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「ラフマニノフのピアノ協奏曲 ホントにいいよ」 1968年の夏  Y君の想い出・・・

彼は目を輝かせて言った。「ラフマニノフのピアノ協奏曲 ホントにいいよ」 1968年の夏  
 
Y君とボクは中学で同じクラスで部活も同じ水泳部だった。

Y君は音楽が得意でフルートの腕前は相当なものだった。たしかヤマハの音楽教室に長く通っており、すでに講師ができる程の腕前だったと記憶している。

時はエレキブーム。おませなボクは幼稚園前から童謡替わりにアメリカの軽音楽を聴いて育っていたし、へたくそながらも小学校でビーチボーイズとベンチャーズに憧れてすでにバンドを経験していたので音楽は好きだったので Yくんとは厳しい水泳部の練習の合間や帰り道によく音楽の話をした。

そのうち、Y君はクラスの子たちが結成したバンドに加入し、後にボクもすでにエレキギターをもっていたことからそのバンドに入ることになった。
メンバーのひとりのお父さんが渋谷の確かダンスホールのような施設を経営していたので、そのホールの開業前にうっすら暗い中で練習をしたり、他のメンバーが神田川のほとりに家があったので、神田川に面した川の上の物干しで練習をした記憶がある。

Y君は中学2年ですでに作詞・作曲ができるほど音楽の才能に優れており、確かNHKの「あなたのメロディー」という 視聴者からオリジナル曲を公募し、優れたものをテレビでプロの歌手が歌唱するというコンテストの番組で披露されたこともあるほどだった。その才能を活かしバンドでも一般的なロックンロールやグループサウンズの曲に加えて、Y君のオリジナル曲も演奏していた。

当時グループサウンズ人気が絶頂になり、バンドメンバーもブルーコメッツが好きだったのでちょうど井上忠夫のように、フルートとボーカルをY君が担当して演奏していた。バンドとは言え、中学生のお子様バンドだから技量の程は知れていた。
ドラムの子はバンドに入りたいからと、ドラムをはじめたばかりなのに、その週末には母親にねだってPearl社のまあまあいいドラムセットをさっそく買ってしまった。これには度肝を抜かされた。ちなみにこのドラムの少年は後に有名なギタリストとなって多くのミュージシャンのサポートなどで活躍している。

水泳の合宿の時、夏の夜のプールサイドで 二人で良く、ブルーコメッツの曲をハモって楽しんだ光景は今でも鮮やかに蘇る。

   “恋の終わりはメランコリー あの夏の日の幸せは・・・”  
              ・・・・ハモって気持ちよくなっていたっけ。

その後、後に著名なジャズギタリストになる上手なギター少年が転校してきてそのバンドからボクはお払い箱になったが、Y君もボクに合わせてくれてだったかどうか?いずれにしてもそのバンドをやめて、それ以降も先輩が結成した急作りなヘタくそバンドなどでY君とは一緒に音楽を楽しんだ。

忘れもしないのは、千葉在住の先輩のお父さんのお知り合いの超有名な富豪のお医者様の豪邸でのプール開きの演奏を頼まれたときのことだ。
先輩のお父さんもリッチな方だったのでバンドの名前もお父さんが自分で付けて、揃いのバミューダーパンツとTシャッツのユニフォームまで揃えてくれた。
ノーギャラであったが、豪華なプールサイドでのケータリングのお食事はすばらしかった。そして何より素晴らしかったのが、露出度の高い水着姿の美女が沢山いたことだった。
思春期だったから、これにはヘンな意味で興奮して演奏はメロメロだったのを覚えている。バミューダパンツの前がギターで隠れていて良かったと後で思った。

それともう一つ貴重な思い出がある。その日は何処へ行ったかは思い出せないのだが学校の遠足だった。1968年10月21日、国際反戦デー。遠足の解散は新宿駅だった。この日、全国で反戦集会やデモが繰り広げられ、過激派が新宿駅構内を占拠し、放火し745人の逮捕者がでた。騒乱罪という罪名が一躍世に広まった事件だ。このおかげで山手線が全線ストップ、帰宅の手段を奪われた。そしてなんとボクはY君と一緒にバンドやろうか?と話をしていた仲間2人の計4名で、当時ボクの家があった台東区の鶯谷まで延々、数時間かけて山手線の線路を歩いたのである。夕陽を背に線路を歩きながらバンドでやろうとしていた曲を唱ったり、バカな話をしたりした。新宿から線路を歩き、池袋・・・巣鴨・・・日暮里・・・と延々どのくらいの時間だったろうか?相当の時間を歩いた。二度とできない貴重な体験だった。後に映画「スタンド・バイ・ミー」を見てすぐにその時のことを思いだしたし、毎年今でも10月21日が来ると思い出す。そして思うのは、良し悪しは別として、ベトナム戦争というよその国で起きている不条理なことにあれほど憤慨した当時のニッポンの若者の気質は、21世紀になった今日何処へ行ってしまったのだろうか? あの当時の日本だったら、今日のように容易に政府の原発事故後の安直な再稼働の方針を許しただろうか? この年、米軍の原子力空母が佐世保に寄港するだけで大変なデモや衝突が起きたのである。ほぼ半世紀を経て、日本は相当な平和ボケ国民になったと痛感する。


(↑1968年10月21日の国際反戦デー新宿争騒乱)

Y君はもともとがクラシック音楽で技量を磨いてきたので、ボクのような世俗的な音楽マニアにつきあうのはホントはいやだったのかもしれないが、とにかくよく合わせてくれたことを後になって感謝した。この年、ピンキーとキラーズが大ブレイクし、立教大学構内にあるタッカーホールという公会堂でコンサートを開いた。ボクがピンキーのファンだったので、ホントはつまらいと思っていたかも知れないがY君はつきあってくれた。実はこのコンサート、第一部で森山良子が出演した。この時の森山良子はバックなしのアコースティックギター1本の弾き語りだったが、この時のマーティンの000-18(多分)のきらびやかな音質に度肝を抜かれた記憶がある。ピンキーとキラーズの演奏は楽器はいい音を出していたが、ドラムのパンチョ某氏がやたら走るので、聞いていて気が気でなかった記憶がある。

Y君とは時々クラシックの話もしたが、ボクがモーツアルトの喜遊曲を気に入ったとかベートーベンの第五交響曲の第四楽章の最初の盛り上がりはたまんないね!などといっていると、Yくんは冒頭のように、「ラフマニノフのピアノ協奏曲 ホントにいいよ」と静かに強く言ったことがあった。実はその後で実際に聞いてみたが、寂しくて切なくてイヤな曲だと思った。それはY君には言わなかった。そしてボクがラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の良さをわかったのはずっと後の大人になってからだった。文学にも感心が高く、読書も好んだ。フランソワーズサガンの「悲しみよ、こんにちは」など大人びたものを好んでいた。Y君の脳みそはあきらかに14~15才の少年のそれを卓越していた。

思春期のY君とボクは恋愛のことも生活の中では重要な位置を占めた。
中学2年の東京都学年別水泳大会で ボクは他校の同学年のある女性選手に一目惚れをした。M中学のT.Aさんというその子の清楚な顔立ちとシャープな目尻、ストライプの水着姿は約半世紀を経た今でも鮮やかに目に浮かぶ。
たしか学年別大会は東京都大会の後だからもうこれを逃すと来年の夏まで会えない。そうは思ってみてもT.Aさんはベスト3に入る程の選手だったし、そんな場所でまさか声をかけるわけもいかないので、切ない想いを胸に「また来年逢えるかなあ・・・」などと勝手な思い込みにふける自分がとても惨めだった。Y君はそんな話も良く聞いてくれて元気づけてくれた。翌年、一年越しでM中学のT.Aさんを大会で見ることができたが、水泳選手としてトレーニングを重ねた彼女は肩幅が広がり、胸板が厚くなってチョット驚いたが、個性的な美しい顔は変わっていなかったのでちょっとホッとした。いずれにしてもココでこの淡い片想いは幕を閉じた。

一方、Y君は1年先輩の妹さんのEちゃんに恋をした。彼女は僕たちより年下だったがスラッとした美人系の子だったように記憶している。どうしてこの恋を彼女に伝えたものか?一緒に悩んでアタックする作戦をいろいろ考えたような記憶がある。才能溢れるY君はEちゃんに捧げる曲を書いた。Y君は自分でピアノの弾き語りで歌いテープに吹き込んだ。これを彼女に渡すことは結局なかったのだろう。実はそのテープは、その時から今日まで私が大切に保管してある。(アナログのオープンリールだからもはや聞くスベもない)


(↑Y君の作った曲のテープ)

もちろんY君とは部活の水泳も共に頑張った。とにかく今日のように科学的な練習法などは確立されていない時代で、ひたすら根性だけの時代だったから、よく練習後はコーチへの不満を言い合っったりして慰め合った。
Y君は、ホントは自由形も早かったが、バタフライをやらされた。バタフライは一番、体力を要するきつい種目だが、彼はよく耐えて練習した。部活で一番忘れられないのは、3年生の最後の試合の最終種目だった
200mフリーリレーだ。Y君が第一泳者、1年生のGくんが第二泳者で、ボクは第三泳者だったか?、そして全国大会に出れるレベルだったエースのI君がアンカー。当時全ての種目で圧倒的な強さを誇った日大豊山中学が圧勝するのは間違いないと予想されていたが Y君が頑張って食らいつき、それをGくんがつないで ボクも頑張って僅差でアンカーのI君につなぎ、I君はすごいスピードで追い上げ、ゴールしたときはほとんど同着だった。記録は大会タイ記録!ところが無情にもタイム差は0.1秒で二位だった。I君のスピードからしてあと5m、いや3mプールが長かったら優勝だったかもしれない。最後の最後でいい思いができたこのとき、3年間、辞めないで続けてよかったと思った。 Y君とも幾度となく、「いっしょにやめよーかあ?水泳部・・・」なんて会話も幾度となく交わされたと思うが、共に愚痴り合いながらも励まし合って最後までやれたのは良かったと今でも思う。最後には3年生もわずか4人だったが、責任感の強いまじめな主将のH君と、全国大会レベルのI君、遠くから通っていた温和なB君と、Y君とボクとのなかなか個性的なメンツだった。思い出深い仲間だ。


(↑最後のリレーの賞状。リレーなのに1枚しかないので部長先生がコピーしてくれた)

こうしてYくんとはスポーツと音楽と恋愛を通して ホントに無二の親友として中学生活を送った。 ところが 水泳部の部活が終わり、ボクは少々不良の道に足を踏み入れた・・・
流行の音楽も軽いタッチのメロディアスなものから、当時の言葉を運用すれば、サイケデリックミュージックやアートロックなど前衛的なやや難解なものに変わっていった。そういう学校生活の変化や音楽の流行の変化に合わせるようにY君とボクは疎遠になった。その後、高校に行っても勉学にいそしむY君と接点はほとんどなくなっていた。ところが確か高校の2年だか3年の時に、授業で選択科目というのがあり、英文学を取ったら、なんとその科目は人気がなく、ボクとY君とたった2人だった。もちろんY君はまじめに勉強。ボクはお眠りタイムだった。もうY君とボクの接点はなくなっていた。生徒会本部では一緒に文化祭や体育祭などの準備をしたのが、Y君との最後の接点だった。ボクらの多くがエスカレーターでそのまま上の大学に進学したのだが、Y君は受験をし、私立のハイレベルな大学に行った・・・・風のウワサで彼はその後弁護士になっているとは聞いていたが、音信は途絶えたままで、心の隅でずっと申し訳ないなと後悔してきた。

そして出逢いから47年の時を経て ITの発達のおかげで facebookでお友達を介して 先日再び音信を取れることになった。ありがたいことである。

思春期の私にとってY君の影響は大きく、いろいろな面で勉強させて貰ったことを一度お礼したいと思っていたので、今度逢えることがあれば ありがとうございました と伝えたい。
もし再会できたなら 40年ぶりだから お互い「浦島太郎」だろうな・・・と思うがとても楽しみである。

昔バンドでやったY君の作った曲で、題名は「美しき別れ」。うる覚えのこの曲 45年ぶりくらいに自分で宅録してみた。たしかこういう感じだったと思う。Y君は譜面ではCで作成されていたが、バンドでボーカルのキーの都合でGに転調して演奏したことも思いだした。 なにぶん還暦目前で脳みそも退化しているので多少メロディは本物と違っているかも知れないが、Y君に聞いて貰って修正して貰えるとうれしい。ちなみに使用したエレキギターはY君と一緒にバンドをやっていたときの1966年製のヤマハ製のものだ。多少ピッチは悪いがまだまだ実用に耐えるものだ。この当時の国産エレキギターの品質ではさすがに群を抜いていただけある。


(↑当時のギター)

粗末な演奏で恐縮だが Y君に詫びの意味合いを込め、贈ります。

美しき別れ written by H.Y - 1968

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