森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

Termine

2006年07月18日 21時14分17秒 | 過去ログ
Yann TiersenのGuiltyを聴き,心をフィナーレに。
重ねてありがとう!

これで幕引きです。

1.科学的思考を怠らないこと。
2.evidenceとhypothesisを行ったりきたりすること
3.決め細やかな手続きが必要だということ

学会,認知の樹,レセプション,背景の音楽,絵画,バラの花,服装,テーブルの配置,導線,会場の空間,休憩のタイミング,講演と鼎談の意図的な関係・・・・などなど,それはきりがない。
繊細さ,そして,これでもか,これでもかという準備,そして組織におけるハブとしての有能な人材(シナプス),それが求められる。

絶えまない努力,そして
大雑把を極力排除する。

それが臨床に向けたメッセージである。


またご批評をください。

A bientôt !

表現するということ

2006年07月18日 15時17分02秒 | 過去ログ
打ち上げ後、仮眠をとり、翌日朝、準備委員長と反省会。
宮本会長、園田準備委員も加わり、今後を考える。

第7回日本認知運動療法学術集会は,学生なども入れ700名を超える盛況となりました。
参加された皆様、この場を借りてお礼いたします。

また、いろんなご意見・ご感想を本ブログにでもお聞かせください。
それを通じて、さまざまな認知(的意識)が巻き起こることでしょう。
僕も内なる脳にアクセスしていきます(自省)。

今回の学会を通じて、初めて「表現の自由(意思)」というものがわかったような気がした。
今までは理念がわかってたにすぎなかった。


「自己主張」でなく、他者に向けた意識。


「観察者」問題を「リハビリテーション脳科学」で明らかに(しようと)する。
臨床家が「ロマンティックリハビリテーション(教育)」を行えるように、学者の端くれの僕が、それをする。


Merci !
Rencontrons dans Nagoya l'année prochaine.

間主観性

2006年07月18日 13時17分02秒 | 過去ログ

学術集会終了後、現代思想編集の栗原一樹さんと話す。彼とは今後もいろいろ議論を深めていけそうな気がする。そういう感性をいただいた。

「東京」で仕事をしてみたいとHopeが去来する。「パリ」か「東京」か。みなさんの言葉が耳に突き刺す。

現代思想では、「脳科学の未来」に続いて「リハビリテーション」が特集される。問いを発したい、そして科学者・哲学者に「リハビリテーション」に内在する問題を考えていただきたい。

なんと、青土社の社長の奥様はOTだそうである。

「リハビリテーション」の特集を失敗させるわけにはいかない。

 

打ち上げ、さまざまな回想が脳裏によぎる。

福岡のメンバーは、どこか一点の管理センターによるものでなく、システムとして創発的行為に満ち溢れていた。

時間と空間がこれほど洗練された学会はなかったと思うし、誰一人、不平を述べなかった。「感動」とは、そこから発せられる。

この場を借りて本当に感謝したい。

 

ありがとう。

 

みんなの名前を書きたいが、また近い将来、もう一度組織立てるでしょう。

花束は本当はみんなにあげないといけない。

Saint exuperyの言葉がよぎる。ともに同じ方向を見ること。

その後、二次会には行かず、茂木健一郎さんがいる居酒屋に。

九州大学ユーザーサイエンス機構の方々やデザイナーたちと談話。 違和な空間と時間が流れ、違った感覚が生まれた。

九大には面白い場所があることを清水麻記さんから教えていただく。

 

 

ただの酔っ払いの集団であるが、どこか違う感覚が生起する。

疲れたのも事実、茂木さんとの酔っ払いツーショットを撮り、心身ともに休める意味で、学会スタッフや村田病院のメンバーたちがいる店に、さらに、梯子を重ねる。 いつもの自分に戻る。 この行ったり来たりする、これが脳を鍛えるのだろう。 安全基地のみに住んでもいけない。

 

 

ホテルに帰りついたのは3時。


混沌な世界に現れるもの

2006年07月18日 12時54分03秒 | 過去ログ
いずれにしても、学術集会は終わった。
焦燥感にかられることはなかった。
エンディング、siamoの映像により去来した私のこころ(涙)。
感動物語を言っているのではない。


混沌な世界に現れるもの・・・・・意識の去来


向かうべき道。
科学的思考を求め続ける、その一貫性。


そして、文化的思考を追い求めるその感受性。




The Brain is wider than the sky.

このあふれ出す言葉に、リハビリテーションの未来はある。
教育の未来がある。


リハビリテーションの未来へ。




医学書院から取材を受けた。
未来に動きたい意図を感じた。
編集にも閉塞感があるようだ。
腐ったイデオロギーを感じる。

とりわけ標準シリーズが?になっているらしい。
標準とは何か???


「リハビリテーション」-------標準機械的人間を作ることなのか。




   

どこに向かうかわからない世界

2006年07月18日 11時15分26秒 | 過去ログ
鼎談。
このメンバーが今まで何を志向し、著してきたかを漠然ながら気づいている人は、このような鼎談であることを想起できたと思う。

それぞれ違うのである。
同じものを読んでも(感覚として与えられても)、それを解釈する脳は違うのである。

「経験」「志向」

しかし、いずれにしても、私自身が向かうべき道ははっきりした。
このあいまいな無秩序なリハビリテーションに立ち向かうためにも。

心の科学に向かい、科学的吟味をリハビリテーションに向けて行う。
英語圏に打って出る。



いずれにせよ、そこに繰り広げられる世界観は感じてもらったと思う。
みんな「人生」をかけている。



「まとめ」ようなんて思わないほうがいい。
「まとめる」という行為は他者に向けられた意識?
私に来歴???



「リアル」を感じてもらいたい。


現在進行形とは何か?





Siamoに向けて

2006年07月18日 09時57分49秒 | 過去ログ
二次会でのライブを終え、深夜の2時にホテルに。
ライブだけでも疲労いっぱいになるが、学会運営、レセプションなどなど、も絡み合い、極限だが、心身張り詰め、いつもな感じでない。
食事もほとんど入れていないが、それも感じない。

人間のヒントが隠されている。

二日目、準備などのために、会場入り。
加藤先生と談義。

その講演を聴く。
さすがに、biologyもやっていることで、科学と現象学を実に明快にご講演していただいた。
遺伝子の三重らせんが環境の相互作用によって変化することは何を意味しているのでしょうか。
環境とは「自己」「他者」の何を作り出しているのでしょうか?

これからの展開が面白そうだ。
「作業療法」のよくわからない「基準」に「風穴」を。

簡単な科学にいかないことだ。
「産学連携」などもその世界かも知れない。
科学とは何か?

ともあれ,僕は加藤先生という人物に出会えたことが,本学会を開催したことに,重要な意味を持った。
まさに,僕が感じ,思い,明らかにしていく方向性を導いてくれた。
この行ったりきたりすること,これが「科学」の第一歩だと思う。
患者に接近するということはそういうことだ。

もう少し若ければ,加藤先生の門をたたくだろう。


茂木先生、到着。
そのタイプを打つスピードに度肝を抜かれる。
彼はおそらく1時間単位で仕事をしているんだと思う。
私の1日が彼の1時間。

鮮烈な赤の携帯に目を引くが、彼も私のCOGUの時計に目を光らせる。
見ているんだな。
これも「意識」の問題を解くヒントになる。

「他者」に向けたメッセージ。

講演を聴く。
著作をすべて読んでいることから理解はできたが、彼もメタ認知を聞かせ、少し学問的な科学的な視点で論破してきた。
次の鼎談に向けた意識的、意図的なものだろう。

「偶有性」「不確実性」「自己言及」、それらすべては、仮説検証の脳システムのなかの、最近接領域であり、それを実行するための「安全基地」すなわち、ある「志向性」「方向性」「羅針盤」が必要だ。
それが「セラピスト」なのだと思う。

「意味記憶」それは、何によって改変されうるのか?
本質の問題はそこにあるように感じた。

シンタックスでなく、セマンティック、プラグラティックに、そして、その先が今の科学では闇だ。
シンタックスに患者の行為は生きていない。


いずれにせよ、興奮性ニューロンだけに目をやってはいけない。
活性した、した、した、のfMRIから得られるものは何かを吟味すべきである。

それを感じ取れた講演だった。
さすがにプレゼンが上手い。
見事に最近接領域にあわせてきた。


鼎談へ。

続く。

認知の樹

2006年07月18日 09時44分18秒 | 過去ログ
認知の樹とはなんなんでしょう。
それは生命なのでしょうか、人生なのでしょうか。

認知の樹を表現することは、他者に向けた意識である。
そして、そのプロセスで起こる、あるいは結果を比較する、といったプロセスで内的に向かう自己言及的意識も生まれる。

「感覚」で生きる人。
「概念」で生きる人。

「学会」とは何なんでしょうか? 
「最初」に向かった学会で生じた「記憶」とは何なんでしょうか?
「目的」など、「意義」など勝手な便利な言葉で並べますが、その言葉は何なんでしょう?

「枠組み」とは「自分自身」が「経験」した、ある「記憶」に基づいた、自らの「基準」なのであり、それが、今の「リハビリテーション」のパラダイム転換を邪魔している。

「創ること」、そのプロセスを体感できたとき、はじめて「患者」「学生」に向かう姿勢が変わるのだと思う。

「リンゴ」とは何なんでしょうか?
赤い「リンゴ」とは何なんでしょうか?
おいしい「リンゴ」とは何なんでしょうか?

「行動主義」だけでは解明できないものです。



「予測」とは何なんでしょう?
「見当」とは何なんでしょう?
「見当」つかないという事象は何なんでしょう?
そこで生まれるのは「期待」「不安」?

あなたに生まれる現象的「意識」は?
そして、認知的「意識」は?