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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

『ダリフラ』あるいは『エヴァ』のその先

2018-07-08 11:37:32 | 趣味人的レビュー

「比翼の鳥」の逸話に始まり、近未来を舞台にフランクスというロボットに乗って叫竜(きょりゅう)と呼ばれる謎の敵と戦う子どもたちの姿を描いたアニメ『ダーリン・イン・ザ・フランキス(Darling in the Franxx)』全24話が完結した(ちなみに彼らの乗るロボットが「フランクス」なのにタイトルが「フランキス」となっているのは、私の打ち間違いではない。英語表記の"Franxx"が意味するものとともに、本編を見ると分かる)。

この『ダリフラ』については、放送が始まったかなり早い段階から『エヴァ』に似ていると感じてきたし、ネットでも「『エヴァ』の真似」とか「『エヴァ』のパロディ?」などといった発言が挙がっていた。YouTubeに(違法)アップロードされた『ダリフラ』の動画に対する外人のコメにも、そういうものがいくつも見られた。

『エヴァ』以降、特にロボットアニメは何らかの形で『エヴァ』の影響を受けていて、だから『エヴァ』に似た要素を持っていることが少なくない(作品によっては『エヴァ』へのオマージュとして、あるシーンを『エヴァ』そっくりに作ったりもしている)。だが『ダリフラ』に関して言えば、「作ってたら、いつの間にか『エヴァ』に似てしまった~テヘ f(´m`)」みたいな話ではなく、制作陣は当初から『エヴァ』に寄せて作品を作っていたことは明らかだ。それは『ダリフラ』の制作に、『エヴァ』の新劇場版を作っているスタジオ・カラーが協力していたことも無関係ではないと思うが、それ以上にこの『ダリフラ』は、新しいフォーマットの中で新しい『エヴァ』を作ろうとしたものだったのではないかと思う。


知っている人には退屈な話になってしまうが、ここでこれまでの『エヴァ』の経緯をかいつまんで述べると──

元々はTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』として制作されたものだ。ところがこの『新世紀エヴァンゲリオン』、予定していた話数の中で物語を完結させることができず、ちりばめられた多くの伏線が未回収のまま、あの奇妙な最終回を迎えることとなった。それは明らかに制作陣のチョンボで、本来なら大ブーイングになるところだが、逆に完結されなかったことで未解決の謎を深読みする論考が次々に登場するなどして、結果として『新世紀エヴァンゲリオン』は伝説と化す。それを受けて、「本当はこういうふうに終わらせるつもりだった」というTVシリーズの続編が「劇場版」として制作、公開される。この「劇場版」はラストが非常に分かりにくく(庵野秀明監督のオタク批判とも取れる描写もあって)一部では不評だったが、これにより『エヴァ』は一応の完結を見た。
その後再び『エヴァ』のオリジナル・スタッフを中心にスタジオ・カラーという制作会社が立ち上げられ、『エヴァ』のリビルド(再構築)をうたう『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が制作されている。全4部作の構想で現在、第3部までが公開されているが、第4部については制作が始まったという話はあるものの詳細は不明。

で、その「新劇場版」だが、とにかく制作が遅れに遅れ、第3部に当たる「Q」では現実の時代が物語に描かれた時代を追い越してしまいつつあった(『エヴァ』の時代設定が2015年なのにに対して「Q」の公開は2012年)ため、いきなり時間が14年飛ぶ、という苦し紛れの手を使わざるを得なかった。『エヴァ』制作陣には「『エヴァ』は庵野のもの。だから庵野が動かなければ何も始まらない」という共通認識があるようで、制作が遅れたのには様々な理由があるのだろうが、最大の理由は「庵野秀明が『エヴァ』という枠内で物語を作れなくなった」ということなのだと私は思っている(実際、「Q」は映像の見事さに対して物語は痛々しいほどに空虚だった)。


話を『ダリフラ』に戻すと、そこには元々『エヴァ』とはこういう物語として構想されていたのではないか、と思える部分がたくさん出てくる。『ダリフラ』と『エヴァ』の設定を対照してみると、両者の間に非常に面白い関係性が見えてくる。煩雑になるのでここでそれを1つひとつ述べることはしないが、一例を挙げると『エヴァ』では少年、少女たちは主人公、碇シンジの「父親」である碇ゲンドウの命令下にあるが、『ダリフラ』では少年、少女たちが絶対忠誠を誓う「パパ」と呼ばれる存在がいる。そして『エヴァ』も『ダリフラ』も実は「失われた母親=母性」を巡る物語でもある(それを象徴するのが、それぞれ綾波レイとゼロツー)、といった具合だ。
だから『エヴァ』を構成している要素を一度解体し、(制作会社はA-1PicturesとTRIGGERだが、そのTRIGGERが制作した)『キズナイーバー』の要素をそこに組み込んで再構成したものが『ダリフラ』、というのが私の理解だ(岡田麿里は『ダリフラ』の物語制作には関わっていないようなので、もしかしたら『キズナイーバー』的な要素は「気づいたら入り込んでいた」というようなものなのかもしれないが)。

『ダリフラ』では、それまで秘されてきた物語世界の全体像が19話「人ならざるモノたち」で明かされ、そこから20話「新しい世界」と21話「大好きなあなたのために」で人類の最終決戦になだれ込んでいく。そして21話の最後には敵を撃退して大団円を迎えるのだが、物語はそこでは終わらない。更に「その先」がある。
私は、『エヴァ』は物語の舞台である2015年を現実の時間が追い越した時点で歴史的使命を終えた、と思っている。ただ『エヴァ』的なものが形を変え、語り手を変えながら描かれ続けることに何ら異存はない。そして『ダリフラ』は、同じように考える人たちが『エヴァ』の構成要素を使いながら、(庵野秀明の)『エヴァ』では語られることのなかった/語ることのできなかった、物語の「その先」まで語ろうとしたものだった、と思うのだ(それが何であるかは、自分の目で確認してほしい)。それは多分『エヴァ』からの自立、『エヴァ』との決別を表している。

ところで『ダリフラ』には「手(あるいは腕)のモチーフ」が使われている。アニメにしろドラマにしろ手/腕の演技には非常に重要な意味が含まれている、というのは周知の事実だが、それが『ダリフラ』には際立っている(ちなみに羽/翼は手/腕が変化したものである)。あくまで私の想像だが、それは最初からの意図的なものだったわけではなく、制作陣も途中でそれに気づいて、そこから意識的に使うようになったのではないだろうか。そう考えるのは、実際に見てもらうと分かるがOP1と2で手/腕の演出が明らかに異なっているからである。

ついでに言うと、OP2での手/腕の演出が、まるで『結城友奈は勇者である(ゆゆゆ)―勇者の章―』のクライマックスシーン(下の動画で3:30くらいから)に対する『ダリフラ』制作陣からの回答のようにも感じられるのは、うがちすぎる見方だろうか?(『ダリフラ』も『ゆゆゆ』も人類の存亡と命の再生を描いた物語で、偶然かもしれないが、例えばラストの重要なアイテムの1つにパンが使われている。)


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