「読むので思う」荒川洋治(あらかわ ようじ)著(幻戯(げんき)書房)を読みました。
「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。いつもの自分にはない思いをさそう。読まないと、思いはない。そのままはこまるので、ぼくも読むことにした。」
ことば、本について語られるエッセイです。
著者が詩人であるせいか、細かい言葉遣いや漢字、文学全集や辞書について語られているものが多いです。
出版社が作る、中身は白紙の本の見本(「つか見本」というらしいです)を手に入れた喜びがなんだかほほえましかった。
著者がほかの方の本から抜粋したもので面白かったのは、北村太郎さんが子ども向けに書いた文章。
「読書によって心が広くなるより、狭くなる人のほうが多い。」
「一つの小説の型、考え方の型、生き方の型、美の型だけにしがみついて、それ以外のものを認めようとしない。その一つの型あるいはそれを中心とした一つの態度の範囲においては、知識の量はますます増えてゆきますが、その人の心は、いよいよかたくなになるばかりです。」
ふ~む、私は読書は純粋な楽しみなので、好きなものだけ読んでます。ちょっと耳が痛い話。
実際に荒川さんは古典文学から町田康、一青窈まで、古いものも新しいものもわけへだてなく楽しんでいて、その感性のやわらかさにあこがれます。
黒川創さん「かもめの日」より。
「ふつうの人間っていうのは、いいかい、まず、いったんはそういうことも考えてみる、ということだ。右に揺れ、左に揺れる。その場その場で、いろんな条件を勘定に入れながら、あえてそこからどれかを選んだり、互いの妥協点を探したり、あきらめたり、やせ我慢もしたりしながら、生きている」
この場合の「ふつう」とは「凡庸」という意味ではなく、「まっとう」という意味なのでしょう。私も自分の内側の感覚と、外から見たときの考え、いつでもいろいろな視点を自分の中に持っていたいと思います。
「本を読むと、何かを思う。本など読まなくても、思えることはいくつかある。だが本を読まなかったら思わないことはたくさんある。いつもの自分にはない思いをさそう。読まないと、思いはない。そのままはこまるので、ぼくも読むことにした。」
ことば、本について語られるエッセイです。
著者が詩人であるせいか、細かい言葉遣いや漢字、文学全集や辞書について語られているものが多いです。
出版社が作る、中身は白紙の本の見本(「つか見本」というらしいです)を手に入れた喜びがなんだかほほえましかった。
著者がほかの方の本から抜粋したもので面白かったのは、北村太郎さんが子ども向けに書いた文章。
「読書によって心が広くなるより、狭くなる人のほうが多い。」
「一つの小説の型、考え方の型、生き方の型、美の型だけにしがみついて、それ以外のものを認めようとしない。その一つの型あるいはそれを中心とした一つの態度の範囲においては、知識の量はますます増えてゆきますが、その人の心は、いよいよかたくなになるばかりです。」
ふ~む、私は読書は純粋な楽しみなので、好きなものだけ読んでます。ちょっと耳が痛い話。
実際に荒川さんは古典文学から町田康、一青窈まで、古いものも新しいものもわけへだてなく楽しんでいて、その感性のやわらかさにあこがれます。
黒川創さん「かもめの日」より。
「ふつうの人間っていうのは、いいかい、まず、いったんはそういうことも考えてみる、ということだ。右に揺れ、左に揺れる。その場その場で、いろんな条件を勘定に入れながら、あえてそこからどれかを選んだり、互いの妥協点を探したり、あきらめたり、やせ我慢もしたりしながら、生きている」
この場合の「ふつう」とは「凡庸」という意味ではなく、「まっとう」という意味なのでしょう。私も自分の内側の感覚と、外から見たときの考え、いつでもいろいろな視点を自分の中に持っていたいと思います。
「思想を小説という架空の世界に溶け込ませる作家が好き」という意見に同感です。
エッセイだと「その人の最終意見を傾聴している」という感じなのに比べて、小説だと「自分がその思想にいたるまでを追体験している」感じがするからでしょうか?
ちょっとうまく言えてなくてスミマセン。
荒川さんの本を読んだのは初めてなのですが、「私ならここの表現は読み飛ばしているだろうな」という言葉遣いまで丁寧にとりあげていて、さすが長年書評を書いている方だなと思いました。
「一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分のなかの何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何か「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。」
個人的には、このようなすばらしい思想を、エッセイではなく、小説という架空の世界に溶け込ませる作家が好きです。たとえばプルーストのような...