深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

シビュラの陽のもとに

2015-01-30 00:07:31 | 趣味人的レビュー

今からおよそ100年後の世界を舞台にしたアニメ・シリーズ『PSYCHO-PASS サイコパス』の劇場版を見に行ってきた。『PSYCHO-PASS』はこれまでテレビで第2シリーズまでが放映されていて、この劇場版はその続編に当たる。

では、その『劇場版PSYCHO-PASS』のOP、凛として時雨の「Who What Who What」(short ver.)を聴きながら続きをどうぞ。



2100年代、シビュラ(Sibyl) と呼ばれるシステム(注1)によって個人のさまざまな情報がリアルタイムに把握され、管理された日本。そこでは街の至るところに設置された街頭スキャナによって常にや行動状態、精神状態を監視され、その結果が数値化されて評価される。その数値の俗称がPSYCHO-PASSである。

そこでは相手がどんな犯罪を犯したかではなく、PSYCHO-PASSの中の犯罪係数の数値がいくつかで決められてしまう。だから実際には何もしていなくても、数値が高いというだけで「潜在犯」と見なされ、刑が執行される。つまり「潜在犯」はそれ自体が社会的脅威になるので、存在しているだけで罪だ、という理屈なのだ。

主人公、常森朱(つねもり あかね)は公安局刑事課に所属する監視官で、犯罪捜査と犯罪者への刑の執行を任務としている。といっても量刑の判断(つまり犯罪係数の計測)と刑の執行は、シビュラへとつながる携帯型心理診断・鎮圧執行システム、ドミネーターによって行われるので、刑事はただ相手に向けてドミネーターの引き金を引くだけだ。そんなシステムが正義を支配する世界の中で、常森は「正義の在り処」を模索し続ける。


実は『PSYCHO-PASS』は、物語の少し前にあった大きな出来事(第3次世界大戦か?)のために世界秩序が崩壊し、今なお世界のほとんどの地域が混乱した状況にある中で、日本はシビュラ・システムによっていち早く奇跡の復興を遂げた、という設定になっている(注2)

そして劇場版では、国家による統治が一部回復したばかりで、いまだ内戦状態の続く東南アジア連合(SEAUn シーアン)に日本政府がシビュラ・システムを輸出することになったが、その反政府勢力の中に常森はかつて刑事課の先輩だった狡噛(こうがみ)慎也らしき人物の影を見つけ、自らシーアンに捜査に赴く。
そして狡噛を追って奥地へと入り込んだ常森は、そこで内戦で戦場と化したその地の現実を知り、またしても自らの「正義の在り処」と向き合うことになる。


第1シリーズがハードボイルドな刑事物、第2シリーズがパズラーの要素を持ったサイコ・スリラーだとするなら、この劇場版はさしずめポリティカル・サスペンスといったところだが、元々の意図は第1シリーズで描かれた完全管理体制下の日本があまりに殺伐としたものになってしまったため、「秩序が崩壊したままの外の世界に比べたら、シビュラが管理している日本はずっといいところなんだ」ということを描こうとしたんだとか。

だが私は映画を見ながら、それとは違うことを考えていた。それは国家建設や国家統一といったものが、必然的にたどる過程である。

国家建設や国家統一のような「新しい秩序を打ち立てる」ということは「古い秩序を押し潰していく」ということでもあるから、綺麗ごとでは済まない。つまり、そこに「正義」の概念を持ち込むことはできない。

そこに必要なものが 「大義」だ。「大義」さえあれば、そのプロセスで起こるあらゆる事柄、あらゆる行為が正当化されるから。そして「正義」とは、「大義」が生み出した秩序が一定レベル以上に確立された後、その秩序を維持するために用いられるものに過ぎない。

実際、『劇場版 PSYCHO-PASS』でもシーアンが「正義を司るシステム」シビュラの輸入を決めたのは、シャンバラ・フロートというごく限られたエリアとはいえ、政 府が支配権をほぼ掌握したからだ。だが、逆に言えばシャンバラ・フロートから一歩外に出れば、そこは「正義」など存在しない、政府勢力と反政府勢力とがそ れぞれの「大義」をぶつけ合って死闘を繰り広げる「戦場」なのだ。

だから、自身の「正義」を背負って闘う常森にとって、「大義」が先行する今回の物語は明らかに、あらかじめ敗北が決定づけられたものだった。


そして『PSYCHO-PASS』においては、常森の「正義」とシビュラの「正義」との決着が、まだ残されている。そう「正義」とは、それを語る者と同じ数だけ存在するのだ。

いろいろな意味でvisionary(予見的)な作品であるだけに、今後何が語られるかが非常に気になる。

自由が操る未来とランデブー
この世に仕掛けた「意味」の迷路に
溺れて気がつくWho What Who Whatの
消えない疑問符並べて 響くdistortion why?
諸刃のナイフに彩られた完璧な異常
Who What Who Whatの嘆きも居場所を無くして
感情よGood Bye


(注1)テレビ・シリーズのネタバレを含むので注意!
第1シリーズで、社会に神託を下すシビュラが人間の脳の群体であることが明らかにされる。物語の中では語られていないが、一番初期のシビュラは、さまざまな分野で高い見識を持つと言われた人間たちの脳を摘出し、それらを使って作られたのだろうと思う。そして、その脳たちだけではPSYCHO-PASSを評価できない人間(物語の中では「免罪体質者」と呼ばれる)が現れると、その人間の脳をシビュラに加えることでバージョンアップを繰り返してきた(だから現在のシビュラを構成している脳の群体には、元犯罪者のものが少なからず含まれている)。

ところで、この「培養液の中に浮かぶ脳髄」という絵はSFでは比較的ポピュラーなものだが、そうした脳は「肉体という檻」から解放されたことで、より制約に囚われない自由で柔軟な思考活動が可能になるのだろうか、というと、実際にはそんなことはない。「人なるもの」の中で既に述べたことだが、人の脳が「人の脳」であるのは、人の体を持っているがゆえ、なのだから。


(注2)この設定は過去に同じノイタミナ枠で放送された作品と比較すると、非常に興味深いものがある。
2011年秋期に放送された『UN-GO』は、同じように近未来の「終戦」直後の東京が舞台だが、日本は敗戦の傷跡と混乱がまだ至るところに残り、主人公の探偵、結城新十郎は世間から「敗戦探偵」などと呼ばれていたし、同じ2011年秋期に放送された『ギルティクラウン』でも、日本で未知のウィルスによるパンデミック(広域感染爆発)が起こり、日本政府は統治能力を失ってアメリカ軍を中心とする超国家組織GHQの統治下に置かれていた。
放送時期からわかるように、これらには東日本大震災の影響が色濃く反映されている。

それが1年後の2012年秋期に始まった『PSYCHO-PASS』では全く逆に、世界に先駆けて日本だけが復興を果たした、という設定に変わっている。それは第2次安倍政権の成立、嫌韓・反中を中心としたナショナリズムの高まりと奇妙にシンクロしている。



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