Men's wear      plat du jour

今日の気分と予定に、何を合わせますか。 時間があれば何か聴きましょう。

Vanity Fair

2018-02-25 |  その他
前回と同じ「はじまりはジャズ・エイジ」という本に、1920年代にピークを迎えた雑誌ヴァニティ・フェアについても記事がありました。



「ヴァニティ・フェア」という雑誌があった。現物を見たわけではないのだが、すこぶる洗練された雑誌である。じつは1960年に、この「ヴァニティ・フェア」のエッセー、短編、写真を集めたアンソロジーが出たので、私も雑誌の性格を知ることができた。
発行部数が最も伸びたときでも、9万9千部だったというから、読者はごく限られていたことになるだろう。アメリカ人の多くは「ヴァニティ・フェア」によって、ピカソやマティス、ゴーギャンをはじめて知った。
もともと、「ヴァニティ・フェア」は「ドレス・アンド・ヴァニティ・フェア」として「陽気な90年代」といわれる1892年に創刊された。ファッションのほかに、スポーツ、音楽、演劇の雑誌だったのだが、1913年に「ヴォーグ」の発行人コンデ・ナストが買いとり、翌14年にフランク・クラウニンシールドという名編集者を得て、面目を一新した。一時ロンドン生活を送ったこともあるクラウニンシールドは才人であり、絵や小説の目ききであり、顔がひろかった。新しい才能の発見者でもあった。
彼の好きなものは「絵であり、稀覯本であり、しゃれたドレスであり、ダンスであり、庭園、別荘であり、美女」だったのである。
クラウニンシールドはエドワード王朝の優雅な趣味に生きる最後の紳士といわれた。粋人である。「ヴァニティ・フェア」は彼の趣味の反映であって、「シック・マンスリー」とも呼ばれた。
美術、演劇、文学のページがハイブラウだった。クラウニンシールドの個性がにじみでている雑誌だったのである。「ヴァニティ・フェア」ほど編集者の個性、趣味が生かされた雑誌はほかになかったといわれる。
けれども、「ヴァニティ・フェア」が黒字を記録したのは1913年から、「ヴォーグ」に吸収される25年間で、わずか1年しかなかったという。広告収入が少なかったのだ。1920年代には50万ドルを記録したこともあったが、それも長くは続かず、1935年には29万ドルに落ちている。アメリカの雑誌を支えているのは、読者だけではない。広告主も雑誌を支えている。「ライフ」や「ルック」が廃刊に追いこまれた直接の原因は、広告主が見離したことである。そして、広告主が雑誌を見離すのは、読者が熱心にその雑誌を読まなくなったからである。
1930年代のアメリカは大不況に見舞われたので、「ヴァニティ・フェア」のようなぜいたくな雑誌が1937年までよく続いたものだと思う。もっとも、クラウニンシールドは1936年に退いてしまった。雑誌も時代に適応できなければ、生きてはいけないし、時代はつねに変わりつつあり、その結果、アメリカでは新しい雑誌がつぎつぎ生まれてくる。



エスクァイアの何分の一しか売れてないですし、そこから現存するコンディションの良いものを探そうとするとどうりで高いはずです。しかし1930年代のものを見ると、エスクァイアと同じくらい広告があるように見えます。ちょっと違うかなと思うのは、ペットの広告くらいでしょうか。
仕立屋は「バーナード・ウェザリル」、他「フィンチレイ」「F・R・トリプラー」などエスクァイアでもなじみの店が広告を出しています。





今はどうか分かりませんが、ただ「vanity fair」で検索するとおそらく古典文学の方が一位で、次になぜか女性の下着がゴソゴソ出てきてしまう可能性があります。誤解されぬよう、場所とタイミングにご注意ください。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« またまたEsquire  | TOP | 今年の冬 »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | その他