「文字の都市 世界の文学・文化の現在10講」柴田元幸編著(東京大学出版会)を読みました。
東大の文学部の「多分野交流演習」から生まれた10篇の講義録です。
「多分野交流演習」とは、文学を言語(あるいは民族)で分けずに、世界文学として、時に文学のみならず芸術や思想にまで越境しながら語ろうという、新しい趣旨のプロジェクトだそうです。
演目はみごとにバラバラ。
柴田さんの部分しか読んでいないのですが、日本文学が単身者を描くことが多いのに比べ、アメリカ文学は今でも「理想のファミリー像」の呪縛に捕らわれているという言及。そして「そのファミリー像が崩れていく物語」という点で、アメリカ文学の不幸の形はどれも良く似ている・・・、
なるほど、です。
それとは別に、流し読みしていて面白かったのが野中進さんの「愚痴と文学」の講義。愚痴とはなにか、愚痴はどういう状況で発せられるのか、などの「愚痴論」がまず面白いのですが、さらに「ロシア文学と愚痴は関係が深い」と語るあたりからプププ・・・と笑える指摘の数々。
チェーホフ「かもめ」「三人姉妹」、そしてドストエフスキー。
「ラスコーリニコフは話すことでなく、聞くことによって作品の主人公としての役割を果たしている。」
ロシア文学の「独白」は、「愚痴」!?
こういう「偉大な作品」「文学界の金字塔」を神棚にあげないで、自分の視点で論じる姿勢、好きです。
東大の文学部の「多分野交流演習」から生まれた10篇の講義録です。
「多分野交流演習」とは、文学を言語(あるいは民族)で分けずに、世界文学として、時に文学のみならず芸術や思想にまで越境しながら語ろうという、新しい趣旨のプロジェクトだそうです。
演目はみごとにバラバラ。
柴田さんの部分しか読んでいないのですが、日本文学が単身者を描くことが多いのに比べ、アメリカ文学は今でも「理想のファミリー像」の呪縛に捕らわれているという言及。そして「そのファミリー像が崩れていく物語」という点で、アメリカ文学の不幸の形はどれも良く似ている・・・、
なるほど、です。
それとは別に、流し読みしていて面白かったのが野中進さんの「愚痴と文学」の講義。愚痴とはなにか、愚痴はどういう状況で発せられるのか、などの「愚痴論」がまず面白いのですが、さらに「ロシア文学と愚痴は関係が深い」と語るあたりからプププ・・・と笑える指摘の数々。
チェーホフ「かもめ」「三人姉妹」、そしてドストエフスキー。
「ラスコーリニコフは話すことでなく、聞くことによって作品の主人公としての役割を果たしている。」
ロシア文学の「独白」は、「愚痴」!?
こういう「偉大な作品」「文学界の金字塔」を神棚にあげないで、自分の視点で論じる姿勢、好きです。