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隅の老人のミステリー読書雑感

ミステリーの読後感や、関連のドラマ・映画など。

1501.田村はまだか

2014年10月20日 | 人間ドラマ
田村はまだか
読了日 2014/09/06
著 者 朝倉かすみ
出版社 光文社
形 態 文庫
ページ数 303
発行日 2010/11/20
ISBN 978-4-334-74869-2

 

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これを書いている10月17日現在、すぐ近くの小学校のグランドから、運動会の練習の声が聞こえている。
僕と家族が木更津市の真舟地区に越してきた当時(昭和57年)から、小学校建設予定地だったところに、昨年30数年もかかってようやく校舎が建設されて、今年4月に真舟小学校は開校した。
カミさんなどは開校してすぐから、運動会を見にゆくのを楽しみにしていたから、練習の声が聞こえることや、道路で登下校の子供たちの行列を見ては、「可愛!ネ」と売れそうに言う。僕にしてもそれほど子供好きというわけではないが、そうした子供たちを見たり声を聴いたりすると、娘や息子の幼かった頃を思い出して子供はいいものだと思う。
越してきたころは、近所で子供たちの遊ぶ声がしていたが、その子供たちもすでに大人になり独立してここから去って行った人も多い。近ごろはそんな子供の声も聞こえなく淋しい思いをしていたので、再び声が聞こえること喜びを感じている。

ところが人それぞれで、テレビのニュースを見ていたら、東京世田谷(だったと思う)地区では、保育所の建設に住民の反対運動が起こっているという。その理由が子供たちの声を騒音ととらえているらしい。
多くの待機児童の問題は、女性の働く意欲にストップをかけるゆゆしき問題として、行政は保育所の建設に力を入れている最中だ。
近所の騒音が殺人事件にまで発展する場合もあって、考えさせる課題だが、子供の声を騒音とする人たちがいることに、僕は驚くと同時にそういう人たちは昼間何をやっているのだろうという、疑問を持った。
まあ、人によってはきれいな音楽さえも雑音と感じることもあると聞くから、人さまざまで悩ましい問題だ。

 

 

さて、本書のタイトルを見て、かなり前のNHKドラマを思い出した。もちろん内容も趣旨も全くかかわりのないものだが、僕はそのドラマを思い出して、この本にも興味を持った。
ちなみにNHKドラマの方は、「憲法はまだか」というタイトルで、テレビドラマデータベースによれば1996年11月30日と12月7日の2回に放送されている。ジェームス三木氏の脚本、重光亨彦の演出により、津川雅彦氏、江守徹氏、岡田茉莉子氏らの主演で制作された。
まあ、どんなドラマでもそうだが特にこうした歴史的事実をもとにつくられたものは、細部を見れば理屈に合わないようなところも出てくるが、限られた時間の中でいかに娯楽性を保ちながら(なんとなればこうした番組は民放ならずとも、視聴者に受け入れられることが重要だからだ)重厚さをも持たせることができるかといった、あるところで妥協点を見出す必要があるだろう。
前述のドラマデータベースなどでは、いろいろ批判もあるが、僕は結構面白く当時の憲法ができる過程を興味深く視聴した。

 

 

書は第一話から最終話まで、六話の連作短編集の形をとっているが、連作長編と言った方がいいだろう。
小学校のクラス会の流れの三次会は、札幌ススキノの路地裏の「チャオ」というネオンサインのかかったスナック・バーだ。
流れ着いたのは男三人、女二人の五人だった。五人は、大雪の影響で列車が遅れ、クラス会に間に合わなかった田村を待っていた。彼らは話が途切れると、あるいは話のつなぎのごとく、または思い出したように「田村はまだか」を繰り返す。
たまに田村から状況を知らせる電話が入る。こちらに向かっているのだが、まだ遅れそうだ。
果たして田村は無事に仲間と合流できるのか?その辺がミステリーめいて面白さを感じるところだ。それだけではなく5人の話の成り行きも興味をひく。普通なら小学校のクラス会など、関係者以外は面白くもおかしくもないのだが、そこは読者を引っ張って離さない著者の巧みさだろう。

短編「おまえ、井上鏡子だろう」が併催される。

 

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1368.居酒屋兆治

2013年07月16日 | 人間ドラマ
居酒屋兆治
読 了 日 2013/07/11
著  者 山口瞳
出 版 社 新潮社
形  態 文庫
ページ数 245
発 行 日 1986/03/25
ISBN 4-10-111115-4

 

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憶の不思議さというものを最近感じている。歳をとると昔のことを思い出す、とはよく言われることだ。たぶんそれが今の僕にも当てはまるということなのだろうか?
だが、記憶は突如として脈絡のないことが、浮かび上がって戸惑うことがある。本書の著者・山口瞳氏のことは、若いころ「江分利満氏の優雅な生活」を読んで、作品と著者を重ね合わせていたことや、著者が寿屋(現在のサントリー)の宣伝部に在籍していたことなどから、ある種のあこがれの念を抱いていたことなどが、すっと頭をよぎる。
今でも大して変わらないのだが、当時の外房の田舎町での貧しい暮らしは、考えてみればそれはそれで楽しい?はずだったのだが、馬鹿な僕はそこが自分の居場所ではなく、もっと豊かな違うところにあると思っていたのだ。そうした考え方というのか、意識下に埋め込まれているような感覚は、歳をとった今でも多少残っているようなのだ。
40歳の時に今の木更津市に建売住宅を購って、30数年住んでいるにもかかわらず、ここは仮の棲家だといった思いが、ふっと頭をよぎることがあるのだ。

 

 

まあ、言ってみれば僕はいつまでも、地に足がついていない夢見心地的な生き方をしてきたのだろうか。頭の片隅に常に風来坊的なところがあるのかもしれない。次第に残り少なくなっていく人生の中で、考え方だけにしろ、バガボンドに対するあこがれのようなものを持ち続けている僕は、どんな人間なのだろう?
そんなだから、ずっと貧乏暮し(いや金銭面だけではなく精神的にもだ)から抜け出せないでいるのだろう。
なんだか哲学的な問答みたいになってきた。何を言おうとしていたのだろう?

週刊新潮に連載されていた「男性自身」が単行本になるたびに、僕はせっせと買い込んでは読んで、書棚に収めるということを続けていたのも、著者の生き方に傾倒していたともいえるのだが、さてどんな内容だったか?と、思い出そうとしても出てこないのだ。
山口瞳氏がこの「居酒屋兆治」を発表した1982年には、まだ僕は外房の町大原に住んでいた。それまでに読んでいた「男性自身」や「江分利満氏の優雅な生活」とは一風変わった小説と言う印象が、僕の中で違和感のように感じて、読んでみようと言う気が起こらなかった。だから、その翌年、高倉健氏の主演で映画化されたものもかなり後になってから見たのだと記憶している。

 

 

年後(だったと思うが定かではない)映画を見た後、その完成度の高さに驚いて、いつか原作を読もうと思いながら月日がたったのはいつも通りのことだ。映画の中で特に僕が驚いたのは、高倉氏の扮する主人公・藤野伝吉の女房役に扮した、加藤登紀子氏だった。
本当の夫婦かと思わせるようないい雰囲気を醸していた。後で聞くところによれば、トキコ姐さんは高倉氏の大ファンだったそうで、そんなところからも彼女の名演が引き出されていたのかも知れない。
昨年暮れにNHKBSプレミアムで放送された映画を、何度目かの再見をして、いよいよ原作への思いが高まってようやく読もうと思い立ったのだ。
今回原作である本書を読んでみて、大野靖子氏の脚本と言い、降旗康男監督の采配といい、実に原作の持ち味を生かしていると言うことを、改めて感じた。原作の舞台は東京郊外(モデルは東京国立市)だが、降旗監督の映画はそれを北海道に移して、壮大な大自然を背景にした人間ドラマを形成して、キャスティングを生かした映画に仕上げていることがよくわかる。(この映画の話についてはまた別の機会に、じっくりと取り組んでみたいと思っている)

原作は第一話「霧しぐれ」から最終話「藤ごろも」まで14篇の連作で構成されており、その一話、一話が実に切れのよい短編で、次へ次へと進ませる。
巻末の安部徹郎氏の解説が、これまた原作の成り立ちをさもありなんと思わせるもので、山口氏が通った居酒屋兆治のモデルとされる界隈に、足を運びたくなるような気にさせるのだ。

 

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1345.永遠の仔

2013年04月28日 | 人間ドラマ
永遠の仔
読了日 2013/04/07
著 者 天童荒太
出版社 幻冬舎
形 態 単行本2巻組
ページ数 (上)422
(下)493
発行日 1999/03/10
ISBN (上) 4-87728-285-8
(下) 4-87728-286-6

 

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000年、第53回日本推理作家協会賞を受賞した本書は、当時、書店の店頭に平積みされて飛ぶような売れ行きを示していた。分厚く2段組みで、なおかつ上下2巻組の本が、好調な売れ行きを示す現象に僕は不思議な感覚を抱いていた。(ちなみにこの長いストーリーは、400字詰め原稿用紙、2,385枚だそうだ)
そうした状況の中、その年4月から6月にかけて放送された、椎名桔平、中谷美紀、渡辺篤郎ら各氏の主演のドラマを見て、幼児虐待の暗い話にいささか食傷気味の感じを抱いて、長い間原作を読もうという気にならなかった。
僕の中では、直接係りはないのだが、社会福祉法人の施設・ケアホームに入所している知的障害を持つ我が息子と、どうしても重ね合わせて、子供への虐待という部分に拒絶反応を示してしまい、なかなか原作に手が伸ばせなかったのだ。(まだ、この読書記録を始めて間もないころだったことが、思い出される)
そうした気持ちは今も変わりはないのだが、ドラマの内容も記憶の底から次第に遠のいていき、ところどころしか思い出せなくなった今、ようやく読んでみようという気になった。

 

 

ミステリーにはある種、暗く重い話はつきもので、(最近はそういう内容ではない話もたくさん出ているが)今までに結構そうしたストーリーも読んできた。最近では学校でのいじめを苦にした子供が、自ら命を絶つなどという、、全くやりきれない現実の事件も起きている。だからと言って僕は、そうした現象に慣れるということなどは考えられなく、ニュースに表れるたびに、心を痛めている。
どちらかと言えば気の小さい僕は、そうしたニュースや、小説のストーリーに出会うたび、不必要なほどの感情移入によって、年甲斐もなく動揺するのだ。時には夢にまで見てうなされることさえある。
そんな思いを持ちながらも本書を読もうと思ったのは、先日BS11(イレブン)の番組に、著者の天童荒太氏がゲスト出演して、新作の「歓喜の仔」や本書の内容について、宮崎美子氏のインタビューに応えていたのを見たからだ。
だが、読み終わるまでには、どうしても理解できず受け入れ難い描写が現れるたびに、何度途中で読むのをやめようと思ったことか。その都度休憩をとっては、興奮状態を覚まして、また読み続けるという動作を繰り返した。一体この先に救いはあるのだろうかという疑問を感じながら。

 

 

いころから想像を絶するような、親による虐待を受けていた、一人の少女と二人の少年の、再生?の物語である。
彼らが成人してそれぞれ職業人となった現在と、18年前の四国の病院での入院生活との、昔と今が交互に語られていくストーリーは、前後の関係を容赦なく描写する。成人しても尚幼いころの体験によるトラウマは、時として抑えようもない衝動として現れることが、感情と理性との狭間で揺れ動く人間の悲しさを表す。
少女だった久坂優希は看護婦になって、そして二人の少年は長瀬笙一郎と、有沢梁平。片や弁護士に、片や警察官となっても、少年だった頃お互いに救いを求めあった少女・優希を忘れられずにいた。
有沢は優希の勤務する病院の近くの警察署に、同様に長瀬は病院の近くに事務所を構えた。
そして、あるとき三人は奇跡的な再会を果たすのだが・・・・。

長いストーリーを読み終わった後、僕は必ずしもハッピーエンドを望んでいたわけではないが、近頃幼い子供への親による虐待が、この本と同様の悲しい結末を生み出す可能性を考えさせる。数多くニュースの話題になる現実問題が、将来どのような事態を生み出すのかという不安を呼び起こすのだ。

 

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