森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

世界観

2010年09月23日 20時07分47秒 | 脳講座
理学療法学会や作業療法学会では,とてつもない数の発表がされています.最近は数の多さという理由のみで分科会化へと進行しつつあります.もちろん,その大義名分は専門化することでもっと深い議論をして発展につなげましょうというものだと思いますが,実質的には2,000発表もの運営ができないからという理由が本当のところなのでしょう.

一方で,理学療法学という学術雑誌はいまだ月刊化されず,読者離れが進行し,最近では原著論文だけでなく,講座が提供され始めました.これもなんとなくその場しのぎで,対症療法にしかなっていないように思えます.依然として,臨床実習訪問にいけば,封筒を開けていない学術雑誌「理学療法学」が散乱しています.

なんか矛盾に気づきませんか.学会発表のほとんどが臨床家によるものです.2000あれば1500は臨床家によるものでしょう.これだけ発表が盛んなのに学術論文は読まない,もちろん,書かない・・・

本来ならばその学会発表が論文になってもいいはずなのに.これは問題が相当に深いです.要するに,学会発表が最終到達目標になっているのです.本来,学会発表は未完成な状態であるはずなのに.

つまり,サイエンスに向かおうとしていない,学会であるといえるかもしれません.

全国規模でなくても少数人であっても,研究所が主催する身近な研究会であっても,そこに未完成なものを発表し,様々な知が結集されることで論文になっていくのではないでしょうか.何も全国学会で発表する必要はないのです.議論を深め,より緻密なデザインを考案し,そしてそれの検証の繰り返しを行う,そしてある程度の普遍性が生まれれば,論文にしていくように.

学会発表は現在進行形なライブであり,そのライブに基づいて,アルバムを完成させていくように.

目標を論文においてみてはどうでしょうか.せっかく,理学療法士にしろ,作業療法士にしろ,世界共通の言語・仕事なのに,国内の論文だけではもったいありませんし,サイエンスと昇格していくためには,世界規模の議論となっていくようにしむけないといけません.

そうすればもっと国内の学術論文の意味が見えてくるのではないでしょうか.2000発表の研究が毎年されているのであれば,日本の理学療法や作業療法が世界の中心になってもおかしくないはずです.言語の問題はあれど,そのような志を持つことで,もっと学術論文を読んだりすることが楽しくなるのではないでしょうか.

世界共通の仕事なのに,世界の動向・情報を知らずして,臨床を行っている皆さん,盲目にならず,進歩についていき,そして進歩させていくことが,私たちの責務なのです.現代の理学療法士や作業療法士は,未来の理学療法士や作業療法士に仕事を託す責任があります.もう自分中心にすごく限られた経験則で生きるのはやめにしませんか?

世界観こそ,脳の,心のもちようから変化するものです.



日記:変化球勝負

2010年09月23日 06時58分27秒 | 日記
長期遠征より昨日深夜奈良に帰りました.
博多を月曜に離れ,一路東京,千葉へ.
火曜日はフルーティストの齊藤さんにインタビュー兼対談を行いました.
齊藤さんはBouquet des Tonsのアンサンブルのメンバーで,
ベルサイユ音楽院,パリ・エコール・ノルマン音楽院で室内楽とふるーとを学ばれたお方.
パリの話は封印し,履歴,教育,身体感覚,アンサンブルのこと,などについて話しました.
吹奏感に関して,指の体性感覚,聞こえる音,そして横隔膜などの内部感覚の統合,不一致の意味について,楽しく話すことができました.
また力を抜くことの意識の持ちよう,なんかはセラピストに聞いてもらいたいたく,
いかにリハビリテーションが単純に力を入れろ!という指示しか出していないと思うと,
とても情けなく思えました.
オリバーサックスもそれは嫌気がさすでしょう(左足をとりもどすまで).
彼は新著「ミュージコフィリア」でも才能あふれる著述をしています.

音が鳴らないというフィードバックがあるということは逆にうらやましく,
力を入れなくても入れすぎてもいい音がならないというフィードバックは教育する上で大変重要な戦力になると思いました.

翌日,水曜日は同じくBouquet des Tonsのメンバー,ピアニスト,チェンバロ奏者の猿渡さんにインタビュー・対談.
初めて,チェンバロを見て聴いて,その音の新鮮さに喜びの感情が生まれました.
チャンバロはピアノのように弦を打つのではなく,弦をはじく構造になっており,
弦楽器の音であり,鍵盤の構造は一緒でも音がこんなにも違うのかと初めて知りました.
それをたとえ,文章で見てもわからず,肌で感じるということはそういうことで,
いくらバーチャルな技術が発展して,身体感覚や五感に近づけたとしても,
このわたしにとっての第六感をくすぐることは絶対にないと断言できました.

基本的に芸術やスポーツは人間が行うものであり,
特に芸術活動においては,イメージ,創造性が重要であり,
この第六感なしでは,始まらないわけであって,
芸術は人間しか生み出せないものであり,
特に音楽は総合芸術であり,
ただ創作活動でなく,そこに道具,コミュニケーション,
そしてなによりも共鳴現象が起こるというのは,
まさにそのもの自体が人間の身体と脳そのものなのです.

今度の脳を学ぶ(3)~音楽家との対談~は,
音楽と脳という小さいテーマでなく,
音楽家自身をクローズアップすることで,人間に迫ろうとするものです.
小さい枠組みで,人間をとらえ治療している人は,
おそらくその意味が理解できないと思いますが,
人間を知る(知りたい)という大前提がないと,
高次な医療サービスであるリハビリテーションは展開できないと思うのです.

さて,猿渡さんとの対談は,奏法,特に右手ー左手の分離,
そして,指先1本1本への意識,
さらには読譜における視覚ー体性感覚,さらには右手,左手と譜面の上下の関係など,
それらが学習プロセスでどのように習熟していくのか,など,
運動―行為の学習において大変興味深いお話が聴けました.
運動学習の諸問題において,よく鍵盤の操作が取り上げられます.
その問題に迫ることができればと思います.
姿勢,そして聴覚フィードバック,
さらにはイメージをもって臨む,イメージの立ち上がり,など斎藤さんとの共通項もありますが,まさに奏法の獲得は,人間の身体行為において,情報処理の脳,感情の脳,そして実行の脳をまんべんなく使い,それが習熟するプロセスにおいて絶妙にかかわっていく基底核や小脳など,楽器を演奏するプロセスは,まさに運動学習を研究するものにとってはとてもためになり,おししい話を聞くことができました.
そこには報酬学習も必要なのですが,
まさに演奏するということは外部評価による報酬でなく,
自己報酬系の作動であると思い,
だからこそ,いろんな教育に音楽や創作活動が行われているのだと改めて知り得ました.
今の教育は,そういう面で,大きな間違いをしています.
客観性のなのもと,外部評価ばかりを報酬とする,
まさに人間の本質を失おうとする序章が来たのではないかと,
不安でたまりません.
だから,学校は面白くないんだと,これまた改めて納得し,
そもそも金銭欲にまみれたこの社会.
売れるために音楽をするという本末転倒なこの志向性.
音楽業界でなくでなく,教育にも同じ.
自己評価よりも,外部評価,そして,質よりも数.
何人入れたかが重要.
もはや大学は予備校なのかといろんな記事をみて目を疑い,耳を疑いますが,
競争社会を日本は選んだわけであって,それをどうのこうの言うつもりはないのですが,
日本人の良さ「まあまあ」というのがなくなり,
そもそも,このような競争社会は日本人の精神には向いていないのではないかと思うのです.
いじめ~自殺~犯罪など,日本が抱えている「結果」とししての問題は,
こうしたプロセスから生まれる結果ではないかと思い,
結果を見て修正するのは対症療法しかならない,あるいはそれにもなってないような気がします.
まさに,脳卒中後のまひの回復への,麻痺(結果)に対する物理的刺激でしかなく,
根本的な問題を封印してしまい,結局は10年後も同じなんだろうなと思うと,
もはやこの科学的問題は根深いと思い,
匙を投げたい気分にもなります.


寺子屋のような教育が復活することは?・・・もはや現代社会にはないと思い,
いよいよ人間はエピローグを迎える道を歩んでいくのかと思い,
身ぶるえしました.
映画「BECK」でもそのようなことを思いました.
(ストーリーは超ベタでしたが・・)

音楽はそもそも金をとらないものです.


いずれにしても,このように他の業界の方々と話すと,
私自身が相互作用することで,エマージェンスされる場が多々あります.
残念ながら同業種にはなくなりつつあり,
自分が成長するためには,少々背伸びしてでも,
そういう人から意見をもらい,
この社会について考え,
微力ながら,少し道を耕し続けないと,
どうにもならないと思っています.
私は,直球での勝負は好みませんので,
変化球を駆使しながら,意味を伝えることをしていこうと改めて思いました.

脳を学ぶ(3)スタートです.


追伸:昨日の帰りの新幹線でメールを昔の仲間に送信.来年,3月12日,13日のどっちかでライブをすると思います.しかし,移動移動の日々.肉体は重いが,精神は軽い,だから結構,いけてる.