Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「虚無への供物(上・下)」中井英夫著(講談社)

2009-04-20 | 日本の作家
「虚無への供物(上・下)」中井英夫著(講談社)を読みました。

昭和29年の洞爺丸沈没事故で両親を失った蒼司(そうじ)・紅司(こうじ)の兄弟、従弟の藍司(あいじ)らのいる氷沼(ひぬま)家に、さらなる不幸が襲います。それは密室状態の風呂場での紅司の死亡。
そして叔父の橙二郎(とうじろう)もガスで絶命します。殺人か、事故か?
素人探偵の奈々村久生(ななむらひさお)と、その婚約者・牟礼田俊夫(むれたとしお)らが推理を重ねます。
ネタバレがありますので、未読の方はご注意ください。

誕生石の色、アイヌの伝説、五色の不動尊、薔薇、占星学から花言葉、映画の評論、古今東西の探偵小説など、蘊蓄(うんちく)満載。
さまざまな知識が飛び交い、犯人とその動機を追う推理合戦が面白いです。
しかしこの小説がとても面白いゆえに、「殺人にワクワクさせられる」読者である自分の倫理感を、最後につきつけられる矛盾、これもまたなんともいえない・・・。

この本の紹介にはどれも「反推理小説の真髄」と書かれているのですが、この紹介文は、これからこの本を読む読者にとっては不親切ではないかなあと思います。「本格的推理小説」と信じて読むほうが、ラストの感慨はより大きいのではないかと思うので。

犯人の独白。
「何か面白いことはないかなあとキョロキョロしていれば、それにふさわしい突飛で残酷な事件が、いくらでも現実に生まれてくる、いまはそんな時代だが、その中で自分さえ安全地帯にいて見物の側に廻ることができたら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。」

世の中に絶えず起きている殺人事件に慣れきり、その謎をときあかそうと知的好奇心を興奮させる、その前に、「人が人を殺す」ということに対する驚きと、いきどおりとを人間として取り戻し、想像力を働かせろ・・・そんなことを思いました。


「海の殺人現場(洞爺丸の事故)が人間界の出来事で、苦しみぬいた挙句の橙二郎殺しは気違いの沙汰なのか、おれはききたい。」

多くの人間が、ほかの多くの人間たちの怠惰による事故、あるいは悪意に満ちた思いつきによる放火などで、無差別に死を遂げる。
「可哀想だが、事故だな」、そうあっさり受け入れるのがまともな人間?
でも遺族にとっては無論それで片付けられる問題ではない。
不条理な死に出会ったとき、人は「その人が死にいたる、自分が納得できる物語が欲しい」と思うのではないでしょうか。
あるいはそれは「殺人」という忌まわしい「物語」かもしれない。
そして頭の中だけでなく、自分でその「物語」を作ってしまうこともあるかもしれない・・・。
人道的に許される行為ではなくても、人情的に理解できない話ではありません。

亜利夫が日記で語る言葉を思い出します。
「ひとつ、際立って眼につくのは、事件が常に現実と非現実の二重写しになって進行し、自分がその間に挟まれているというか、いつでもその二枚ガラスを透かして成り行きを眺めてきたということだ。」

一般的な報道の目(現実)で見ればそれは「単なる事故」かもしれない。「自殺」かもしれない。
でもそれは遺族の目から見た「物語(非現実)」とは違う。

たとえば幼くして亡くなった子を、人は「病死」と呼んでも、遺族は「自分の前世の業」とでも考えなければ受け入れられないかもしれない。
たとえば交通機関の事故で亡くなった人を、人は「偶然による事故」と呼んでも、遺族は誰か特定の憎む対象を得たくて、架空の「犯人」を頭でつくるかもしれない。
たとえば亡くなった会社員を人は「自殺」と呼んでも、遺族は「部署の人間全員が集団殺人者」と呼ぶかもしれない。

一般的な現実と、心のなかの物語と、ふたつの現実がある。

そして作家とは報道の目(実際にあったできごと)ではなく、その物語、心の現実を語る人なのかなあと感じました。

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