住みたい習志野

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捕虜収容所ドイツ兵のその後(ユダヤ人収容所と南京陥落)

2021-12-13 15:58:20 | 俘虜収容所

「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者のHさんから、俘虜収容所にいたドイツ兵の後日譚(ごじつたん)を送っていただきました。ちょっとビックリする内容です。

第一次大戦が終わった後、広島市の物産陳列館(今の原爆ドーム)で「ドイツ兵捕虜による作品展」が開かれた時、ドイツ人捕虜だったユーハイムさんがバウムクーヘンを焼いた、という話をこのブログに載せました
絵本「バウムクーヘンとヒロシマ」似島ドイツ人捕虜収容所で誕生したお菓子の物語 - 住みたい習志野

が、ドイツ人捕虜にまつわる話、まだまだ沢山あるようです。

アドルフ・ハースとユダヤ人収容所

バンドー収容所で「第九」が演奏された史実を伝える鳴門市ドイツ館

年末、ベートーヴェン「第九」の季節です。そして、「第九」にまつわるエピソードとしてよく知られるようになったのが、大正の第一次世界大戦の折、中国・青島(チンタオ)で日本と戦い、捕虜になったドイツ兵が、徳島県板東(ばんどう:現・鳴門市)の収容所で初めて、この「第九」を演奏したという史実です。
そこには、戦時国際法を遵守(じゅんしゅ)した日本側の、人道をわきまえた収容所管理があった、ということもよく指摘されています。

鳴門市には現在「ドイツ館」という立派な博物館が出来て、この歴史を末永く顕彰しています。

鳴門市ドイツ館|徳島県鳴門市『第九が日本で初めて演奏された地』

習志野にも捕虜オーケストラがあったが…

この「ドイツ館」のホームページには、世界のどこに、バンドーのような人道的な収容所があったでしょうか、という、あるドイツ兵の言葉が掲げられています。「どこに~あったでしょうか」というのは反語ですから、バンドー以外には人道的な収容所なぞ、どこにもありはしなかった、と言っているのですね。そこから、板東以外の収容所、習志野や久留米などはひどかった(に違いない)、後年の太平洋戦争期のような「地獄の収容所」だったに決っている。ただバンドーのみが特殊な例外だったのだ、という一つの「神話」も生まれているわけです。習志野にも捕虜オーケストラがあったのだ、と説明しても「そんなはずがない」と決めつける方は、いまだに少なくありません。

祖国ドイツで待っていた激動の歴史

ところで、こうした物語は、「大正9年1月、ドイツ兵は家族の待つ懐しい祖国に帰ったのでした。めでたし、めでたし」と終ってしまうのが常です。しかし、それでは本当にこの歴史を理解したことにはなりません。なぜならば、彼らを祖国ドイツで待っていたものは次なる激動の歴史だったからです。

板東に収容されていたドイツ兵の中に、アドルフ・ハースAdolf Haasという男がいました。俘虜番号4175。青島では膠州湾海軍砲兵隊第4中隊に所属する砲兵で、日本では最初、大阪収容所、その後、徳島収容所を経て板東に収容されています。収容所の中では、特に面白いエピソードは残していないようです。

ナチスの親衛隊に入ったハース

帰国後のドイツは、歴史に残るインフレの嵐に見舞われ、社会は大混乱になっていました。路上では共産主義者とナチ、そして警察や軍隊が、毎日三つ巴の乱闘を演じていました。
(ナチは1919年結成時には「ドイツ労働者党」Deutsche Arbeiterpartei、翌20年に「国家社会主義ドイツ労働者党」Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei:略称ナチNaziに名前を変えた)
このような中でハースはナチ党に入党し、親衛隊(SS:国防軍ではなく、ナチ党が持っている私兵軍団)の将校として頭角を現したようです。そしてユダヤ人絶滅に関わり、かのアンネ・フランク落命の地として知られているベルゲン・ベルゼン強制収容所の所長を務めているのです。

アンネ・フランクが送られてきた収容所の所長がハース。彼はユダヤ人絶滅に関わった

記録によれば、ハースはベルゲン・ベルゼン強制収容所の開設と共に所長となり、そして昭和19年(1944)12月には武装親衛隊戦車師団に転出、翌20年(1945)4月に戦死したことになっています。その直後にイギリス軍がベルゲン・ベルゼンを解放し、ハースの後を継いだ所長ヨーゼフ・クラーマーを犯罪人として処刑していますが、ハースの方は忘れられてしまったわけですね。なお、アンネ・フランクは昭和19年11月にアウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンに移され、翌20年の2月末から3月下旬頃にチフスで死亡したと言われています。移送されてきた時の所長はまだハースだったわけです。

いま、記録によれば戦死したことになっている、と書いたのは、実は戦後も、ナチス戦犯追及の手を逃れて、秘かに生存していたらしいとされているからです。ハースがどこで、どのようにして死んだのかは、いまだ謎に包まれているのです。

人道的な収容所にいた男が、大量殺人工場の所長になった

武士の情けを知る松江所長の下、バンドーでは人道的な収容所が営まれた。しかし、その中にいた一人の男は、その後、その対極ともいえる、非人道的な大量殺人工場の所長を務めた。「バンドーの友情」に水を差すようですが、こうしたことにも目を閉ざすべきではありませんね。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所長アドルフ・ハース

南京陥落の現場にいたシュペルリング

昭和12年(1937)、盧溝橋事件の後、第二次上海事変によって中国との全面戦争が始まると、上海ではたちまち日本軍が苦戦に陥りました。ナチス・ドイツの軍事顧問団によって支援された中国側は、かねてから日本軍を迎え撃つ「ゼークト・ライン」という陣地網を構築していたのです。

しかし増援軍の上陸によって戦線を立て直した日本軍は、その勢いに乗って一気に中華民国の当時の首都・南京に迫ります。蒋介石は南京を見捨てて漢口(現在の武漢)、さらに重慶へと逃げ出します。南京が陥落したのは84年前の12月13日のことでした。

この南京攻略戦の折に、悪名高き「南京大虐殺」という事件が発生したとされているわけですが、本当に大虐殺があったのか、違うのか、人数は数万人だったのか、30万人だったのか、といった話には今日は立ち入りません。ご紹介したいのはそういったことではなく、この渦中に、かつて習志野収容所にいた老ドイツ人がいたことです。

日本軍が南京城に迫ると、南京にいた10数人の外国人が「南京安全区国際委員会」を組織し、城内の一画に民間人を保護する「安全区」を設定します。この安全区に日本軍がなだれ込んでしまい、虐殺が起きたとされているわけですが、国際委員会の委員長を務めたのは、ジョン・ラーベというドイツ人でした。彼はジーメンス社の駐在員として中国に約30年滞在しており、ナチス党南京支部副支部長でもありました。

そして、この国際委員会にはもう1人、エドゥアルト・シュペルリングというドイツ人がいたのです。笠原十九司(かさはらとくし)著「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」(岩波現代文庫)という本によれば、「ドイツ人。ドイツ資本による上海保険会社の南京支店長。南京安全区国際委員会委員、ナチス党員。日本兵士の暴行に対して体を張って阻止し、難民区の“警察委員”といわれた。1914年の第一次大戦(日独戦争)で青島戦に参加。日本軍の捕虜となり、四国の捕虜収容所で4年間を過したことがある」と紹介されています。

南京安全区国際委員会

中央の黒縁眼鏡がラーベ。その右の、手に帽子を持っているのがシュペルリング

習志野収容所にいたシュペルリング

彼らが混乱の南京でどのような活躍をしたのかは、ラーベの手記「南京の真実」などに譲ることとして、ここでは話を、大正の第一次大戦に戻します。今日、防衛省防衛研究所に残されている俘虜名簿を調べると、エドゥアルト・シュペルリングは当初福岡、後に習志野に移送され、習志野で解放されていることが明記されています。またエドゥアルトにはエーミールという弟がおり、やはり俘虜になっているのですが、彼は福岡から大阪に移され、さらに似ノ島(広島市)の収容所で解放の日を迎えています。なお、シュペルリング姓の俘虜はこの2名しかいません。上に見た「四国の捕虜収容所にいた」という記述には首を傾げざるを得ません。

カール・クリューガーの回想録に出てくるシュペルリング

ところで、このエドゥアルト・シュペルリングについて、習志野にいたドイツ兵、カール・クリューガーの回想録には、次のような興味深い記述が出てきます。シュペルリングは捕虜オーケストラのメンバーだったのです。

…もう一度、収容所楽団のことを述べる。太鼓打ちとして、太った腹と黒い尖ったあごひげの、「中国だんな」が活躍していた。長らく中国に定住していた連中は、戦友たちから「中国だんな」と呼ばれていたのだ。シュペルリング、この太鼓打ちはそういう名前だったが、たぶんもう10年以上北京におり、もし私が間違えていなければ、顧問として蒋介石のもとで活躍していた。彼(シュペルリング)は、流暢な中国語を話し、中国人の妻を娶っていた。シュペルリングはしかし、楽譜がまるで読めず、それで彼はいつも、いつ太鼓の皮をぶん殴ったらよいのか、おぼつかなかった。楽長と太鼓打ちは、しかし間もなく、息が合うようになった。太鼓が鳴り響くべき時になるといつも、シュペルリングは楽長から左こぶしのサインを受け取り、そして一撃を下ろすのだった。

(カール・クリューガーの回想録「ポツダムから青島へ」)

以前このブログの記事

習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史(菩提樹、聞き書き民話、西郷寅太郎) - 住みたい習志野

の中で「小すずめのバラード」というお話しのことが紹介されていました。
 このお話の原文はシュペッツライン(~ラインは縮小辞、小さなすずめ)と言っており、クリューガー回想録によれば小すずめとはエドゥアルト・シュペルリングのことだったのでしょうね。

中国人の妻を持ち、蒋介石とも関係が深かったシュペルリング

中国人の妻を持ち、蒋介石とも関係が深い人物であることがわかります。習志野を解放されたシュペルリングは中国に戻り、上海保険会社の南京支店長、そして蒋介石とは特別の関係を持つ中国通のドイツ人として、17年後の南京攻防戦を迎えたことは間違いありません。

日本とも中国・蒋介石政権ともつながっていたナチス・ドイツ

ラーベの手記「南京の真実」の日本語版が出版された際、大方の書評は「中立の第三者が記録した南京事件の真相」「同盟国のナチス党員が記録しているのだから、内容は真実だ」といった趣旨でした。中には「あのナチですら呆れた、日本軍の蛮行」などというものもあったと記憶します。しかし以上に見たように、ラーベやシュペルリングは決して「中立の第三者」ではありません。当時ナチス・ドイツは日本と防共協定を結ぶ一方、蒋介石にも軍事顧問団を送って支援していました。日独防共協定というのはソ連を牽制するものであり、中国に関しては、ドイツは決して親日国でも同盟国でもなかったのです。

こういった意外なことが、習志野収容所というローカルの歴史史料からもきちんと裏付けられるというところは、興味深いですね。

 

 

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