goo blog サービス終了のお知らせ 

隅の老人のミステリー読書雑感

ミステリーの読後感や、関連のドラマ・映画など。

1461.切り裂きジャックの告白

2014年05月14日 | サスペンス
切り裂きジャックの告白
読 了 日 2014/04/21
著  者 中山七里
出 版 社 角川書店
形  態 単行本
ページ数 334
発 行 日 2013/04/13
I S B N 978-4-04-110440-8

 

上の著者名をクリックすると、著者のページへ移動します。

くほどのスピードで話題作、問題作を発表し続ける著者のエネルギーはどこから出てくるのだろう?と、そのバイタリティあふれる執筆活動にただただ畏敬の念を覚えるばかりだ。
この人の作品はとにかく全部を読んでみたいと思わせる最右翼の作家なのだが、アメリカのハリウッド映画-ここ何年かの彼の国で製作される映画のサスペンス、アクションシーンに留まることを知らぬエフェクト効果を盛り込むように、我が国の小説世界にも影響を与えているのか、ダイナミックなストーリーを展開させる内容が多くなっているような気がする。
そうしたことから、ちょっとやそっとで驚かなくなっている視聴者や読者を「アッ!」と言わせるような映画やドラマ、そして小説を生み出そうとするクリエイターの苦心も思いやられる。
しかし一方では、かなり前に台頭してきた“日常の謎派”と呼ばれるミステリーが多くの読者の支持を得ていることも見逃せない。もちろん僕もそうした物語も好きで、いくつかのシリーズの新作を待ちわびて、読んではいる。

 

 

最近はテレビドラマ化や映画化の影響が大で、本の売れ行きが大きく左右されるということもあって、作者の方も映像化を狙ってキャラクター造形や、ストーリー構成を考えるのだろうと思うが、作家へのインタビューを見ていると、中には絶対に映像化が無理なストーリー構成を考えて書くという作者もいるようだ。
そういえば、秦建日子氏の女性刑事・雪平夏見を主人公とした「推理小説」も、そんな映像化不可能を狙って書いたものだったらしいが、逆にテレビ局はドラマ化により、ドラマ・原作双方をヒットさせた。 読者の楽しみ方も千差万別で、読書の楽しみ方も一つではないから、僕はあまり興味はないのだが、ライト・ノベルと言われる読み物も一方では売れ行きを伸ばしているらしい。

そんな中で著者の作品世界は、いずれも予断を許さない結末を迎えて、読者の予想を覆す何層にも張り巡らされた伏線とともに、仕掛けを施しており、次はどんな世界を見せてくれるのかという期待を持たせるのだ。
僕はこの著者を評して、職人作家だという見方をするが、もちろんそれは褒め言葉であって、出版各社のベテラン編集者の依頼に、どんな形であろうとそれに報いる成果を形にできるという意味である。
本書はタイトルが示すように、昔イギリスで起きた未解決事件、娼婦連続殺人の犯人を称する切り裂きジャック(Jack the Ripper)をタイトルに使っていることから、それに似た猟奇殺人が描かれることが想像でき、読んでみると内容もその通りなのだが、根底には臓器移植という社会問題が流れており、単なるサイコサスペンスに終わらせていない。

 

 

編では前に読んだ短編集で活躍する警視庁捜査一課の刑事・犬養隼人を登場させており、この刑事が登場するストーリーがシリーズの形を作り続けるのか、期待が持てるところだ。
ひも状のもので絞殺されたうえ、すべての内臓を持ち去られるという、前代未聞の猟奇殺人が続く中、被害者のつながりも、臓器を持ち去るという犯人の目的も判明せず、警察の捜査は混迷を極める。古にイギリスはロンドンで起こった切り裂きジャック事件の模倣犯かとも思われる事件は、見事なほどの解剖手腕から、医師か病院関係者かとも思われたが、全くの手掛かりが残されていない。
臓器を持ち去るところから、臓器売買も考えられたが、それらしい闇の動きも全く見えない。
少し前に似たようなシチュエーションのストーリーを読んだばかりだが、この作者のストーリーは前述のごとく、一筋縄ではいかないところが特徴で、毎回異なる世界を描いて僕を夢中にさせる。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1459.誰がための刃

2014年05月10日 | サスペンス
誰がための刃
読 了 日 201/04/16
著  者 知念実希人
出 版 社 講談社
形  態 単行本
ページ数 600
発 行 日 2012/04/25
I S B N 978-4-06-217602-6

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

ばらくブログの更新を怠ってしまった。3日に1冊くらいは読もうと思えばできないことはないのだが、書くとなると簡単ではない。だから一度休んでしまうと、今日は書こう、明日こそ書こうなどと思っている内に、1週間や10日はあっという間に過ぎてしまう。
そんなことでもう旧聞になってしまったが、4月27日の日曜日に母の四十九日の法要で、いすみ市大原に行ってきた。先月18日の突然の母の死は全く予想もしていなかったことなので、僕をはじめとする兄弟姉妹4人に少なからず驚きをもたらした。これといった病気もなかったので、100歳くらいまで生きるよ、などと話し合ったいたからなおさらだった。
カミさんが十数年来のリウマチで遠出が無理だから、僕は娘を伴って行った。菩提寺・瀧泉寺(旧大原町貝須賀にある)の僧侶の話で、戒名を二名並べて記すこともできるということで、父と母の戒名を並べて掘ってもらった新しい位牌や、白木の位牌、写真額などを持って瀧泉寺に12時半過ぎに集まった。午後1時から寺の本堂と墓前での法要は2時に無事終わった。
帰り道ファミリーレストランに寄って、ささやかな会食をしてから、母が一人暮らしをしていた家に帰った。
家は借家で母亡き後は誰も住むことはないのだが、まだ家財道具が結構残っており、妹たちが時々来ては後片付けをしている。家賃も安く大家さんも親切なので、片付けが終わるまでもうしばらく借りておくことにしている。
だが、あと数か月でこの家を大家さんに返すと、大原には墓参りをする時しか行くことはなくなり、ゆっくりくつろぐ場所もなくなる。年とともに過去が少しずつ消えていくようで寂しいが、これも仕方がないことだ。

 

 

 

ブログの更新が遅れているのは、今月(5月)1日から2日にかけて、社会福祉法人薄光会(僕はこの法人の監事を務めている)の監事監査があって、その報告書を作っているせいもある。24日に行われる評議員会・理事会において監査報告書をもとに監査報告を発表しなければならないので、いささか憂鬱な毎日を送っているところなのだ。
いつもはもう少しスムーズに書けたのだが、今年はいろいろあって面倒だと思う気持ちが強く、遅々として筆が進まない。
前回書いたように、一度辞めたいという気持ちを持ったためかもしれない。監査そのものはどうにか心の動揺を抑えて終わらすことができたのだが、やはり気持ちの奥底ではこれ以上続けることは無理だという思いがあって、いくらかでも僕を買ってくれている理事長や励ましをいただいたMK(ミエコ)さんには申し訳ないが、任期いっぱい務めたら辞任したい。
このところ何度かブログのまくらがこんなことばかりで書いていても面白くないから、読む方だってつまらないだろう。この辺で終わりにしよう。

 

 

書は前にいすみ市を訪れた際、古書店・ブックセンターあずまで見つけたものだ。もうこの店に行くこともめったにないだろうと思うと、なんとなく感慨深いものがある。初老のおかみさんや、あまり商売熱心とも見えない若い息子とも、顔なじみになったので少し残念な気もする。
普段はあまり見ない単行本の棚に、見かけない作家の名前を見て手に取ったのが本書だ。どんな作家なのだろうと奥付を見ると、本書で「ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」を受賞したとある。僕はそれを見て、不思議な縁を感じた。同じ賞を受賞した「バイリンガル」(高林さわ著 光文社刊)を前に読んでいるからだ。
あまりメジャーとは言えない文学賞の受賞作に偶然めぐり合うなど、これは今後もこの賞に注目していく必要があるかな、などと思った。
著者は現役の内科医のようだ。僕はこの読書記録に何度となく書いてきたが、医療、医学をテーマにしたミステリーが好んで、当初はアメリカのメディカル・ミステリーの大御所ともいえるロビン・クック氏の作品をはじめとして、多くの海外の医療小説を読んできた。その後国内にも現役の医師がミステリーを発表して、次々とミステリー文学賞を受賞してきた。さらにはそれらの作品がドラマや映画にもなるという現象が起こった。

 

 

それらの現象が示す如く、そうした多くの兼業作家たちの生み出す作品は、高い水準を保っており、僕にすればあまりに多くの作品を追いかけ切れずに、うれしい悲鳴といったところなのだ。 だが、本書は医師がその知識を縦横に駆使した医療が主題とするものではなく、どちらかと言えばアクション主体の冒険物語と言った方がいいかもしれない。もちろんその中に医療に関するエピソードも入っているのだが、連続する猟奇殺人を追う警察と、死を宣告された外科医・岬雄貴を主人公としたストーリーである。 たくさんのメディカル・サスペンスを読んでいる割に、僕はその辺の知識が豊富なわけではなく、本書の主人公が末期癌の身体をおして、ハードなアクションを最後まで続けるそんな体力があるのだろうか?というような疑問も湧くが、しかし小説とはいえその精神力に感動する。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1457.インサート・コイン(ズ)

2014年04月22日 | サスペンス
インサート・コイン(ズ)
読 了 日 2014/04/09
著  者 詠坂雄二
出 版 社 光文社
形  態 単行本
ページ数 251
発 行 日 2012/02/20
ISBN 978-4-334-92807-0

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

 

と同様社会福祉法人薄光会の役員(理事)を務めるMKさんから、辞めるのを思いとどまるよう励ましのメールを何度もいただいた。初めて読む人は何の事だかわからないだろうが、先日(4月20日)行われた豊岡光生園の改築の竣工式に於いて、(僕に対する)施設側のちょっとした手違い(だと思われる)から、僕が非常に恥ずかしい思いを抱き、10年来務めた監事職を辞退しようと思ったことに対しての励ましである。
他の役員と同じくMKさんも障碍者を子に持ち、湊ひかり学園を通所利用していたのだが、何年か前に豊岡光生園に空きができて、そちらに入所することになったといういきさつがある。
彼女は、湊ひかり学園の保護者会の役員をはじめとして、のちに薄光会の理事に任命され、その後には「NPOひかり」(主として施設利用者の成年後見人を務めることを目的とした非営利活動法人)の理事も兼任することになった才媛である。僕はその積極的で精力的な法人への関わりに尊敬の念を抱いている。
そして、毎回の理事会で同席することから、僕は親しくお付き合いすることになって、いろいろとお世話になっている方だ。そんな方からの励ましではあるが、僕はこのたびの一件で、自分自身の気持ちの持ち方に疑問を感じたのだ。少なからず誇りをもって、監事という職を務めてきたつもりであったが、そんな中に若しかしたら驕りや自惚れのようなものが混じってなかったか?と冷静に振り返ってみると、そうしたものが全くなかったとは言えないことに気付いたのだ。

そこで、今回僕が恥ずかしいと感じたのは、そうした僕の驕りや自惚れの気持ちが引き起こした自分自身への恥ずかしさではなかったか?そういう反省の気持ちを持ったのだ。だから豊岡光生園の関係者には些細な手違いについては、不問にしてそのかわり僕が彼らに取った失礼な態度も水に流していただき(ちょっと虫がいいかな?)、今後も気持ちを新たに長いお付き合いを続けていくことをお願いしたいと考えている。
その上で、僕は監事という職をいったん辞して、更に今後の事を考えたいと思っているのだ。僕のようなものを長い期間支援していただき、また協力していただいた法人関係者の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいである。

 

 

突に昔の、それも小学生から中学生にかけての、昭和20年代の頃だから大昔といえるだろう、そんな昔を思い出すことが最近になって多くなった。多分歳のせいということもあるだろうが、記憶というものの不思議さを感じる。
そうしたことは何かがきっかけとなるのだろうが、僕の場合は何がきっかけとなったのかよく分からないことがほとんどだ。今回は僕がそのころ一方的に好きだった良子(よしこ)さんはどうしているだろうか?なんて頭に浮かんだ。確か小学校3年生くらいから同じクラスになって、中学3年まで一緒だったと記憶している。いや違った、中学1年生の時だけ別のクラスになったのだった。
僕にとっての初恋だったといえるだろう。小学生の頃は顔を合わせれば何のわだかまりもなく、何でも話し合っていたが、中学生になってからは、僕の方で彼女が好きだという感情が芽生えて、以前のように気軽に話しかけることができなくなっていった。 今ではその当時の心境を推し量ることは困難な状況だが、そんな純情な時もあったのだと懐かしく思う。高校に入るとまったく別の地域の学校になったから、全く音信は途絶えて、会うこともなくなり、僕の淡い初恋はそこで終止符を打った。

 

 

そんな形で終わった初恋だからだろうか、ふと思い出すのは・・・・。できることなら会ってみたい気もするが、心の内で思っているだけの方が良いのか?判断に迷うところだ。
こうして読書とは関わりのないことを長々と書くのは、本の内容が僕の好みに合わなかった時だ。
無いものねだりのように図書館にも無い本を苦労して手に入れた挙句、好みに合わないと分かった時ほど不幸なことはない。僕はゲームをあまりしない。一時期シューティングゲームの元祖ともいえる、スペース・インベーダーに夢中になったこともあったが、その後はファミコンのゼビウスを少し、テトリスを少しと、そんなところが僕のゲーム履歴だ。 本書のタイトルからアーケードゲームを描いたものだと、後から考えればわかるのだが、全くその辺の知識がないものだから、内容を確認しないまま買ってしまった。
僕は少し欲張りすぎているところがあるのかもしれない。1500冊も間近になった今、読む本が次々と面白く読めたらそれは奇跡だ。そんなことがあるはずはないと頭では分かっていても、新しい本を読む前は期待に胸を膨らませて、ページをめくり始めるのだ。
僕自身にしたって、それほど好みの本を探し当てられるほどの耳目を持ち合わせてはいないから、まあ、3割程度の勝率?で納得しなければならないだろうか?一般的には、どの程度なのだろう?

 

 

書がそれでも全然面白くなかったかといえば、そんなことはなく登場人物のゲームライターという初めて聞く職業に、興味をひかれた。僕はまだ見たことはないが、ゲームに関する記事を中心とした雑誌があるらしく、本書はそこに寄稿するライターを描いた連作短編集だ。流川映(あきら)という伝説的なライターを目標にする、柵馬朋康を中心としたストーリーが展開される。 途中から作者と思われる詠坂(よみさか)という人物も登場して、柵馬とゲーム論を戦わせたりもする。ファミコンの登場時からの人気ゲーム「マリオブラザース」についての、「穴へはキノコをおいかけて」をはじめとして、映画にもなったドラクエこと「ドラゴンクエスト」について語られる最終作「そしてまわりこまれなかった」まで、ゲームを知っていればもう少し別の楽しみ方もあったかと思われるが、ちょっと残念な気もする。

 

初出(ジャーロ)
# タイトル 発行月・号
1 穴へはキノコをおいかけて 40号 2010/12月
2 残響ばよえーん 41号 2011/4月
3 俺より強いやつ 42号 2011/7月
4 インサート・コイン(ズ) 43号 2011/12月
5 そしてまわりこまれなかった 35号 2009/4月

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1455.ペテロの葬列

2014年04月11日 | サスペンス
ペテロの葬列
読 了 日 2014/03/30
著  者 宮部みゆき
出 版 社 集英社
形  態 単行本
ページ数 685
発 行 日 2013/12/25
I S B N 978-4-08-771532-3

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

刊本でしかも単行本を買うのはいつ以来だろう?ほんのちょっと少しばかり臨時収入があり、と言っても僕のちょっというのは文字通りほんのわずかな額だ。そうした時に僕のとる行動は子供の頃から決まっており、一つしかない。つまり本を買うことなのだ。
だが、最近歳を取ってからはそれにもう一つ、お茶菓子を買うことも加わった。4歳年下の弟などは、今でも昔の貧乏だったころの食事について、よく覚えており食べることや、味に関してうるさい。
しかし、ひもじいほどの最悪の食糧事情の時代を子供の頃過ごした割に、僕はそんな頃から食べ物に対する執着心はなかった。
だがそんな僕もごく最近になって、間食をするようになった。年を取ると食べることが楽しみになる、なんていうことを聞いてもなかなか実感がわかなかったが、ようやくなるほどと思えるようになってきたということか。
それでも僕は本か食べ物かと言われたら、やはり本を選んでしまうだろう。あまりいい思い出ではないが、中学生の頃、わずかな昼食代がほとんど文庫本に代わってしまったことが、僕の身体の生育を止めてしまったことを考えてもだ。165㎝、50㎏の平均より小柄な体は、子供の頃のそうした体験が尾を引いていると感じている。しばらくぶりに読みたい新刊本を買ったささやかな幸せをぶち壊すような話題はこの辺で。

 

 

普段はあまり見えてない人の本質などが、あることをきっかけに表に現れてしまうということがある。 著者のストーリーはそうした展開を実にサスペンス豊かに描写する。
平凡だが幸せな家族の日常の推移にチラチラっと見え隠れする悪意、そんな感じの杉村三郎一家のシリーズも三作目となった。数多くの著者の作品の中で、TOP5くらいに入れたい僕の好きな作品だ。

宮部氏の作品を読んでいると、性善説と性悪説とがせめぎあうような感覚にとらわれる。と言ってもストーリーの事ではない。著者の中にあるストーリーの組み立てに臨む考え方を想像してのことだ。
大作家の胸の内を僕が推測するなどおこがましいが、先だってBSイレブンの「宮崎美子のすずらん本屋堂」の中で、芥川賞、直木賞のイベントの紹介があって、そこでの著者を垣間見て、相変わらず可愛らしいところを残しながらも、大作家の風格を漂わせている姿と、直木賞受賞作品を推す話の内容に、見惚れて聞き惚れた。
僕は作家が私生活でどうあろうが、あるいは見た目がどうだろうがあまり関心はないのだが、たまにネットやテレビで見られる宮部みゆき氏の姿には、かわいいと言えるような容姿から、どうして怖いと思えるような傑作小説が生まれてくるのだろうと、そんなギャップみたいなものを感じてきた。
そんなところから僕は、彼女が何に対しても興味津々という感じで観察し、それが物語の種を育てているのではないかと想像するのだ。そして、幸せな家族に囲まれた自身の境遇と、その裏返しのように存在するこの世の悪意とをブレンドさせた物語を生むのではないか、と思わせる。

前述のように本書は宮部氏の作品の中でも特に好きなシリーズ作品だ。著者には珍しくシリーズが続いている作品で、「誰か」、「名もなき毒」に続く3作目である。
主人公・杉村三郎はその名前と同様どこにでもいる平凡なサラリーマン、ととらえがちだが実はそうではない。一大コンツェルンの総帥、今多嘉親(いまだよしちか)の娘を口説き落としたのだから。
別腹とは言え母親を亡くした後、父のもとに引き取られて育った菜穂子は、今多嘉親の愛娘だった。
その菜穂子と相思相愛の末、今多嘉親に条件付きながら結婚を認めさせたのだから、そうした点からだけでも杉村三郎が只者ではないと感じられるのだ。

 

 

愛の妻・菜穂子との間に桃子という一人娘もできて、幸せなサラリーマン生活と家庭生活を送っているはずの杉村三郎には、どうしたことか事件が付きまとう。
今回もあろうことかたまたま乗り合わせた路線バスが、一人の老人によってバスジャックされる、という展開が繰り広げられる。前作の「名もなき毒」が、中日新聞の系列紙に連載され、僕のとっている東京新聞にも載ったので、普段雑誌や新聞の連載小説にはあまり関心がなかった僕だが、思わぬプレゼントをもらったようなうれしい気分になったものだ。
本書も、千葉日報をはじめとする地方紙22紙に3年余りにわたって連載された作品だという。
そのせいばかりではないが、あらゆる場面での緊迫感が途切れずに進む。僕は人の心の奥底を見通すような今多嘉親の、杉村三郎に対する暖かな眼や、三郎を慕う妻・菜穂子の聡明さのようなものが、このシリーズを支えてきたかと思っており、そうした雰囲気が何よりも好きだった。だから、このシリーズは若しかしたら宮部みゆき氏のライフワークになるかもしれない、などという思いもあった。

ところがミステリー小説とはいえ、今回のような結末が待っているとは、夢にも思っていなかった。
いや、だからと言ってこれで終わりとは限らない。あきらめるのは早い。思いもかけない形でまだ続くかもしれないではないか。そうした期待も持たせる結末だ、そう思いたい。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1454.CUT(カット)

2014年04月08日 | サスペンス
CUT(カット)
読 了 日 2014/03/20
著  者 菅原和也
出 版 社 角川書店
形  態 単行本
ページ数 281
発 行 日 2013/08/31
I S B N 978-4-04-110356-8

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

の中は僕が考えているほど単純ではなく、大部分の人たちにとっては、思うに任せないのが現状ではないかと感じている。僕にすれば、「天下の回りもの」と言われるものが、一向に僕の所には回ってこないのも、その一環ではないか。
いや、そういうことではなかった。貧乏生活が続くとどうもひがみっぽくなっていかん。僕が気になっているタイトルが、時として図書館になかったりすることを言いたかったのだ。
そういう時僕は、図書館の本はどういう基準で揃えられるのだろうか?と思う。いくら出版業界が不況だとはいえ、毎月、いや毎日か、出版される本の数は並大抵の数ではなかろう。そんな中からどういうことで選ばれるのか、多分それぞれの図書館で基準があるのだろう。そうでなかったら、図書館によって蔵書の傾向に差が出ないだろうから。
しかし、それにしたって三か所の図書館のどこにもないという本が、一つや二つではないのが不思議な気がする。まあ、今度行ったときに係りの人に聞いてみよう。

 

 

係りと言えば、昔僕の娘が「図書館の司書」になりたいと言っていたことがあった。僕はそのころ司書の何たるかも知らずにいたのだが、今ネットで調べると、司書とはかなりあいまいで公式な定義はないようだ。だた、 公立の図書館で専門職としての司書は、図書館学を開講している大学で単位を取る必要があるということだ。
中卒、高卒の人は司書補の講習を受けたのち、3年以上実務経験を踏んで司書講習を受けるのだという。結構面倒なものだ。

幸いにして、本書はNETで検索したら、袖ヶ浦市立図書館にあったので、行って借りてきた。
何だか僕は図書館に無いような本を探して読みたがっているようだが、そんなことはなく、単純にテレビの書評番組などで紹介された本の中から、気になるタイトルをピックアップしているだけなのだ。たまたま、というかいつもというのか、僕の気にするタイトルが図書館にも無いことが多いのはどうしてなのかはよくわからない。
だが、そうした状況を押して探し出した本が、必ずしも面白く読めるとは限らないのが、悩ましいところだ。
いや、本書が面白くなかったおいうわけではないが、最近は僕の鑑識眼もあまりあてにならなくなってきた。以前は今ほど多くの本に注目することもなかったので、たまにこれは面白そうだという僕の勘が外れるということは稀だった。ところが今はそっちこっちでやたらと新作・話題作(と称するもの)が多くなって、できるだけ新しい作家の本を探す僕には、難しくなっているのか?

面白い本を読みたければ、なじみの作家の本を読めば間違いないのだが、できるだけ広く浅く多彩な作家を探して読もうとすると、やはり当たりはずれに遭遇するのは致し方のないことかもしれない。

 

 

イトルのCUT(カット)が示すように、本書はある意味ではサイコ・キラーの物語だ。
と思って読んでいると・・・・。
いや、こういう話は説明が難しい。僕は物語の説明が下手なくせにこうしたブログを書いているから、なおややこしくなるのだ。トリックとしても、シチュエーションとしても、どこかでお目に罹ったことがあるような気もするが、ストーリー展開のプロセスにひかれて、引きずられるように読んだ。カタカナ言葉が多いのは、説明に窮している証拠だ。
余分なことだが、社会福祉法人の役員をしている僕は、常々施設の職員に対して、わかりやすい文章を書くよう言っているのに、こんなわけのわからない文章を書いているようでは人に言う資格はないな。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1453.アクエリアム

2014年04月06日 | サスペンス
アクエリアム
読 了 日 2014/03/18
著  者 森深紅
出 版 社 講談社
形  態 ノベルス
ページ数 301
発 行 日 2012/08/06
I S B N 978-4-06-182827-8

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

族館を意味するこの「アクエリアム」というタイトルが、何かしら気になっていた。
三谷幸喜氏の人気ドラマ「古畑任三郎」の第1シーズンのエピソードの一つに、「殺しのファックス」というのがある。この中で笑福亭鶴瓶氏が演じた人気作家・幡随院大が、古畑の質問に答えて「タイトルに意味はない」と言うシーンがあった。辞書を適当に開いて単語を組み合わせるだけという、質問をはぐらかすような答えに、がっくりするような古畑と、古畑の態度にイラつくような幡随院の対照が面白い場面を作っていた。
僕は時によりタイトルに印象的なものを感じて、無性に読みたいと思うことがあるから、まさか本物の作家がそんなタイトルの付け方をしているとは思わないが、タイトルもストーリーの一部として、重要なものだと感じている。
そういった意味からも本書のタイトルは、深い意味を持つものとなっている。

 

 

だが、残念ながらストーリーは僕の好みから少し外れていた。勘が悪く頭もよくない僕は、ストーリーの進展に理解がついていかないことがよくある。途中までは暗号の謎を解いていくストーリーだと思って読んでいたら、あるところから僕の予想をひっくり返すような展開を示して、その辺から逆に僕の頭は理解を示さなくなり始める。
ある意味では恩田陸氏の「ネバーランド」を連想させるようなところもあり、期待もしていたのだが、次第に僕の頭は反応しなくなり惰性でページを追うような始末だ。ところがそれに輪をかけるような終末が待ち受けていたのだ。
多分こうしたストーリーに興味を示す読者も多いのかもしれないが、単純な構造の僕の頭が受け付けないのが残念だ。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1449.書物奏鳴(ラ・ソナト)

2014年03月21日 | サスペンス
書物奏鳴(ラ・ソナト)
読 了 日 2014/03/01
著  者 赤城毅
出 版 社 講談社
形  態 新書
ページ数 220
発 行 日 2013/06/05
ISBN 978-4-06-182878-0

 

上の著者名をクリックすると、著者のページへ移動します。

 

が逝った。96歳とは言いながら、元気―といっても元気で動き回っていたと言う意味ではなく、病気でなかったと言うことだが―な一人暮らしの日常生活を送っていたから、1昨々日の18日朝、妹からの電話で、母の突然の死を知らされた時は、あまりの急な話に一瞬信じられない思いが湧く。
取るものもとりあえずとにかく車で駆けつける。いつものようにMDでジム・ホールの「アランフェス・コンチェルト」を聴きながらの1時間半のドライブだが、チェット・ベイカーのトランペットも、ローランド・ハナのピアノも、いつものと違って何か物悲しく聞こえる。

 

 

先方に着くと、警察の車が2―3台止まっていいて、家の前に3―4名の警察官がおり、「身内の方ですか?」と聞かれたので、「長男です」といって中に入る。たまたま埼玉から手助けに訪れていた妹の話ではトイレで倒れており、直ぐに救急車を呼んだが、死亡を確認した救急隊員が警察に連絡したという。
トイレからいつまでも出てこないのを不審に思った妹が、開けて中で倒れていたのを発見した、という経緯が変死と言うことで、事件として扱われ、嘱託医の検死も行われるなど、調べは午前中いっぱいかかる。所轄のいすみ警察署から県警本部に書類が回り、事件性が無いと判断されて、遺体搬送などの許可が下りるまで、遺 体を動かすことや部屋をいじることを固く禁じることを申し渡して、警察は引き上げた。

 

 

主となる僕は先に近くの葬儀社に行き葬儀の日程等を打ち合わせる。極々内輪での葬儀なので、通夜は行わず告別式のみ行うこと、葬儀社から市営の火葬場の予約を取ってもらうことなどを依頼する。19日が友引なので、告別式は20日となる。
午後4時過ぎに警察から許可の電話が入ったので、僕は御宿町の警察嘱託医のところへ「死体検案書」をもらいに走る。2通のうち1通は警察に、もう1通は市役所にもって行き、死亡届や火葬許可証をもらってくる。
世事に疎い僕は葬儀に関する諸々のことも知らないことが多く、下の妹からの指図を受けて走り回る。
19日の朝、納棺のために葬儀社が来て、遺体に経帷子などが着せられて、母は棺に納められる。腐敗予防の10kgほどのドライアイスを腹や胸に抱いて、妹たちに死化粧を施された母は寝顔の安らかさを見せる。

 

 

そして昨日、3月20日(木曜日)に母(みさを96歳)の葬儀を行う。兄弟姉妹4人とその家族のみで内輪だけの葬儀だ。生憎の雨模様で昨日までの春の陽気が一転して冬に逆戻りの感じだ。
12時半からの告別式は30分余りで終わり、1時過ぎに棺を載せた霊柩車とともに火葬場に向かう。市営の火葬場は町外れの高台に位置し、林に囲まれたいかにもそれらしい佇まいを見せる。僕はそれまでに親戚や友人知人などの葬儀で、何度か訪れているがいつも初めて来る様な感じがする。悪い想い出を消そうとする本能がそうさせるのだろうか? 
火葬を待つ間の待合室は、96歳の大往生ということもあり、葬儀という暗さはまったく無く、寺の和尚を含め歓談の呈を催した。2時半過ぎに火葬は終わり、少人数で拾った骨を収めた骨壷とともに寺に向かう。冷たい雨が次第に激しくなる。
葬儀社の手配で依頼してあった石屋さんが墓を開け、納骨をする。激しい雨は別れを惜しむ母の涙か。
12年前に父を失い、今回母を亡くし、これで僕の両親は二人ともいなくなった。寂しい思いはするが、これも自然の摂理だ。「お母さん、長い間お疲れ様でした。ゆっくりと安らかにお眠りください。」心のうちで祈りながら焼香をする。合掌。

 

 

書人としては、このようなタイトルを見逃すわけには行かないのだが、何と調べたら第1作の「書物狩人」が2010年4月に敢行されて、以下続々とシリーズは続いて、最新刊である本書まで既に8巻が出ているということに、驚いた。
勿論ファンの間では著名の事実で、僕は自分の無知を恥じるが、それより何よりそんなにたくさんの既刊があることの方に喜びを感じている。君津や袖ヶ浦の図書館にはそれらの既刊が、全て揃っているらしいから(残念ながら木更津市の図書館の蔵書には第1作のみ)、いずれ1冊ずつ借りて読もうと、今から楽しみにしている。
遅くファンになることのメリットの一つに、たくさんある既刊を待つことなく読めることだ。

 

 

読書ノートの後ろにあるメモから、5冊つほどを書きだして、君津市立図書館へ足を運ぶ。市役所の隣に位置する図書館は、木立に囲まれた瀟洒なたたずまいを見せている。残念ながら木更津市立図書館の2倍はあろうかという広さと蔵書数を誇るのではないか。車を走らせれば、僕の家から10分ほどで行ける距離なのだが、いつも木更津と逆だったらいいのにという思いに駆られる。
メモ書きした5冊のうち3冊は、国道127号線沿いの運動公園内の図書室の蔵書ということで、そちらはまた別の日に借りることにして、本書と、柴田哲孝氏の「下山事件最後の証言」を借りてきた。 ラップフィルムで被覆されているが、元の装丁の皮装を思わせる風合いが、タイトルに相応しい装丁と共に指先に感じられて、読む前から胸をときめかせる。

 

 

別名ル・シャスールと呼ばれる半井優一を主人公とする連作短編集である。ル・シャスールとはフランス語で書物の狩人という意味だ。依頼人からの注文に応えて、この世に存在するあらゆる種類の書物を探し出すのがル・シャスールと呼ばれるゆえんである。
しかし、依頼人の方もいずれも曲者ぞろいで、注文の本もその辺にあるものは一つもない。その難しい注文をものともせずに受けるル・シャスールの優秀な調査能力、情報収集力も半端ではない。

んな調査能力や情報の収集能力を見ていると、僕は前に読んだ「インフォメーショニスト」(テイラー・スティーヴンス著 講談社文庫)が思い浮かぶ。もちろん内容は全くの別物だが、お互い依頼人の仕事をこなすために調査や情報の収集に奔走するところが共通の点である。
これと思った本が期待通りの面白さを見せた時が、読書人としての喜びだ。胸に響く感動の喜びをもっともっと味わいたいものだ。

 

初出(メフィスト)
# タイトル 発行月・号
第一話 魅せられたひとびと 2012.Vol.2
第二話 旧式の陥穽 2012.Vol.3
第三話 天はみそなわす 2013.Vol.1
第四話 狩られた狩人 書き下ろし

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1448.スタート

2014年03月18日 | サスペンス
スタート!
読 了 日 2014/02/25
著  者 中山七里
出 版 社 光文社
形  態 単行本
ページ数 331
発 行 日 2012/11/20
I S B N 978-4-334-92857-5

 

上の著者名をクリックすると、著者のページへ移動します。

昨日、3月16日(日曜日)に、豊岡光生園の保護者会が開催された。正確には会の名称は保護者・家族の会豊岡支部会という。平成25年度最後の会合だ。
豊岡光生園は社会福祉法人・薄光会の中核ともいえる存在の、知的障害者の入所施設である。法人最初の施設で開所後二十数年間は理事長が常駐していたので、法人本部も兼ねていた。
昭和55年開所当時は山間のダム湖のほとりで近代建築を誇っていたが、筑後30年を越す建物は鉄筋コンクリート作りとはいえ、さすがに老朽化を免れず、厳しい財務状況の中で改築のためのプロジェクトチームを発足させた。
プロジェクトチームは設計業者、建築会社との議論を重ねて改築の計画をまとめ上げ、一昨年、平成24年12月から改築が敢行された。
今回の主だった議題はその改築についてだが、1年余の工事期間を終えて、来月、4月20日に豊岡のみならず法人全体のイベントとして竣工式を予定しているので、それについては終了後の別の機会に書くことにする。

 

 

さて、保護者・家族の会は元々豊岡光生園を利用する障害児(者)の保護者―主として親たち―によって組織された団体の名称で、当初は施設は1箇所だったから、保護者会と名付けられて保護者会といえば豊岡光生園に入所している園生(当時は入所利用者をそう呼んでいた)の保護者の団体を指していた。
団体は、年数回催される保護者会に参加することや、幾つかの班に分かれて設けられた作業日に、主として細かなメンテナンス作業に従事するといったこと、また園生と一緒に季節ごとのイベント(夏祭り、運動会、クリスマス会等々)を開催する、といった活動をしてきた。そうした活動の中で、保護者同士は自然と絆のような繋がりを培っていった。

 

 

光会はその後豊岡光生園の園生たちが、老後も心置きなく過ごせるようにという目的を以って、安房郡三芳村(現在の南房総市)に特別養護老人ホーム・三芳光陽園を設立開所した。
さらには地域社会との共生を旗印とする法人は、鴨川市と地元富津市湊に通所施設、鴨川ひかり学園および湊ひかり学園をそれぞれ開園する。
施設が増えるとともに、それぞれの施設の保護者によりそれぞれの保護者会が生まれ、施設独自に活動が始められた。そこで同じ法人内の保護者会の交流を目的に一つの大きな組織に、名前も保護者・家族の会として、豊岡支部会のようにそれぞれの施設においては支部会という名称に変わった。

 

 

ところで、自立支援法等の法改正による障害者への対応は、激しいほどの変化を見せて、施設のあり方も利用者の生活により一層寄り添う形に変えざるを得ない状況になった。
その点について詳しく書いていくと、長くなるので省略するが、一言で言えば個別対応を迫られるようになったと言うことか。否、そうした状況は利用者第一をモットーにしているわが薄光会においては、望むところなのだが、いかんせん資金的に余裕のある営みをしているわけではない。
限られた収入の中では十分な介護・支援員を配置したり、個別支援に対応した居住環境を構築することは非常に困難なことなのだ。

 

 

に入所施設において対応の変化を端的に示されたのが、利用者一人当たりの居住面積だ。限られたスペースに立地する施設の中で居住面積を増やすことは不可能に近い。そこで、豊岡光生園では60人だった入所定員を40名に減らして、あまり良い言い方ではないが余剰人員を収納すべく、ケアホーム事業を開始することになる。
それらの計画の立案・実行については、実質的なリーダーである幹部職員と、理事長を始めとする法人役員で構成される経営会議が主体となって進められてきた。その結果、現在はケアホームCOCO、ひなたホームズという二つのケアホーム事業が運営されており、ホームの数も7棟となった。
担当職員のたゆまぬ努力は地域社会との交流もスムーズに行われて、次第に障害者の生活や活動が近隣住民に認められるところとなっている。

 

 

そうした経過を経てきた保護者・家族の会は、ここ数年の間に新たに入所した利用者の保護者が加わり、またケアホームへの異動となった利用者の保護者とに別れて、全体としての集まりが年2回となった今は、以前ほどの保護者同士のつながりは無くなり、絆は希薄になっている。
古くからの保護者の中には、既に故人となった人も少なくない。そうした状況の中で以前のような保護者の絆を復活させるのは困難なことだ。法の下に保護される反面、厳しい監視下に置かれる社会福祉法人の運営の一端を担ってきた古くからの保護者への対応も、法人として考えるべき課題の一つではないだろうか?

会の終了後そんなことも頭の隅をよぎったのだが、今や、様々な世代が入り混じった状態と、出発時点と異なる社会環境の下では、施設に対する思いもそれぞれに異なるだろうから、簡単ではない。
さて・・・・。

社会福祉法人の一員として何の力にもなれない自分をもどかしく思いながら、数十年の時の流れを振り返ると、様々な、時には激動の時代の中での出来事が去来する。
一方で、世代交代の始まった職員のリーダーたちの若い力が、変革の時代を乗り越えて薄光会の発展と、多くの利用者の生活の安寧を支えていくことだろう、という安心感も生まれる。年寄りの繰言がだいぶ長くなった。

 

 

者・中山七里氏は次々と話題作を発表する傍ら、テレビ番組への出演など目覚しい活躍ぶりだ。 デビュー作の「さよならドビュッシー」を読んだ頃の、その音楽性と巧みな表現力が、この作者は何者なんだろう?と言った謎めいた神秘性は薄れたものの、逆に著者の言葉から編集者の難しい注文に応えて、傑作を物にする職人魂のようなものを感じいる。
この作者の特徴は、どの作品にも結末の意外性が盛り込まれており、読者の予想をあっさりと裏切る、といったところだ。
多分、と作者の心境を推測すれば、物語を作る過程で、今度はどんな手法で読者を「アッ!」と言わせようか、そんな読者へのサービス精神にあふれる思いで、ストーリー構成を考え進めているのではないか、そんなことを思うのだ。

 

 

2年前に読んだ「さよならドビュッシー」の番外編ともいえる「要介護探偵の事件簿」(文庫化に際しては、「さよならドビュッシー前奏曲(プレリュード)」となっている。)、僕はこの1作で作者の虜になってしまい、直ぐその後に「さよならドビュッシー」を読み、ますますその魅力に取り付かれてしまったのだ。
僕にとって10冊目となる本書の舞台は、映画の製作現場だ。だからタイトルの「スタート!」は、勿論監督が発する撮影開始の号令だ。それに従って助監督が打ち鳴らす?のはカチンコと呼ばれる道具だ。
最近では必ずしも監督が「スタート」と言う言葉を発するとは限らず、人によっては「ヨーイ、ハイ」と言ったりすることもあるようだ。海外では大抵「Action=アクション」と言ってるのを耳にする。 映画の製作に関して、一番の課題は資金集めだろう、そうしたことがネックとなって、しばらく製作現場から遠のいていた日本映画界の巨匠・大森宗俊が3年ぶりに暖めていた企画を以って、製作を開始すると言う。
常にコンビを組んできたカメラマンの小森から連絡を受けた助監督の宮藤映一は、再び始まる大森組の製作活動を思い、胸が高鳴るのだった。というのもローコストで安易な映画作りに参加することで、映画への情熱を保ってきたつもりが、試写会の席で耳にするのは、素人の観客から発せられた酷評だったから、腐っていたところなのだ。

 

 

森宗俊が暖めていた企画とは、「災厄の季節」と言うタイトルだ。そして、彼が選んだ脚本家は大方の予想を覆して、売り出し中の若手・六車圭輔だった。陰で天皇とも呼ばれるうるさ型の大森に劣らず、若手ながらこだわりを持つ脚本家が六車だったからだ。
いつも大森組の資金集めに奔走するのは、五社和夫だ。大森組の準備作業であるオールスタッフは、大森監督の自宅で行われるのが通例だ。だが今回はその五社プロ一社の資金では賄いきれずに、製作委員会方式での製作だと言う。
さらには主たる資金提供者である帝都テレビからの横槍で、主演女優や、チーフ助監督の入れ替えを余儀なくされたのだ。脚本の六車は主演女優の入れ替えで、イメージが違うと言うことで急遽書き直しをすることになる。そんなこんなで波乱の幕開けとなった製作現場だが、事件はそれだけでは終わらなかった。
何と殺人事件まで発生する始末だ。

僕は読みながらはるか昔の、黒澤明監督による映画「影武者」(1980年東宝 仲代達矢他)の製作余話を思い出した。作中の大森監督の中にも一部分では黒澤監督のイメージも含まれているが、多分著者は名匠といわれる映画監督の何人かを統合した人物を作り上げたのではないかと思われる。
勿論直接このストーリーが映画「影武者」と似ているわけではない。次々と問題が発生する本編のストーリーが、当初、影武者の武田信玄役に勝新太郎氏で撮影が開始されたのだが、監督と勝氏の間でのいざこざが元で、勝氏の降板ということになり、仲代達矢氏へと主役交代になった経緯などを、思い出させたのだ。
映画ファンならずとも製作現場のリアルな描写は、胸躍る展開だろう。他の作品に比較して、ミステリー味はほんの少し薄い気もするが、終盤の感動のシーンが胸を打つ。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1447.サイレント・ボーダー

2014年03月15日 | サスペンス
サイレント・ボーダー
読 了 日 2014/02/14
著  者 永瀬隼介
出 版 社 文藝春秋
形  態 単行本
ページ数 466
発 行 日 2000/03/20
I S B N 4-16-319070-8

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

のブログのスタイル(上部のタイトル部分とか、右サイド―サイドバーと言うの―各部分のタイトルパネル、そして本文のブックデータの部分等々の全体を構成している形で、通常テンプレートと呼ぶ)は、長い年月をかけて統一した自分流にカスタマイズしてきた。プロバイダーの提供しているテンプレートの中には、そうしたカスタマイズできないものもあり、確かこのぷららのテンプレートの中にもカスタマイズ不可のものもあったと思う。
僕は、いろいろと先達たちの指導も受けたり、自分でもHTML、CSSなども学習して独自のスタイルで、見やすいブログを心がけてきた。というより今になって思えば、半分以上は自己満足に過ぎなかったのかもしれないが・・・・。
何年か前から、パソコン以外の携帯やスマホでネットのサイトを閲覧したり、そうした機器でSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス:インターネットを利用した各種サービス)を利用する人が増えてきた。現在は改善されたかどうか、少し前までは僕のように文章の中で文字の代わりにイラストや写真等の画像を多用する画面は、パソコンで見るのと違い、こちらがイメージした画面を見ることのできないこともあった。

 

の一番卑近な例が、文章の頭に適用しているドロップキャップだ。Wordなどの文章と同様の処理をしているのだが、サイトの画面ではその部分が画像となっているから、携帯などでは見えない現象が起きていた。
CSSで、first-letterを指定すればいいのだが、文字の装飾はサイズとカラー以外はできなくなり、続く文章の位置がベースラインになってしまうのだ。
そうした例を示すため記事のここと前の部分の一行目の文頭、さらに間の飾り罫にも画像ではなく、テキストデータを使用している。(下の本についての部分は、いつも通りの画像データだ)
多分僕の勉強不足で、解決方法はあるのだと思うが、もうしばらくは画像を使っていく他は無いから、携帯やスマホで見てもらうためには、ドロップキャップ処理を行わないようにしなくてはならないのか?
(どなたか処理方法がわかる方はご教示ください。)

前にも書いたが、いよいよこのブログサービスの廃止に関して、現実味を帯びてきた。と言うのも、ブログデータのエクスポートや、他のサイトへのインポートの方法が公開されたからだ。
Broach(このNTTぷららの提供しているブログサービスの名称)のブロガーたちの間で、廃止問題に関する不満や、移行のためのツールの公開が遅いといった意見が、掲示板に投稿されていたが、ツールの公開によりそれぞれ移行の準備と実行を開始するのだろう。
しかし、簡単に片付く問題ではなく、例えば今までのアカウント(ブログページのアドレス)の変更や、アクセスカウンターも継続させられるのかどうか?といったことも、ブロガーにとって大きな不安材料なのだ。

僕もできるだけ早く新しいサイトへ移行して、少ないながらも今まで閲覧していただいた読者の方々に、新しいアカウントへのアクセスをお願いする必要がある。面倒だという思いもあるが、ブログを継続させるためには、ほんの少しだけ努力が必要だ。

 

 

瀬隼介氏の名前と作品について知ったのは、実はこの本ではなく「刑事の骨」と言う作品を、最近何処かで紹介されていたのを見たからだ。ところが例によって図書館はどこも貸し出し中なので、処女作である本書を木更津市立図書館で借りてきた。「刑事の骨」はいずれまた、貸し出し中が無くなったら借りて読むことにしよう。
かなり前に何処かの文学賞の選考員が言っていたことだったか(と思っていたら僕の記憶違いで、これは2011年に惜しくも亡くなった土屋隆夫氏の言ったことだった)、「デビュー作(処女作)には、その作家の全てが込められている」ということで、初めて読む作家の作品は、できるだけデビュー作を読むようにしているが、そうは言ってもなかなか理屈どおりに行かず、ついつい最近作や話題作の方に目が行ってしまうのが僕の読書で、誰かさんの言い草ではないが、話題作を読むのは「今でしょ!」ということになってしまうのだ。

 

 

仙元麒一、41歳のフリーライターが本編の主人公だ。信太郎という一人息子がいたが、仕事にかまけて家庭を顧みない仙元に別れを告げ、教師をしている妻の令子が引き取った。強引な手法で取材をする仙元は、そこそこその手腕を編集者に買われていたが、人と折合わない性格は嫌われてもいた。
そんな彼の許に元妻の令子から連絡が入る。信太郎の家庭内暴力に怯えての電話だった。
折からの特集記事の取材を後輩に任せて、仙元は息子の信太郎を引き取り一緒に暮らすことにした。だが、一緒に暮らして心を打ち明けて話し合えば、解決するだろうという彼の思惑は大きく外れた。息子の言葉と狂ったような暴力は、仙元の想像をはるかに超えたものだった。思い余って彼はその道の専門家である黒田ちづるに相談するが・・・・・。

んな中、世間では少年による自警団・シティ・ガードが話題となっていた。三枝航をリーダーとする数人のグループによる夜の街のパトロールは、テレビでも取り上げられた。
一見「正義の味方」風な彼らの行動は、何が目的なのだろう。その三枝リーダーには、唯一無二の親友?とも言うべき中学時代からの友人がいた。友田勇志というその友達は、中学時代にいじめを繰り返すクラスメイトを誤って殺害していた。その家族への賠償のため彼は過酷な労働を強いられている。

様々な環境の中で、異なる生き様を見せる登場人物たちが、次第に交錯していく描写がスリリングに描かれるサスペンス作は、作者の思いの詰まった力作だ。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1445.読めない遺言書

2014年03月09日 | サスペンス
読めない遺言書
読 了 日 2014/02/21
著  者 深山亮
出 版 社 双葉社
形  態 単行本
ページ数 303
発 行 日 2012/05/20
I S B N 978-4-575-23772-6

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

になるタイトルは、ただメモするだけでなくどこで誰が紹介していたのか、あるいはどこで目にしたのかも書いておけばここでの話題にもなるからいいのだが、つい忘れがちで読書ノートの後ろには、タイトルと著者名だけが列記されている。
そんなことでこのタイトルもどこで見たのか憶えていない。それでも確か2ヶ所くらいで見た憶えはあるから、たぶん面白いストーリーなのだろうと先入観が頭に植え付けられて、できるだけ早いうちに読みたいと思っていた。
木更津市立図書館で一度借りようと思ったら、貸し出し中だったことを前に書いたが、2月19日に行って棚にあったので、前回読んだ「傷だらけの果実」と一緒に借りてきた。
こんな風に読みたい本がスムーズに借りられると、もうそれだけで僕は幸せいっぱいと言う気になる。身近で小さな幸せを感じられるのは、うれしいことだ。反面、日に日に老いを感じることも少しずつ増えていくのは不幸なことか?

 

 

先日も同じようなことを書いたが、老いを感じることの一つに、車の運転がある。
最近は若い頃と違って、スピードを出したり、追越をかけたりということはなくなって、規則を遵守した安全運転をするようになった。一時停止は停止線の手前できちんと停止し、ウインカー(方向指示器)も法規どおり曲がる地点、あるいは車線変更の30m手前で出すようにしている。そういえば、このウインカーを直前まで出さないドライバーが最近多くなった。
中には曲がり始めてから出すのもいて、何のための方向指示か?と思ってしまうが、ドライバーにもいろいろ いるから、こちらで気をつけなければならない。だが、そうした走行中についてはいいのだが、問題は駐車なのだ。スーパーマーケットや、コンビニエンス・ストアの駐車場に止めたときに、自分ではまっすぐに入ったつもりが、降りてみるとわずかに傾いているのだ。左右のサイドミラーを確認しながらバックしたにもかかわらずだ。
だが、最近良く耳にするアクセルとブレーキを踏み間違えるという高齢者の事故は、僕には当てはまらない。AT車(オートマチック車)にしたときから僕は左足ブレーキにしたからだ。AT車特有の左足が遊ぶことをさけたためだ。
僕は特別運転技術に優れているとも思わないが、それほど下手だとも思わず、極々普通の腕前だと思ってきた。それがここに来て、少しずつではあるが老いが勘を鈍らせているという、そうした現実に向き合わされて、ショックを受けているところだ。
息子が入所している福祉施設の保護者で、今年81歳になる先輩から「身体の衰えから、運転免許証を返納した。」という話を聞いて、そんなに遠くない将来、僕も同じことになるのだという思いに、いささか寂しい思いが湧く。
しかし、マイカーを運転し始めてから50年近く、軽自動車3台を含め7台も乗り継いで、走った距離は優に50万kmを超す(サラリーマン現役の頃一時期、マイカーを営業に使用していたため)だろうから、自分で運転することにもうそれほど拘らなくてもいいのかもしれない。

 

 

ろ向きの話はさておいて、折角の幸せな気分を取り戻そう。
読み始めた本書の主人公は竹原俊和、中学校の教師だ。父・英治が亡くなった。一人暮らしのアパートで孤独死のまま放置された父の住んでいた部屋は、まだわずかにその臭いが残り、案内した大家はその後始末に大変だったことを愚痴る。 その父・英治は「おやど」という大衆食堂をやっていたのだが、口よりも手が早く気に入らない客に暴力を振るい逮捕されると言う武勇伝?もあり、その後俊和とは音信が途絶えていたのだ。そんな父のわずかな遺品を整理していると「遺言公正証書」とタイトルが書かれた封筒があった。
遺言の中身は、「全ての財産を知人・小井戸広美に贈る」とあり、立会いの証人2名の署名もあった。
「小井戸広美」って誰だ? 遺言書にあった住所を尋ねて、それらしき女性のあとをつける。
そんなスタートを幕開けに前半は竹原俊和が、次第にこの女性に引かれていく様子が描写される。二人の関係がいい雰囲気になって行く展開から、心地よさを感じ始めた頃事態は一転する。近年世間を騒がせた事件へと移り、それまでの伏線が妙な感覚でリアルに甦る。「アー、そういうことだったのか!」と。

この中でデートを重ねる俊和に向かって女が、言うセリフに僕ははるかな昔を思い起こす。サラリーマン現役の頃の話だ。僕も時々は女性に向かって軽口をたたくこともあって、用事を頼んだ女性に「○○さん、愛してるよ」なんて言うことも日常の中にあった。
大概は相手も笑って済ませる。まだ、セクシャルハラスメントなどといわれることもない時代だった。ところがある時、「△△さん、愛してるよ」と言ったら、「じゃ証拠を見せてよ」と言われて、僕は一瞬「エッ?」と驚く。
本書の中でも小井戸広美なる女性が俊和に向かってまったく同じセリフを吐くのだ。それが問題をややこしくする発端ともいえるのだ。当たり前のことだが、僕の場合は、その後の展開が小説とはまるで違うから、難しい問題は何も無かったのだが・・・・。

著者は司法書士の資格を持つと言うことで、この中にも竹原俊和の相談相手として司法書士が登場して、いいところを見せている。さて、問題はそう簡単ではなかった。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1444.傷だらけの果実

2014年03月06日 | サスペンス
傷だらけの果実
読 了 日 2014/02/20
著  者 新堂冬樹
出 版 社 河出書房新社
形  態 単行本
ページ数 317
発 行 日 2012/09/30
I S B N 978-4-309-02131-7

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

早、BSイレブンの看板番組となった(多分、僕の独りよがりではないと思う)「宮崎美子のすずらん本屋堂」には、毎回多彩な作家をゲストとして迎え、MCの宮崎美子氏(番組の中で彼女自身は店主と言う言い方をしている)と楽しいトークを繰り広げている。
僕はテレビ局の内情をよく知っているわけではないが、こうして番組が広く視聴者に膾炙されるには、番組プロデューサーの腕が物を言うのではないかと感じている。勿論番組の制作にはプロデューサーのみならず、大勢のスタッフが係っているだろう。各部署でそれぞれ自分の持ち場をこなすためには、やはりリーダーの番組に対するモチベーションや、制作プロセスの把握が成功への鍵を握ることになるのではないか。
僕はこの番組がどの程度の視聴率を上げているのか知らない。しかし、感覚として徐々に成果を上げているのではないか、という印象を持っており、一ファンとして密かな喜びを感じているところだ。

そして、先日放送100回を迎えて特集番組が組まれた。厳しい環境の中100回を迎えることができたことは、大変喜ばしいことで、一ファンとしても同慶のいたりだ。
特集番組は、各界から有名無名の人たちが、推薦する書籍合計100冊を紹介すると言う企画で、テレビタレントの石井正則氏をプレゼンターとして行われた。
だがまったく期待はずれに終わった。推薦人の推す数冊の中から1冊を解説すると言う形式だから、中にはまともにその1冊も話に出さないと言うこともあったりして、「100回を迎えての100冊を紹介」と言う主旨からも外れているし、フリップを持った人物を素通りするだけなんていう人は、何のために出たのか分からない。

 

 

思うに週ごとに新たな作家を迎えつつ、番組を構成することがやや困難になったか? このところ過去の総集編だとか今回の特集とかで、何かお茶を濁しているような感があるのは、僕の偏見だろうか? いや、僕の偏見であって欲しい。
看板番組の名をおろそかにするような企画はできるだけ避けて欲しいものだ。ファンとして一言苦情を呈したい。と言ってもたった一人の年寄りの繰言に耳を傾ける人もないか・・・・ネ。

本書も2年ほど前になるがこの番組に出演した、著者・新堂冬樹氏の作品だ。新堂氏と宮崎氏のトークに此の作品の面白さを感じて、木更津市の図書館で借りてきた。 そういうことで、時々僕は番組の中で紹介される本を、参考にしているので変なことで番組がなくならないことを願っているのだ。

 

 

て、本の話だ。僕はタイトルから想像していたストーリー展開と、大筋のところで合致していたので、その点は逆にちょっとがっかりしたが、最後の一捻りはさすがだ。ただ、テレビ番組の中では宮崎氏が「ノワールの旗手である著者が、新境地の作品・・・」とか言っていたが、僕はこれが初めての新堂氏の作品なので、他の作品との比較は出来ないが、何と言うか手馴れた感じのストーリー構成に思えた。
ひとかどの芸能プロデューサーにのし上がった黒瀬裕二が、プロダクション各社から、売り込みに訪れた女性タレントを前に、その昔大学生時代に一流のプロデューサーを目指して、同窓の女子大生を一流タレントに仕上げるべく奔走していた頃を回想する、というこの作品を読んで、僕は幾つかの映画を連想した。

その一つは日活映画「勝利者」だ。日本映画の新しいスター、石原裕次郎氏の映画だ、と言った方がいいだろう。1957年、昭和32年のこの映画が公開された頃まだ僕は高校3年生だった。中学生だった弟と一緒に、欠かさずに裕次郎映画を見たものだった。
なぜ本書を読んでこの映画を連想したのか、勿論ストーリーはまったく違う。多分僕の中ではこの映画を石原裕次郎氏の映画と捕らえてはいるが、ストーリーの主役は元ボクサーでクラブのマネージャー山城役を演じた三橋達也氏の方だと感じているからだろう。
それを本書の主人公、プロデューサーの黒瀬裕二と重ね合わせているのだ。

そしてもう一つは、1964年に公開されたアメリカのミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」だ。黒瀬裕二にこの映画の中のヒギンズ教授を重ね合わせていたのだ。

僕の記憶のお粗末さは今までに何度もここで書いてきたが、それでも本を読んでかなり昔に見た映画のシーンを、一瞬にして思い起こすこともあるという記憶の不思議さに、驚いてもいる。
本書での黒瀬裕二の思いと、「勝利者」の山城マネージャーの味わった思いとは異なるが、「マイ・フェア・レディ」のレックス・ハリスン氏演ずるヒギンズ教授が試みるプロセスに、共通のものを感じるのだ。

まあ、読書も映画鑑賞もそこで感じるものは、それぞれ人によって違うだろうから、僕の感じた思いに違和感を感じる人がいるかもしれない。それでも僕は、そんなところにも読書の楽しみを見つける喜びを感じているのだ。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1441.お台場アイランドベイビー

2014年02月28日 | サスペンス
お台場アイランドベイビー
読 了 日 2014/02/16
著  者 伊予原新
出 版 社 角川書店
形  態 単行本
ページ数 462
発 行 日 2010/09/24
I S B N 978-4-04-874112-5

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

に25―26日といすみ市大原へ行くことになって、ブログの更新が予定を遅れた。大原行きは先方で思わぬアクシデントに見舞われ(それも遅れの理由の一つだ)たが、その話はまた後で別の形で書くことにして、今日は去る(2月)23日(日曜日)に、僕が監事を務める社会福祉法人薄光会で行われた評議員会、理事会についての話題を少し書いて見ようと思う。 例年この時期の会合では、当期の第二次補正予算案、次年度の事業計画案が主たる議題である。
平成15年に2代目の理事長である鈴木栄氏が亡くなって、長く続いたカリスマ的なワンマン体制が終了、それまでの理事が次々と辞任して、新に山氏を理事長とした理事会が刷新されるという事態を迎えた。
何処かの国を思わせるような大改革ではあったが、近年その山氏が加齢による体調不良を理由に理事長を辞任し、新たに理事長に就任したのは、奇しくも同姓の山崎氏(と埼の違いはあるが)だった。元は千葉県庁に勤務するお役人だったのだが、その立派な体型とともに積極的な姿勢が、理事会並びに職員達ををリードして4代目理事長の地位を確保している。

 

 

薄光会は元々が障害児(者)を子に持つ親たちが、子供の将来を案じて、重度の知的障害者を支援する入所施設を作ることを目的として組織されたものだ。そのため理事長を始めとする役員は全て入所者及び通園する施設利用者の親たちで占められてきた。
後年、施設運営に積極的かつ功績の認められる、施設長の中からも理事となるものが出て、理事会は最高決定機関としての立場を確立してきた。
ところが、年を経て当然のことながら、リーダーとして施設職員を指導・牽引してきた施設長の中からも、60歳定年を迎える者がでてきた。リーダーの世代交代である。施設利用者の保護者―主として親―たちの中には既にこの世を去った人たちも少なくない。何年も前から、保護者の世代交代は始まっていたから、最前線で利用者の支援に当たる職員にも、それ(世代交代)はやってくることはわかっていたはずだが、長年慣れ親しんだ施設長の交代は一抹の寂しさを感じる。

 

 

方新に若手の施設長が誕生することには、もろ手を挙げて歓迎したい。
今回は2名の施設長の退任に伴い、3名の施設長が誕生することになった。これは2名のうちの一人が二つの事業所を兼任していたためだ。組織運営においては、可能な限り兼任を廃することが望ましいのだが、人員不足はコスト削減との兼ね合いで、必要な部署に必要な人員を配置することは、厳しい運営状況の中で難しい課題だ。
主として千葉県南部の要所に事業所を配置して、地域密着型の福祉サービスを展開させると言うのが、法人の目的の一つでもある。そのためには、今後も各事業所に積極的に人材を迎えて、施設利用者により良い支援や介護といった福祉サービスを展開していくことが重要となる。
さて、定年となった元の施設長は、一人は事業所において主幹職としてとどまることになったが、片や本部の専従員としての職務につくことになる。従来法人本部は有って無きがごとくの状態を続けてきたのだが、ここに至っていよいよその形を明確に捉えることができそうだ。僕は法人の監事として常々本部の重要性を説いてきたが、諸般の事情は本部体制の確立を阻んできたことも有り、ようやくその本部を形作る端緒をつかむことのできる要素が生まれたことは、なんにしても喜ばしいことだ。
今年11月で後期高齢者の仲間入りを果たす僕も、法人の先行きに一筋の光明を見出した思いで、今回の会合に満足して帰ってきた次第だ。

 

 

例によってこの初めての作者の新しい作品「ルカの方舟」を何処かで紹介されたのを見て、メモしておいたのだが、作者の経歴を調べたら、本書「お台場アイランドベイビー」で、2009年第30回横溝正史ミステリ大賞を受賞していることを知り(僕は文学賞のページを作っていたのだが、忘れていたのだ)、先にこちらを読むことにした。
若い頃は高木彬光氏とともに横溝正史氏のファンでもあったから、たくさんの作品を読み漁り、横溝正史賞が制定された当時は、角川映画のマルチメディア作戦が大当たりだったことも重なって、ドラマや映画の映像化作品も次々と見たものだった。
第1回の受賞作「この子の七つのお祝いに」(斎藤澪著)も、映画の方を先に見てから読んだのではなかったかと、記憶しているが近頃はその記憶も曖昧になっている。しかし、いかにもその賞の主旨に相応しいような感覚をもたらす、受賞作に僕は感激して、その後も受賞作に注目するのだが、あるときから受賞作の傾向に疑問を感じるようになった。

 

 

じ文学賞ではあっても、時代の流れとともに選考委員も変わっていくから(近年その交代期間は短くなっているようだ)、それに伴う受賞作の傾向も変化していくことは、避けられないことだろう。
できれば僕のような読者にとっては、その賞の傾向が本選びの指針となるような独自の路線をとってくれることがありがたい。しかしこう文学賞が増えてくると、なかなかそうも行かないのだろう。

近未来、といってもそれほど遠い未来ではなく、今起こってもおかしくないような東京の、バーチャルリアリティ(仮想現実)と言った舞台が描かれる。
此の作品は2010年の受賞作品だから、東日本大震災がまだ起こる前だが、まるでその震災を先取りするような大震災を東京に発生させており、特に埋立地のお台場の高層ビル群は壊滅状態となり、しかも彼の地への橋という橋は破壊されて、お台場は孤島状態となる。
そんな舞台の中でカリスマ的な都知事が目指した、都市復興計画とは? 巨大な陰謀が見え隠れする状況の中、元刑事の巽丑寅は、一人の奇妙な少年と出会う。

無さそうで有りそうな、そんな感覚をもたらす冒険物語だ。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1439.冤罪死刑

2014年02月19日 | サスペンス
冤罪死刑
読 了 日 2014/02/10
著  者 緒川怜
出 版 社 講談社
形  態 単行本
ページ数 381
発 行 日 2013/01/29
I S B N 978-4-06-21*167-9

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

日までの気象情報では、今日(2月19日)にもまた雪となる予報となっていた。だが南岸低気圧の進路変更に伴って、どうやら再びの雪は免れたようだ。短い間に関東平野の沿岸地帯にこれほどの積もる雪が降るのは極めて珍しいことだ。
あまり当てにならない記憶の限りでは、かつてなかったことだ。僕が憶えている昔の大雪は、昭和27年か28年、中学の2年生頃だったと思うが、大雪と言えばそんなはるか昔を思い出すだけだ。
当時はまだ僕は外房の町・大原(現在のいすみ市大原)に住んでいて、温暖な房総半島の中でも際立って穏やかな気候の場所だったから、余計に雪の想い出が深いのかもしれない。
まあ、なんにしろ雪は後の雪かきと言う面倒な作業をもたらすので、歓迎すべきものではない。遠く山陰から北陸、東北の日本海側の豪雪地帯の人々の苦労を思えば、どうということもないのだろうが・・・。
否、だからこそ大雪による建物の倒壊や、立ち往生する車、道路の封鎖による孤立する集落などなど慣れてい ない雪に対応が取れない状況になるのか。

 

 

昨年(2013年)11月に本書を基にしたドラマがテレビ朝日で放送された。新聞のテレビ番組欄で原作者や内容を知り、録画した。DVDに移していずれ原作を読んでから見ようと思っていたから、ドラマはまだ見てない。
その前の週の同じ時間に同じ局で、これも同じく主演を務めた椎名桔平氏のミステリードラマをやっていたのだが、今、ちょっと思い出せないでいる。そのドラマも確か録画しておいたはずなのだが、後でDVDを探してみよう。

この作者も初めてお目にかかる。2007年、「霧のソレア」と言う作品で、第11回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞したとのことで、少し前にBOOKOFFなどで、「霧のソレア」というタイトルを何度か見かけたことを思い出した。
航空パニック・ストーリーだと言うので、またいつか読んでみたい。そういえば昔、アメリカ映画の「大空港」や、「エアポート75」などのシリーズともいえる航空パニック映画に夢中になったこともあった。
特に「大空港」は映画館のみならず、テレビでも何度か放映されたので、僕はその都度何度も見返した。
ユーモラスな老婆―というよりオ婆チャンと言った方がいいか―を演じたヘレン・ヘイズ女史が愛らしく、主演のバート・ランカスター氏を喰うほどの演技が素晴らしかった。このヘレン・ヘイズ女史についてはまた別の機会に少し書いてみたい。

ミステリー小説でも、1991年に第37回江戸川乱歩賞を受賞した鳴海章氏の「ナイト・ダンサー」や2000年に第3回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した高野裕美子氏の「サイレント・ナイト」などを読んでいる。翻訳家でもあった高野裕美子氏はそのほかにも幾つかの作品を発表したが、惜しくも若くして亡くなった。折角花開いた才能が散ってしまうのはまことに「もったいない」ことだ。
しかし、同じ賞(日本ミステリー文学大賞新人賞)に、航空サスペンスが2作品登場したのは偶然か?珍しいことだ。

 

 

ころで、本書の「冤罪死刑」というタイトルの意味が、いまいちよく判らないまま読み進むが、何度かその意味をうかがわせる様な事態が起きるにもかかわらず、結局終盤に到るまでその意味は隠されたまま進む。
物語の主人公は、通信社の記者・恩田和志だ。冒頭で発生する少女の誘拐殺人事件が、恩田の記者としての感覚に不協和音を響かせるような違和感を持たせる。
更には事件の容疑者として起訴された山哲也の弁護を担当することになった女性弁護士の櫻木希久子だ。彼女は被告に冤罪の匂いを嗅ぎ取り、恩田の記者としての情報収集能力に期待して、彼に協力を要請するのだった。

これまで幾つか僕は死刑執行までのタイムリミットをにらみながら、事件を再調査すると言ったストーリーを読んできたから、形は違うにしても同様のタイムリミットが設定されているのかと思いながら読んでいると、なんとあっさり死刑が執行されてしまうのだ。
しかし、謎が明らかにされていく過程が、これほど読む者を興奮させるものだと言うことを、再認識させるストーリー展開と、タイトルに隠された謎の真相が先に張られた伏線とともに最後に・・・・。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1438.闇の伴走者

2014年02月16日 | サスペンス
闇の伴走者
読 了 日 2014/02/08
著  者 長崎尚志
出 版 社 新潮社
形  態 単行本
ページ数 296
発 行 日 2012/04/20
I S B N 978-4-10-332171-2

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

画という呼び方で、従来の漫画とは一線を画すようになったのはいつ頃だったのだろうか?
僕が「漫画アクション」(双葉社刊)という大人向けの漫画週刊誌と出会ったのは、1960年代だったと思うが、そこに連載されていた「ルパン三世」(モンキー・パンチ作)に、それまでになかったダイナミックな画面構成や、キャラクターのアクションを示す描画に、まさに雑誌のタイトル「漫画アクション」にふさわしい感じを持ったものだった。
人の記憶は当てにならない場合もあり、特に僕は近頃物忘れが激しく、毎度書いているようにまったく過去の記憶に自信をなくしている。どうでもいいことだが、この「漫画アクション」という週刊誌も秋田書店の刊行とばかり思っていたのだ。誤った情報を書いてはまずいから、念のためネットで調べたら、上記のごとく双葉社刊だとわかり、危うく間違った情報を書くところだった。

その後。小学館が発行する「ビッグコミック」誌に、さいとうたかお氏が「ゴルゴ13」を発表することになり、いよいよ本格的な劇画時代を迎えた、といった感触を持ち続けていたのだが、例によって僕の記憶などあまり当てにはならない。
一時期は、「いい大人が漫画に夢中になって・・・」と言われるほど夢中で読んだのに、いつ頃からか僕が漫画や劇画に興味を示さなくなったのは、そうした週刊誌などを買わなくなったせいもある。
一つは経済的な理由からと、ビジネス関連の書物を読むのに精一杯と言う環境がそうさせたのかもしれない。なんていう後付の理由はいくらでも思いつくが、実態はどうだったのかは記憶のかなただ。1

 

 

作者の長崎尚志(たかし)氏は高名な漫画編集者で、プロデューサーであるらしい、と言ったことをWikipediaなどで知ることが出来る。前出の「ビッグコミック」(このビッグコミック誌はたくさんの兄弟誌があるので、その内のどれかだったかも知れない。ことによったらビッグコミック・オリジナルか?)に連載されていた、浦沢直樹氏の「MASTERキートン」(この頃僕と同年代か、それより上の読者には、このタイトルがアメリカの喜劇役者・バスター・キートンを連想したのではないか?内容はまったく関わりのないものだが・・・)に係って編集・プロデュースを担当するなど、浦沢氏とは30年来の付き合いだそうだ。
僕もその浦沢氏の「MASTERキートン」は、理髪店か、病院の待合室か、何処かそういったところで見たことがあり、その後テレビでもアニメーションではなく、紙芝居のように静止画の連続で見せる番組になっていたのではなかったか。
ミステリータッチのストーリーは、後を引くような展開で、人気があったと言うような記憶がある。僕の記憶は曖昧で、いつも言うように当てにならないが、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターを連想させるような内容ではなかったか(否、あれは「MONSTER」の方だったか?)と、機会があったら読み返してみたい。

 

 

画編集者の仕事は、漫画家から原稿を受け取るばかりでなく、作品の傾向を示したり、ストーリーのヒントを考えたりと、作者と一体になってプロデュースの一端を担うということのようだ。時には原作者のように筋書きを考えたりもするという。
本書で活躍するメインキャラクターの一人、醍醐真司は元はその漫画編集者だった。編集者としての仕事は一流だと認められており、自身も編集者としてのプライドを持っている反面、協調性の欠如からか、大手出版社を辞して調査探偵という仕事をしている。不細工な容貌と人に威圧感を与えるような並外れた巨体は、常に飢餓感を伴い大量のジャンクフードを食い散らす。
もう一人のメインキャラクターは女性だ。彼女の名前は寺田優希、180cmに届こうという大きな身体、すれ違う男どもが思わず振り返る美貌を持ち、元警察官という経歴はそれなりの護身術の心得もある。
警察官を辞めた後、出版関係の調査を生業としており、最近亡くなった高名の漫画家の妻からの依頼で、遺稿の真贋を調査する仕事で、醍醐を訪ねるところからストーリーは進展する。

最近ではNHKのBS放送などで、宮崎駿氏のスタジオ・ジブリの活動を取材したドキュメント番組などが、漫画やアニメーションの出来上がるまでのプロセスを一般に知識として知らしめている。そうした番組から僕も多少はその世界の実情を知ることが出来て、今や漫画や劇画が一人の作者によって読者に提供されることが、稀有な状況であることもわかる。
本書はそうした世界を、特異なキャラクターを配して、ドキュメンタリー風なリアルな感覚をもたらす、サスペンスストーリーだ。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

1435.檻の中の鼓動

2014年02月07日 | サスペンス
檻の中の鼓動
読 了 日 2014/01/28
著  者 末浦広海
出 版 社 中央公論新社
形  態 単行本
ページ数 285
発 行 日 2011/06/25
ISBN 978-4-12-004244-7

 

上の著者名をクリックすると、今まで読んだ著者の作品一覧へ移動します。

評番組で紹介されたミステリーを次々と読めるのは、手元不如意となって仕方なく始めた、図書館通いのおかげだ。懐の寂しいのはあまり歓迎すべきことではないが、古書店めぐりを控えての図書館通いは、新刊でなければ割りと順調にことが運び、読みたい本を読むことができて、心豊かだ。

しかし、古書店に行かなくなったって、従来僕が古書店で散財していたのはわずかな額で、止めたからと言って懐まで豊かになるわけではないのだが。それに昔からのことわざに「ちりも積もれば山・・・」と言うが、ちりはいくら積もっても山にはならず、僕の場合は塵はあくまで塵のままだ。おっと、折角心豊かになったのだから、後ろ向きの話は止めよう。

この作者は2008年、「訣別の森」(応募時のタイトル「猛き咆哮の果てに」を改題)で、第54回江戸川乱歩賞を受賞しており、順序としてそちらを先に読もうと思ったが、たまたま木更津市の図書館が貸し出し中だったことから、こちらの書評番組か何かで紹介された方を読むことにした。
かれこれ3年近く前に刊行された本が何故今頃紹介されたのかは、紹介した人物とともに忘れた。しかし、そんなことはお構いなく、知らない世界を垣間見ることができて楽しく読めた。

 

 

ベテランの刑事と若い刑事の二人組みがパトロール中に“公園のトイレに産み落とされた嬰児の死体・・・”という無線が入り、近くにいた彼らはパトカーを現場に乗りつけた。
生み捨てられた嬰児は既に死亡しているように見えたが、年配の刑事は狂ったように嬰児を抱きしめて、自分の子供につけようと決めてあった名を叫ぶのだった。彼、四十年配の刑事は、不妊治療を続けた末、やっと授かった子供を妻が流産したばかりで、失意の毎日だったのだ。 そんな彼が、嬰児を抱きしめ蘇生を図る姿に若い刑事はただ呆然とするばかりだった。

と、そんなプロローグから物語は始まるので、警察小説かという思いを持って第一章に進むと、その思いを打ち消すように様相が一変する。その世界にまったく疎い僕は、初めて“デリヘル”なる組織の内容を知ることになる。
車で市内を走っていると電柱などに張ってあるポスターやビラで、“デリヘル”なるものの名前と漠然としたイメージはなくもなかったが、その興味深い実態を知り、なるほどと納得。
“デリヘル”とは知る人ぞ知る「デリバリー・ヘルス」の略称で、文字通り解釈すれば顧客からの電話で、マッサージなどのヘルス介助員を送り込むと言うことなのだが、実際は男性客に対して若い女性を送り込むと言うことだから、そこでの行為は推して知るべし。
そうした組織は反社会的な団体の下部組織である場合が多く、資金源になっているらしい。

 

 

織が送り込む女性は様々な手段で確保して、若い女子高生から人妻や年配者、果ては妊婦までが登録されて、客の要望に応えている。デリヘルはいくつかのチームで組織されており、チームごとにそれをまとめるリーダーがいる。
リーダーは客の求めに応じて、登録されている中から人選して女を送り込むという仕事をする。
中畑蘭子が率いるチームにはアキナという若い妊婦がいた。そのアキナに客がついたとの連絡が入り、指定のラブホテルに送ったが、彼女はそこで出産してしまう、というハプニングが起こった。

元婦人警官だったという中畑蘭子が、どんな経緯でデリヘルのリーダーと言う稼業に陥ったのか?
若い妊婦のアキナが何故デリヘル嬢などという仕事をしているのか?
多くの謎をはらんで進むストーリーは、スリリングな展開を示しながら、裏社会の実態を描写する。
そして、プロローグで示された事態のその後が、後半の重要な鍵となって・・・・。

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村