禅セミナー Zen seminar 平成廿六甲午年神無月六日
10月は講演会が続きます。
4日は正眼短大学長 山川宋玄老師 と 南山大学長、ミカエル・カルマノ司祭の対談
でしたが、いきな計らいで、室内楽が始まった。バッハ「G線上のアリア」など耳に気持ち良く、大迫(バイオリン)さんと久野(ピアノ)さんの演奏であった。
「今日をどう生きるか!!」
始める前に山川老師は座禅を致しましょうと今腰かけている椅子で姿勢を正しく直し、呼吸を1~10まで数をかぞえ、吐く息に注意して整えましょうとチーンと鳴らされた。続いて撥が鳴らされ始まった。
老師は今座禅をしたのであるが、自他一体として先般御嶽山で亡くなられた方の追悼にもなったとおっしゃった。正眼寺では毎年御嶽山の3合目にあるという滝で「滝行」を2泊3日行ってみえるという。
「どう生きるか」というテーマに老師は「碧巌録第27則」雲門うんもん体露たいろ金風きんぷう を提唱された。
僧、雲門に問う、樹凋み(きしぼみ)葉落つる時如何。
雲門曰く、体露金風。
これだけではさっぱり分からない。山川老師は例えを出された。
梶浦逸外老師(83歳)にロスチャイルド家の三男が参禅して、茶を戴いてこの公案を聞いたという。世界の大富豪当時80歳である。答えて曰く、「そんなものは座禅せにゃわからん」
そして座禅を一緒に30分ほどされ、老師は茶を差し上げて問うた。がしかし、良いお顔で「わかりません」と。
今から紅葉が始まっている。人生の晩年はどうですか?と聞かれて、花ざかりの最高の地位をなした人は、寿命はどうにもならない。
山川老師は「死して花盛り」「死後も生きる、肉体より永遠、大きな生の世界に帰っていく。」人生は死が終わりではない。仏教では涅槃に入るという。
覚悟が大切で、精一杯生きよう。明日のことは分からない。
参考:山田無文老師は体露金風を「秋は五行の上で金であるから、金風は秋風である。日本晴れの碧空の下に、秋風颯々として吹くすがすがしさ、そして見渡す限りの広原には刈り入れを待つばかりの稲穂が黄金の波をうっているような明るさ、彩色あでやかに金泥に秋草を描く襖のような荘厳さ、誠に体露金風の一句は、汲めども尽きぬ詩趣をただよわしているではないか。」と評しています。碧巌物語より。
南山大の学生の多くは南山大がカトリック大学だということを知らずに入ってくるという。カルマノ司祭は、ヨハネによる福音書12章24節『イエス様は言われました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 それを話した時、イエス様のこの世での最後の夜のことでした。次の日、ご自分が殺されることをイエス様は知っておられました。イエス様は、一粒の麦の道を選ばれました。私たちを愛するゆえに、一粒の麦のように命をお捨てになりました。すべての人のために死んでくださったのです。』
一節を取り上げ、「必ず死で終わる人生は永遠の命の準備だ。自分がいつか必ず死ぬことを忘れてはなりません。今の人生を最終目的地(天国)から考えること」とおっしゃった。
参考:Truly, truly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the earth and dies,
it remains alone; but if it dies, it bears much fruit.
今後の仏教界について、山川老師は「何が正しいかどうか、時代によって変わってくる。
今のお寺は30年後1/10になる。願うのでなく、祈ろう。仏壇からお経が、聞こえるようになろう。
「前世」「来世」にどうだという祈祷師ついて、ある話があります。
ある日、山岡鉄舟は祈祷をしてもらった。 しかし、祈祷師がやっても能力発揮できなかったそうだ。問題は聞く気があるかどうかである。今生きていることに集中が大切ではないか。
1979~35年続いている東西霊性交流のひとコマでした。
お読み下され、感謝致します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます