Pauk und Becken–
 Spätzlein gleich an Schön’res sann – Traumgekose ihn umspann,
 Niemand ihn tat wecken!
 Spätzlein, Spätzlein, wer hat acht, acht auf Pauk und Becken?
3. Und das größe Solo naht jetzt für Pauk und Becken.
 Rippenstoß – es war zu spät! O, gab das Musiksalat!
 Jeder konnt’s entdecken!
 Spätzlein, warum hast nicht acht, acht auf Pauk und Becken!
4. Spätzlein, rot und voller Scham stand bei Pauk und Becken!
 Hin ist nun sein Künstlernam! Dieser Klecks wurmt ihn infam
 Und dazu dies Necken:
 Spätzlein, lehne Soli ab, die für Pauk und Becken!


小すずめのバラード 
1 小すずめがいて、シンバルをつついているぞ。
 太鼓も素晴らしい。この大男がいなかったら、リズムは台なしだ。
 小すずめよ、小すずめよ、よく気を付けて、太鼓とシンバルに気を付けて!
2 その後、長い休止が太鼓とシンバルに訪れた。
 小すずめにすぐに想起されるもの、それはより良きものの夢の愛撫が彼を包む。
 彼を起こす者は誰もいなかった!
 小すずめよ、小すずめよ、誰が気を配るのだ、太鼓とシンバルに?
3 そして、太鼓とシンバルに大きな見せ場が近づいて来た。
 脇腹をつついたが――遅すぎた。ああ、音楽はめちゃめちゃだ!
 誰でも見つけることができたのに!
 小すずめよ、なぜ気を配らなかったのだ、太鼓とシンバルに!
4 小すずめは赤くなり、恥ずかしそうに太鼓とシンバルの脇に立っていた。
 彼の芸術家としての名声はすっ飛んでしまった! この汚点が、彼をひどく立腹させる。
 そして、そのうえこのように冷やかすのだ、


 小すずめよ、やめなさい。太鼓とシンバルの独奏は!
とはすぐわかろう。

問題は「小すずめ」が誰かということである。

「小すずめ」とは、オーケストラで太鼓とシンバルの演奏のタイミングをはずしてしまう、ドジな兵士Sperling(シュペルリング)のことだった

Spätzlein に「おちびさん」の意味があることから、筆者は以前、日本の子どもがオーケストラの練習に紛れ込んだ一場面なのではないかと考えたのだが、今やこれは訂正しなければならない。「ビール新聞」の記事「音楽のABC」中の「シュペルリング氏は太鼓を叩く」、続く記事「頭音転換」中の「首をかしげ、シュペルリングは物思いに沈む。叩打の合図が、かすかな頭の動きで彼になされた」等から、この太鼓打ちはシュペルリングであることがわかる。Sperling もまたドイツ語で「すずめ」の意味であることは言うまでもない

結局習志野の民話や「ビール新聞」に載った「小すずめ」とは、俘虜番号1473、Eduard Sperlingのことだったのです。

その後のシュペルリング(小すずめ)氏

その後のシュペルリング氏については、このブログの次の記事に載っています。

捕虜収容所ドイツ兵のその後(ユダヤ人収容所と南京陥落) - 住みたい習志野

南京陥落の現場にいたシュペルリング

昭和12年(1937)、盧溝橋事件の後、第二次上海事変によって中国との全面戦争が始まると、上海ではたちまち日本軍が苦戦に陥りました。ナチス・ドイツの軍事顧問団によって支援された中国側は、かねてから日本軍を迎え撃つ「ゼークト・ライン」という陣地網を構築していたのです。

しかし増援軍の上陸によって戦線を立て直した日本軍は、その勢いに乗って一気に中華民国の当時の首都・南京に迫ります。蒋介石は南京を見捨てて漢口(現在の武漢)、さらに重慶へと逃げ出します。南京が陥落したのは84年前の12月13日のことでした。

この南京攻略戦の折に、悪名高き「南京大虐殺」という事件が発生したとされているわけですが、本当に大虐殺があったのか、違うのか、人数は数万人だったのか、30万人だったのか、といった話には今日は立ち入りません。ご紹介したいのはそういったことではなく、この渦中に、かつて習志野収容所にいた老ドイツ人がいたことです。

日本軍が南京城に迫ると、南京にいた10数人の外国人が「南京安全区国際委員会」を組織し、城内の一画に民間人を保護する「安全区」を設定します。この安全区に日本軍がなだれ込んでしまい、虐殺が起きたとされているわけですが、国際委員会の委員長を務めたのは、ジョン・ラーベというドイツ人でした。彼はジーメンス社の駐在員として中国に約30年滞在しており、ナチス党南京支部副支部長でもありました。

そして、この国際委員会にはもう1人、エドゥアルト・シュペルリングというドイツ人がいたのです。笠原十九司(かさはらとくし)著「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」(岩波現代文庫)という本によれば、「ドイツ人。ドイツ資本による上海保険会社の南京支店長。南京安全区国際委員会委員、ナチス党員。日本兵士の暴行に対して体を張って阻止し、難民区の“警察委員”といわれた。1914年の第一次大戦(日独戦争)で青島戦に参加。日本軍の捕虜となり、四国の捕虜収容所で4年間を過したことがある」と紹介されています。

南京安全区国際委員会

中央の黒縁眼鏡がラーベ。その右の、手に帽子を持っているのがシュペルリング

習志野収容所にいたシュペルリング

彼らが混乱の南京でどのような活躍をしたのかは、ラーベの手記「南京の真実」などに譲ることとして、ここでは話を、大正の第一次大戦に戻します。今日、防衛省防衛研究所に残されている俘虜名簿を調べると、エドゥアルト・シュペルリングは当初福岡、後に習志野に移送され、習志野で解放されていることが明記されています。またエドゥアルトにはエーミールという弟がおり、やはり俘虜になっているのですが、彼は福岡から大阪に移され、さらに似ノ島(広島市)の収容所で解放の日を迎えています。なお、シュペルリング姓の俘虜はこの2名しかいません。上に見た「四国の捕虜収容所にいた」という記述には首を傾げざるを得ません。

カール・クリューガーの回想録に出てくるシュペルリング

ところで、このエドゥアルト・シュペルリングについて、習志野にいたドイツ兵、カール・クリューガーの回想録には、次のような興味深い記述が出てきます。シュペルリングは捕虜オーケストラのメンバーだったのです。

…もう一度、収容所楽団のことを述べる。太鼓打ちとして、太った腹と黒い尖ったあごひげの、「中国だんな」が活躍していた。長らく中国に定住していた連中は、戦友たちから「中国だんな」と呼ばれていたのだ。シュペルリング、この太鼓打ちはそういう名前だったが、たぶんもう10年以上北京におり、もし私が間違えていなければ、顧問として蒋介石のもとで活躍していた。彼(シュペルリング)は、流暢な中国語を話し、中国人の妻を娶っていた。シュペルリングはしかし、楽譜がまるで読めず、それで彼はいつも、いつ太鼓の皮をぶん殴ったらよいのか、おぼつかなかった。楽長と太鼓打ちは、しかし間もなく、息が合うようになった。太鼓が鳴り響くべき時になるといつも、シュペルリングは楽長から左こぶしのサインを受け取り、そして一撃を下ろすのだった。

(カール・クリューガーの回想録「ポツダムから青島へ」)

以前このブログの記事

習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史(菩提樹、聞き書き民話、西郷寅太郎) - 住みたい習志野

の中で「小すずめのバラード」というお話しのことが紹介されていました。
 このお話の原文はシュペッツライン(~ラインは縮小辞、小さなすずめ)と言っており、クリューガー回想録によれば小すずめとはエドゥアルト・シュペルリングのことだったのでしょうね。

中国人の妻を持ち、蒋介石とも関係が深かったシュペルリング

中国人の妻を持ち、蒋介石とも関係が深い人物であることがわかります。習志野を解放されたシュペルリングは中国に戻り、上海保険会社の南京支店長、そして蒋介石とは特別の関係を持つ中国通のドイツ人として、17年後の南京攻防戦を迎えたことは間違いありません。

日本とも中国・蒋介石政権ともつながっていたナチス・ドイツ

ラーベの手記「南京の真実」の日本語版が出版された際、大方の書評は「中立の第三者が記録した南京事件の真相」「同盟国のナチス党員が記録しているのだから、内容は真実だ」といった趣旨でした。中には「あのナチですら呆れた、日本軍の蛮行」などというものもあったと記憶します。しかし以上に見たように、ラーベやシュペルリングは決して「中立の第三者」ではありません。当時ナチス・ドイツは日本と防共協定を結ぶ一方、蒋介石にも軍事顧問団を送って支援していました。日独防共協定というのはソ連を牽制するものであり、中国に関しては、ドイツは決して親日国でも同盟国でもなかったのです。

 

以上で「小すずめのバラード」のお話しはおしまいです。習志野市の歴史、奥が深いですね。

 

 

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