森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

日記:方言,それは心のふるさと

2010年11月30日 02時50分29秒 | 日記
最近,ブログを打つ気持ちがなえています.
なんというか,ネタはあるけど,書こうという気持ちにならないのです.
書いていると,書き続けるはずなのに,
書かなくなると,書こうという意志がなくなってしまう.
「~たがる脳」っていうのは,ある意味,自動化された脳.
ブログも意識の下で生み出される場合があるのですが,
私の場合も,そのスイッチが入れば動き始まるのですが,
なかなか,その意志を生み出す主体性.
すなわち,意識の下で生み出されるドーパミン神経細胞の活性化が起こらなくなると,
書くというスイッチが生み出されなくなってしまいます.

この間もいろんな出来事がありましたが,
書かないと,それが断片的な再生でしかなくなってしまう.
記憶の消去後の,記憶の再生となり,
これでは,記憶の強化にならない.
なぜ,ブログを書くのかっていうと,
記憶の操作のためにしているのですが,
ある程度の頻度でやらないとその意味がなくなってしまうのも事実です.

それを誘導するのが,自分のメンタリティなのですが,
ここ数週間,プライベートなことで,悩むことがあり,
仕事化しているブログにまで気持ちが回っていないあらわれなのかもしれません.
これはもうしばらく続くのだと思います.

世間的に見れば,毎週講演に飛び回っていて,
元気そうに見えるようですが,
それが他人から見た私のイメージであり,
本質的なものではありません.
人の精神は見えないものであり,
世間的に飛び交うのは,あくまでも誰かの脳を介在したイメージの伝搬でしかありません.
自分の目で信じろっていつも僕がいうのは,
他人の脳を介在してしまえば,
その人のイメージで都合良いように修飾されてしまうから.
人の受け売り,すなわち,借り物で生きる人生ほど面白くないものはない.
私たちは,いつまで他人の意見に左右され,
いつまでそれを修行しないといけないのか・・・
最近のさまざまな研修会や講習会で常に思うことです.

「世の中の人は何とも云えばいへ わがなすことは われのみぞ知る」
龍馬が最後に残した言葉です.


金曜日は朝日リハの講義,昼間の学生もいつしか真面目に聞き始めました.
意識の変化はこういう些細なプロセスによって少しづつ生まれていきます.
講義では教師なし学習,記憶を取り上げました.
今回は夜間部は休講にさせていただき,
その代りに,畿央大学の実習でお世話になっている岡山協立病院の出張講義をさせていただきました.
院生の永幡君に送っていただき,
神経科学とリハビリテーションと題して,
上肢,下肢の運動制御・学習,そして身体知覚の話をさせていただきました.
おおむね,良好な印象をもらいました.
勤務後の訓練室での講義は,気を使いながらの講義にいつもなります.
そのせいか,進み具合は極めてゆっくりになり,自分が用意した内容の3分の1しか進みませんが,それはそれでよしとするべきと,最近割り切っています.

日曜日は東京出張を龍馬伝に間に合うように調整し,
上本町に19時10分に到着,さあ,あとは五位堂へと思えば,
近鉄電車が人身事故のために,ストップ.
これは参ったと思い,どうすればよいか一瞬あたふたしましたが,
ひょっとして尊い命が奪われてしまったかと思うと,
近鉄への不平不満は全然思わなかったのですが,
いかんせん,龍馬伝は最終回.
いままで,1回も見逃すことなく,見続けてきた.
最終回はBSの時間帯でなく,8時からと決めていたために,
これは参った,さあどうしようと思い,
一瞬JRに切り替えて帰ろうかと思いましたが,
もしその選択をすれば,8時半すぎる,そうすれば,もう暗殺はすぎてしまうだろうと思えば,私の足はタクシー乗り場に.
電車なら480円なのが,タクシーを利用すれば8000円,
それでも私はちゅうちょなくタクシーにのりました.
土佐人の龍馬さんに対する思いです.
8000円のところが,7900円で済みました.
ささやかな報酬になりました.

あなたの志の1000分の1しかないかもしれませんが,
私は私なりの40代を生きようと思います.
40歳を目前に控え,
1度しかない人生,好きなことをして,
好きなように生きて,そして明日もし倒れたとしても,命を落としたとしても,前を向きながら後悔せずに,笑いながら死のうと思う.
好きなことを抑圧してまで,生きるっていうのは,もったいない.
私もせいぜい,20年やそこら,
この人生の加速スピードからいえばそれはすぐのような気がします.
切羽詰まったように生きるのはもうやめにしようと思う.
自分の人生を使い切るっていうのは,
もちろん社会にどれだけ貢献したかもそのバロメータになるけど,
自分がどれだけ好きなことをして,
好きな人といて,楽しんだかも大事なバロメータになります.
見栄や恰好だけで,楽しいことを抑制するのではなく,
自然に楽しいことをし続けてれば,
道半ばで倒れたとしても,わが人生に悔いなしって思うのだろう.

こんなことを考えれば,暗くなるかもしれないけど,
死亡率は100%であるわけですから,死ぬための生き方を,
考える今日この頃です.
これから下っていくこの道を,無理して上昇気流に向かおうとして,
人を攻撃せず,
それを楽しむというのが,生物らしい行為なのでしょう.
幸せとは何か,サイボーグになってでも機能を高めることではありません.

老いを楽しむというのが,本質的なものだと思うのです.
リハビリテーションとは何かと考えたとき,
つくづく,そのようなことを思います.


さて,龍馬伝が終わり,
私の毎週の楽しみがなくなってしもうた.
これだけ,高知弁がつかわれたのも,類をみない.
みなさんにはこの高知弁がどのようにきこえたのであろうか?
私の脳の処理とは違う処理がされているのだと思う.
そんなことを考えると,方言をもっている私は幸せなことだと思います.
方言というのは,ふるさととつながっている心の友みたいなものです.

土佐弁は心の友やき.

巷は,龍馬伝の最中に,知事選のテロップが流れ炎上していますが,
もちろん,制作側から考えれば,暗殺のシーンにそんな馬鹿げたテロップを流すのはと思います.
NHKも馬鹿だな~と思いますが,
「こんまい,こんまい」
土佐人の私には,そんなものは,意識に上りませんでしたから,
龍馬さんのことを考えれば,そして,涙で前が見れませんでしたから.

「こんまい,こんまい」
龍馬さんはそんなことで文句は言わんぜよ.
それでも,幸せやろうが.
それで,えいじゃいかと,言うでしょう.