森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

セレンディピティ

2006年09月26日 18時04分55秒 | 過去ログ
昨日は3回生に対して怒りまくったが、おおよそ3年ぶりぐらいである。
真の優しさとは何かを感じてもらいたい。
表面と深部。

安易に簡単な世界にいくべきでない。
君たちはまだ「何者」でもない。

隠れたものを目ざとく発見するそういう人生を歩んでほしい。
幸せとはそこにあると思う。
見えるもの、刺激だけ、そんな世界に生きるのは昆虫だ。

感覚も、観念も、ごくわずかな環境の認知によって触発される。

奈良県士会の研修部より講演依頼をいただいたが、依頼していただいたにもかかわらず、少し怒ってしまった。申し訳ないです。
臨床に直結するものを、と言われたが、安易に簡単な世界だ・・・

そういう観点で講習会に行くと、必ず責任転嫁を患者の病態やテクニックに向かう。
原因はあなた自身の思考にあるはずなのに。
治らないのはセラピストの思考(仮説)に問題があると常に思わないと、医学の進歩はない。
もう少し謙虚に。
お願いします。


いずれにしても、怒った後は自省がつき物である。
自分の浅はかさもどうかと思うが、それもしかたない、人(間)だから。


「偶然は準備のできてないものを助けてくれない」
これに尽きます。


「臨床」だとか、「研究」だとか、「教育」だとか、こんなところにも「要素還元」主義が蔓延している。
優れた人はどれでも長けているはずだ。
だって、すべては、仮説を検証するシステムだから。


結局自分を守ることしか考えいないのじゃないか?


向かうべきは対象者だし、その病態(怪物)なんだ。


単純な治療手続きの連続では、いつかこの世界はなくなってしまうよ。


10年先にセラピストが存続していると安易に安全基地に住み込むべきでない。


セレンディピティ!!


身体化された

2006年09月26日 06時32分42秒 | 過去ログ
一昨日は冬木学園60周年記念シンポジウムで養老先生と対談を行う。
養老先生の講演はリベットの意識と脳の問題、ルリヤの偉大なる記憶力者の物語などから始まって、少し聴衆者には高尚な話になると思ったが、即座に軌道修正を行い、日ごろ慣れ親しんでいる「同じ」「違い」の観点から話が進んだ。

この観点については、このブログでも過去に同じ視点で述べている。
それを読んでもらいたい。

いずれにしても、同じという意識に安心が得られるのは確かだ。
現代人のひずみはそこに出ており、同じでない意識に遭遇したときに「逆ギレ」が出現する。

これは、三つ子の魂百までといわれるが、まさにそうだと思う。
両親の役割が大きい。

その次は学童期かな、社会を知る第一歩なので。

幼児の「泣く」という行為は、乳児の「泣く」という行為と同じでない。
幼児には「意図的な関係」を構築しようとしている。
そのとき、徹底的に意識の違いをみせることで、怒ることが必要だ。

バリヤフリーの僕の意見には誤解がないように。
車椅子の物理的な問題にはもちろん推奨する。
そうでなければ過保護であり、車のカーナビと同じである。

「安全基地」「不安」の捉え方に養老先生と若干のズレを感じたが、議論が長くなりそうなので、やめる。
聴衆者のメインは養老先生なので。

いろいろ書き進めたいが、もう出張に出ないといけない。

先週の疲労が今頃来た。

身体化されてしまった。


YORO-MANIAX

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