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東京スタジアムの想い出

昔々 荒川区南千住に東京スタジアムという野球場があった。お化け煙突や工場が多い下町にありながら 打ちっぱなしのコンクリートが斬新なアメリカ風のカッコいい球場だった。

私が子供の頃は、パリーグの東京オリオンズが本拠地として使用していた。 

巨人や東映など在京球団が複数で後楽園球場を使うので同球場が日程的に過密になっており、前身の大毎オリオンズのオーナーで、映画会社・大映の社長でもあった永田雅一が、後楽園に対抗して私財を投じて建設した。

東京五輪の直後だろうか・・・河川敷でよく荒川区の少年野球の試合や練習をしていた。

小学校6年の時の荒川区少年野球大会では決勝進出までいった。決勝でリードして迎えた最終回 2塁かショートを守っていた私のエラーで負けた。

この試合に勝てば あこがれの後楽園球場での東京都大会だった。みんなに迷惑をかけたショックで団体競技がいやになり、中学校では野球部に入らず個人競技を選び水泳部に入った。

河川敷での練習や試合が終わってから、みんなで泥のついたユニフォームを着たまま、しばしば東京球場に寄って、一塁側ベンチ上でおおきな球団旗を振って東京オリオンズの応援をした。

左中間・右中間が狭い本塁打の出やすい球場でピッチャー泣かせだった。しかし、打撃の名人・山内とトレードで阪神から移籍した針穴を通すコントロールの名投手だった小山は予想を覆し移籍の年、30勝をあげた。

今と違ってパリーグは人気がなく 後楽園と違って日曜のデーゲームでもガラガラだった。

東京球場の最前列で応援をしていると 榎本喜八選手、小山投手、小野投手、東映の張本、南海の野村、杉浦、広瀬、スタンカ等々・・・

今思えば歴史的な選手も数多く見ることができた。

大沢親分も晩年だったが まだ現役だった。

試合前の練習時に捕手の醍醐選手やソロムコ選手、八田選手などは「おーお前らまた来たか!」とよく声をかけてくれた。

もう私も子供でなくなった1970年、大映の倒産でチームも「ロッテオリオンズ」と変わった直後 山崎・有藤・榎本・アルトマンの打撃陣、小山・木樽・成田らの投手陣の活躍でリーグ優勝を果たしたのが唯一の優勝だった。

そんな東京スタジアム 冬には客席をスケートリンクにしたりしてオフも有効活用を図っていたが 後に経営が悪化し1972年で使用を終了。1977年には解体された。

現在、跡地の多くの部分は荒川区のスポーツ施設になっているらしい。

今はもうないが 少年時代の楽しい思い出の場所として記憶に残っている。

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