深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

死の儀式

2008-10-14 14:01:23 | 趣味人的レビュー
現代社会には2つの大きなタブーが存在する。その2つのタブーとは、セックス(性)と死である。この性と死はあからさまに表に出すことは忌むべきこととされ、だから、そういうことに携わる人もまた、忌むべき存在と見なされる。映画『おくりびと』に描かれる納棺師──遺体を清め、棺に納める仕事──は、世間から見ると、まさにそんな「忌むべき存在」の1つである。

やっとチェロ奏者として採用してくれた楽団の突然の解散で、失意の中、亡き母の残した家のある山形に帰ることを決めた小林大悟(本木雅弘)と、その妻でウェブ・デザイナーの美香(広末涼子)。たまたま見た新聞の求人広告「年齢問わず、高給保証。実労働時間わずか。旅のお手伝い。NKエージェント!!」を見て、「旅行代理店だろうか?」と大悟が面接を受けに行った先が、実は納棺を請け負う会社で(ちなみに、NKは「納棺」の略らしい)、大悟は気が進まない中、その場で採用が決まり、納棺師として働くことになる。だが、妻には自分の仕事のことを話せず、「冠婚葬祭関係」とだけ伝える(←実際、その通りだし)。
社長の佐々木(山崎努)とともに、いくつもの現場を体験しながら、大悟は一人前の納棺師として成長していくが、同時に彼の仕事の内容が世間の噂になるようになり、妻は実家に帰ってしまい、友だちも離れていく。そんな中、彼らの身近な人の死に大悟が納棺を務めることになり…

前評判通り、とてもいい映画。私の中では今年の日本映画で『デトロイト・メタル・シティ』と1、2を争う(←って、どういう比較だ?)。

山崎努、そして本木雅弘が劇中で見せる、遺体を清め、納棺するまでの所作の美しさが、この映画の1つの見所となっている。居並ぶ遺族たちの眼前で、全ての動作をよどみなく流れるように、そして故人の尊厳を傷つけることなく執り行われる一連の作業は、1つの完成された舞台を観ているようだ。
それを観ながら、「ああ、あの時も確か、こんな感じだった」と思った。数年前、亡くなった父親を納棺してもらった時のことだ。2人の人が来て行われた、遺体の清め、化粧、納棺までの一連の作業を目の前で見て、本当に凄いと思った。ちょうどその時のことが思い出された。
納棺までの作業は、もちろん決まった手順で進められるのだが、同時に1回1回が全く異なる、まさにライブであることを、この映画は描いている。大悟の前の仕事が楽団のチェリストだったという設定は、だから非常に的を射ているのである。

さて、話を最初に戻すと、「性と死」は「生と死」に通じる。現代社会において、性と死がタブーであることと、生が実感しにくいこととは、実は大きな関係があるのかもしれない。かつては家族が行うものだった納棺が納棺師の手に委ねられるようになったように、我々の多くが「人の死」をレアな感覚で体験することがない。昔から死は忌むべきものと考えられてきたが、現代という時代は死を生きていく営みの中から完全に切り離してしまうことによって、忌むべきものを十分なほど遠ざけることができた反面、生からも遠ざかってしまったのだな、とこの映画を観てつくづく思う。
例えば、生徒の自殺などが起こると、その学校では判で押したように先生たちが「生徒たちには命の大切さを伝えたい」というコメントをする。しかし、そんなコメントを見るたびに「ほとんどの先生たちがレアな死を知らないのに、どうして生徒に命の大切さを伝えることができるのだろう?」と思ってしまう。もちろん、言葉の上で「命を大切にしよう」と言うことはいくらでもできるが、その言葉に果たして“力”を乗せることはできるのだろうか、と。

ほとんどの場合、治療家は医師と違って患者の生き死にに関わることはないが、それでも患者を健康に近づけるというのは、死から遠ざけるということでもある。しかし、いかにさまざまなテクニックを駆使して体を健康に近づたとしても、生の希薄さだけは、どうしようもない──。そんなことを思いつつ、『おくりびと』を観てきたのだった。

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3 コメント

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健康→不健康→病気→死 (ひろひろひろ)
2008-10-14 21:59:06

「健康」と「病気」という状態を全く別のものとして捉えるのでなく、いずれも健康→病気へと至る同じスペクトル上にあるものと捉えて、その延長線上に「死」もあるのだと考えると少しは死もリアルに考えられるようになるでしょうか?
それでもやっぱり生の希薄さはどうしようもないのかもしれませんが。
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生老病死 (ウル@俺の家)
2008-10-14 23:02:41
生まれ、老い、病み、死ぬという、自然かつ不変のサイクルの中で、「死」だけが隔離されている感がありますね。

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コメントありがとうございます。 (sokyudo)
2008-10-14 23:31:11
ひろひろひろさん、ウル@俺の家さん、コメントありがとうございます。

「死」の感覚というものがリアルさを失ったことの背景には、かつてあった大家族が崩壊し、核家族化したことも無関係ではないように思います。
(田舎に母が1人でいる私が偉そうに言えた話ではありませんが)老いた親を自分たちと切り離すことで、現代の家族は生老病死の「死」のみならず「老」も、いや「病」さえも、生活の外に置くことになり、その結果、どこともつながりを持たない「生」だけがただある、という不自然な状態になっているのかもしれません。
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