深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

時代認識 2

2013-01-17 00:20:15 | Weblog

「時代認識 1」の最後で、私が考える現在という時代の位置づけは「新しい中世の幕開け」というものだ、と書いた。それを更に続ける。

BGMは1と同じ、フジコ・ヘミングの演奏によるベートーベンのピアノソナタ17番『テンペスト』第3楽章


通常の歴史区分では、中世とはいわゆる封建時代を指し、ヨーロッパでは西ローマ帝国滅亡(476年)から東ローマ帝国滅亡(1453年)までの約1000年間、日本では平安時代末期(1100年頃)から安土桃山時代(1600年頃)までの約500年間、とするのが一般的なようだ。

けれども私は、ここでは中世という言葉を、封建制と結びつけた歴史的区分ではなく、「ある1つの大きな秩序が壊れて、別の秩序へと移行する期間」と意味で使いたいと思う。中世をこう定義づけると、封建制と離れたもっと大きな枠組みの中で中世を考えることができるし、上の歴史区分とも矛盾しないからである(そういう意味では、この定義は数学的に言えばwell-definedでしょ)。


中世というと「暗黒時代」という枕詞(まくらことば)とともに語られることが多いが、決してそんなことはない。あらゆるものが流動的で不確かな時代ではあるが、それゆえに他の時代にはないダイナミズムに溢れているとも言える。

そんな中世像を、私はウンベルト・エーコの同名の原作を映画化した『薔薇の名前』のプログラムに書かれていた中沢新一の解説で学んだ。残念ながらそのプログラムは今は行方不明のため、その文章を正確に引用することができないが、中世とはあらゆるものが根本から問い直されたダイナミックな試行錯誤の時代であり、その果てに辿り着いたのがルネサンスである、といったことが述べられていたように記憶している。


ここでルネサンスにも言及しておくと、一般的な意味のルネサンスとは14~16世紀にイタリアを中心に起こった古典古代の文芸復興運動を指す。これはキリスト教支配のもと、キリスト教以前に栄えた古代ギリシア・ローマの文化が否定され、破壊されてきたことへの反動とも言え、そのためルネサンスは単に文芸復興という1分野のムーブメントに留まらず、キリスト教的な神中心主義から人間中心主義へと、思考のパラダイムそのものを転換させるものだった。

当時はまだ後進地域だったヨーロッパが、その後の世界の牽引役に躍り出る契機となった科学技術の発展、そしてそれを基礎とした産業革命は、全てこのルネサンスがもたらしたパラダイムに則ったもの、と見ることができる。

だがここに来て、行き過ぎた人間中心主義はさまざまな問題を引き起こしている。それはルネサンス時代に作り上げられたパラダイムが、もはや限界に達してしまったことに起因している、と私は考えている。


ここで2つの考え方がある。1つは「人類はルネサンスの遺産を食い尽くしながらも、同時にそれに変わる新たなパラダイムを準備してきた」という考え方。つまり、今から新しいルネサンスが始まると見る立場。そしてもう1つは、「人類はルネサンスの遺産を食い尽くしてしまったので、ここから次のルネサンスのための準備に入る」という考え方。そして私の立場は後者だ。

後者の立場を取るのは、現時点でこの混迷した状況を打破できる明確なパラダイムを、まだ誰もどこからも提示できていないこともあるが、それ以上に、私が人というものをそれほど高く買っていないからでもある。だから私の考える今とは「来たるべき新しいルネサンスを準備するための、新しい中世の幕開けの時代」なのである(注)

世の中の関節は外れてしまった。ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生まれついたとは!
(ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』)


で、この話は更にもう少し続く。

(注)神田昌典さんが今の時代を表すキーワードの1つに「宗教経済」を挙げていることが、個人的にとても興味深い。彼はそれを「魚座の時代」から来るスピリチュアリティの高まりが市場経済と結びつく、という意味で使っているが、行き過ぎた人間中心主義が次に向かうのは、神(宗教)への回帰なのだろうか。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 時代認識 1 | トップ | 沈黙をもって答えよ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事