深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

俳優の音

2016-04-25 16:26:05 | 趣味人的レビュー

このところ数学書を読む時間を意識的に増やしたら小説が読めなくなってしまった。読みたい小説はたくさんあるので頑張って読んでみたが、何とか読むことができたのは再読した『7人目の子』くらいまでで、その後はもはや頭の中が小説を読むモードじゃなくなってしまったようだ。

そんな折、新聞を整理していたら、少し前の朝日新聞のコラムで山崎努の『俳優のノート』が紹介されていて、それを見たら急に読みたくなった。幸い、草加市立図書館にあったので、早速借りてきて一気に読んでしまった。


この本は山崎努が『リア王』でリアを演じるに当たって格闘した記録である。冒頭の記述によると、『リア王』出演を決めたのが1995年10月、稽古が始まったのが1997年12月、そして初日が1998年の1月。出演を決めて「以来約二年、他の仕事をしている時も、いつもリアが頭の隅にあった」という。

そして、稽古に入る前のミーティングが始まった1997年7月14日から、舞台が千秋楽を終えた1998年2月3日まで、山崎努が書き続けた日記をまとめたのが、この『俳優のノート』である。ここには俳優が1個の役として生きるために、何を考え、何を迷い、何を発見したかが赤裸々に綴られている。それがどれだけ生々しいものであったかは、解説(書いているのは香川照之だ!)を読むと分かる。

あなたがもし俳優ならば、あなたは即刻この本を「教科書」と指定すべきである。そして神棚高く飾るべきである。さらに、その日の自分に有用なしかるべき箇所を読んでから、毎日仕事場なり舞台なりに向かうことを強くお勧めする。(中略)
今あなたが読み終えたばかりの本書がどういう状態かは問わないが、私は生まれて初めて普通の図書というものに夥しい数の線を書き入れてしまった。ここぞと思った文章に印をつけまくってしまった。恥ずかしいが仕方がない。俳優という仕事の奥義を徹底的に掘り下げた山崎努の文章の数々が、私をどうしようもなく揺さぶったのだから。



とはいえ私は俳優ではないし、(少なくとも今のところ)俳優になる予定もない。そんな人間でも、この本から得られるものはあるのか? もちろん大いにある。むしろ違う仕事をしている人の言葉だからこそ得られるものがある。例えば

俳優にとって技術の蓄積は貴重である。しかし、その技術が役を表現する上で障害になることもある。よく通る声、巧みなせりふ廻し、華麗な動きはたしかに心地よいが、さて役の人物はというと、何も見えてこない。舞台の上には、得々と演技を披露している俳優がいるだけ、ということがよくある。(中略)
俳優はこれまで身につけた(あるいは身についてしまった)技術に、絶えず疑いを持っていなければならない。そして、それをきれいさっぱり捨ててしまえる勇気を持たなければならない。

などは、非常に身につまされる人もいるのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。

また、何をどう手がかりにしてリアという人物像と『リア王』という物語の真の姿を探っていくか、という部分も、ある意味、ミステリを読んでいるようなワクワク感と共に、とても勉強になる。どうやら『リア王』というのは、私が知っている(と思い込んでいた)話とは全く違うもののようだ。山崎努がシェイクスピアのテクストから読み取った『リア王』は、女──特に母親──を巡る物語だった。
そしてまた

リアは捨てて行く男である。リアの旅は、所有しているものを捨てて行く旅である。
二年前にこの役を引き受け、戯曲を読んだ時、まず最初に突き刺さってきたのは、捨てる、ということだった。リアは財産を捨て、王冠を捨て、衣服を捨て、正気を捨て、血縁を捨て、世を捨て、身軽になってい行く。丸裸になる。そして生命を捨てる。
このリアの捨てて行く旅が突然目の前に現れ、息をのんだ。(中略)リアと一緒に捨てて行く旅を体験したいと思った。

という。この下りを読んだ時、自分の中に妙に響くものがあった。私もまた「捨てる」ということを考えている。例えば、バイオダイナミックなクラニオは習得したテクニックの多さを誇るメソッドではない。むしろ、得たものを一つひとつ捨てていって何も残らなくなった時、初めて完成する、そんなメソッドだ。クラニオに限らず、もう新しいテクニックやメソッドを追いかけたいとは思わない。むしろ、これからは身につけたものを捨てていくべき時期ではないかと。

ところで、実は私はシェイクスピア劇が好きではない。何度か舞台を見に行ったことがあるが、物語を鎌倉時代初期の日本に移し替えた『リチャード三世』以外は、面白いと思ったことがほとんどなかった。とにかく、やたらと台詞が多いのが見ていて苦痛で(同じ話を倉本聰が書いたら、間違いなく『……』となるところを、とにかくしゃべりまくる)、本気で「シェイクスピアも台詞をあと3割少なく書ける作家だったら、書いたものも傑作になっていただろうに」とよく思う。
ただ、この本を読むと、もしかしたらそれは力のない演じ手がやっていた舞台だからかもしれない、とも思う。山崎努は書いている。

ある感情から別の感情に飛躍することが日本の俳優の苦手とするところで、これが劇のダイナミズムを損なうもっと大きな原因である。ドラマチックということはダイナミックということであり、ダイナミックでなければドラマチックではない。ドラマではない。感情の沼に溺れ込んで、ぬくぬくべたべためそめそと、まるで羊水の中に留まっているような自己充足的感情お化け芝居は劇ではない(劇とは劇薬の劇なのだ)。


そいうわけで、今度『リア王』を読んでみようと思う。もちろん、1998年のこの公演のために作られた松岡和子訳で。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 携帯端末による電磁波の影響 6 | トップ | 『オカルト生理学』を読む 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

趣味人的レビュー」カテゴリの最新記事