隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

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岩倉使節団 Iwakura goodwill mission(2)

2007-06-21 06:06:40 | Weblog
岩倉使節団 (2)       平成丁亥年水無月二十一日

大貿易国、工業国の島国イギリスでの驚きは、貧民窟やアヘン窟であったという。最盛期ロンドンのイーストエンドは貧富の差が激しく、「富むものは日に富み、貧するものは僅かに食べるだけの生活」をしていた。当時ロンドンにいたカール・マルクスが指摘する資本主義の矛盾そのままの社会だったのであろう。しかし、使節団は冷静であった。久米邦武は「欧州今日の富庶(ふしょ)をみるは、1800年以降のことにて、著しくこの景象を生ぜしは、僅かに40年にすぎざるなり」と、総括した。産業革命は1830年代である。英国の富強の源を知り、そのからくりがわかった今、それを着実に学び摂取していけば、遠からず追いつけるのではないかとの感触を伝えているという。「いいところだけとれるか?」「わるいところも一緒にはいってくるか?」複雑であったろう。 岩倉は鉄道に関心があり、フランスでも監獄を調べている。ウィーン万国博覧会を見、ついで訪れたプロシアで、ドイツ帝国を形成した“鉄血宰相”ビスマルクから、その体験を聞いたことは強烈だったという。米英仏の高度な文明と日本の現実との隔絶感のなかで、小国プロシアがいかに大国へとのしあがっていったかを、ビスマルクの口からじかに聞いたからである。「小国は外交の踏むべき道と国際法を守って、その枠をこえることはないのに、大国はみずからが不利となるや、白を黒といいくるめて力でおしきってしまう」と、ビスマルクは言っている。「鉄と血あるのみ」と議会で叫んだビスマルクのなまなましい体験から、弱肉強食の国際政治の実態は使節団にぐっとこたえるものがあったという。小国が大国に対抗するには、自らが大国となって軍事力を持つ以外にない。他国デンマーク、ベルギー、スイスに見た小国の自主独立のあり方より、プロシアの道を東アジアのなかで選ぼうとしていたことがわかる。
泉三郎氏は「岩倉使節団という冒険」で、旅の土産は、第1に日本に西洋の学問とくに法経学や科学技術というものの種をもってきて植えたこと。加えるに、憲法の制定、国会の開設、貴族・衆議院が出来たこと。 特に1番は「憲法の制定」である。帰国後、木戸はプロシア憲法を手本とし、大久保は英国の制度を下敷きにしているが、いずれも共和制でなく、君主制でもない「君民共治」を意図したものの人民会議は、日時要するから当面は天皇に無上の権を与えてデスポテック(専制)でいく外ないとしている。
木戸が「日本だけの」といい、大久保が「日本独立の」といって日本人のアイデンティティをつなぎとめようとした心事が読みとれるとしている。
その2人の死後、明治15年伊藤博文は憲法制度取調べのため、岩倉具視の息子具定をつれて、ドイツ、オーストラリア、イギリス、ロシアを訪れ明治憲法の骨格を作り上げた。具定の妻久子はこの間毎日日誌をつけ、写しをとって、滞欧中の夫に送り続けたという。家族愛に支えられていた一面である。
西洋にはキリスト教があって人心の機軸をなしているが、日本にはそれに相当するものがない。仏教は衰頽(すいたい)に傾き、神道も宗教として力を持たない。だから伊藤は「我が国に在っては機軸とすべきは独り皇室あるのみ」とし、天皇を憲法の核心に置いたのである。伊藤は本来共和的な思想の持ち主だが、明治維新における錦の御旗の威力、勅諭の効用を十二分に承知していただけに、天皇の存在の重さを充分に理解していただろう。そのため、明治憲法は表向き「天皇神聖」を揚げ、天皇に絶対権力を付与するようでありながら、実はさまざまな枠をはめて、いわば機関としての天皇を規定している。その意味では曖昧であり、運用次第でどうにでもなるような要素を内蔵していたわけである。
この岩倉使節団の旅は具忠氏によると、具視の場合相手の伝統と自己の伝統の特殊性の隔たりは十分に認識した上で、近代化のために米欧的な枠組みのなかで、日本を再編成しなければならないとしながらも、その際日本の伝統の持つ特殊性をも排除しない方向を模索しつつ欧化対策を講じようとする態度が見られ、単に西洋人の目を意識してひたすら同調しようという「単純模倣型」の姿勢とは一線を画すように思われるとしている。
帰路において、地中海から紅海、インド洋、東シナ海のアジア沿岸各地で、これまで回覧してきた文明国の民が「暴侮の挙動」をとっていることを目のあたりにした。使節団はここ植民地へやってきたヨーロッパ人は「棄テラレタル民」だからとした。
しかし、この使節団と同行して、フランスへ留学した中江兆民がいた。「文明国のアジアへの野蛮は、それが文明からはみ出したものでなく、文明と表裏一体のものだ」と考え、「民約論」を訳し、平和と民権を基礎にし、非侵略に徹するいわゆる小国主義をとなえた。 けれど結局のところ、岩倉使節団はヨーロッパ文明のなかにみずからをのめりこませ、アジアにおける小国から大国への道を選んだ。アジアへの痛覚を欠落させたことが、その後の日本の命運にいかにかかわったか。
泉三郎氏は19世紀後半の帝国主義時代、侵略が当り前のような時代にあって、日本がいかに独立を確保し、列強に対等に伍していくかの課題に真っ向から挑んだ大いなる旅であったとしている。
かくして、日本は「国のかたち」を整え、欧米が産業革命以来40年で成し遂げた発展に「追いつこう」とスタートしたのである。
岩倉具忠氏の本には、具視の家族思いや、家族がいかに留守を守ったかが書かれておりました。「岩倉邸行幸」という絵画に明治天皇が病床の具視を見舞うのに土足で座敷へ上がられた様子が描かれていた。やはりという思いがしました。
具視の手紙が欧米から当時(明6)日本へ届けられていたとは驚きでした。
参考文献; 泉三郎 「岩倉使節団という冒険」
        田中彰 岩倉使節団「米欧回覧実記」
          〃   「近代天皇制への道程」
        岩倉具忠 「岩倉具視―国家と家族―」

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