ずいぶん前、ブログに「オオカミ少年の謎」という話を書いた。その内容は、ザックリ言ってしまうと、「まわりから嘘つきで知られた少年が、オオカミが村に向かってくるのを知り、そのことを村人に言うが誰にも信じてもらえない」という、あの話の最後はどうなったンだっけ、という疑問を述べたものだった。
私がボンヤリ覚えている、その結末は「少年がオオカミに喰われてしまう」というものだったが、「オオカミが来ることを村で唯一知っていたはずの少年がなぜオオカミに喰われるンだ? 喰われるなら少年じゃなくて村人のハズだろう」ということを言う者がいて、それ以来、この話は私の中で「解けない謎」として残っていたのである。
それが最近、電車の中でそのことをボーッと考えていたら、不意にその謎が解けた。結論から言えば、オオカミに喰われたのはやはり少年だったのだ。いや、それが本当にその話の結末なのかはわからないので、正しくは「少年がオオカミに喰われた」とする結末に至る自分なりの合理的な説明ができた、ということなのだが。
多分、少年は村人にオオカミが来るという自分の話を信じてもらえなかったため、1人で村を守るためにオオカミと戦うことにしたのだろう。そして結果としてオオカミに喰われてしまうのだ。その状況を見ていて、それを村全体に伝えた者がいて、村はオオカミに備えることができ、被害を最小限に抑えることができたのだと思われる──と、こう考えると、オオカミが来ることを唯一知っていたハズの少年がオオカミに喰われ、村人が(ほとんど)無事であったことが合理的に説明できる。
では、この話の教訓は何だろう。「嘘をつくと信用をなくす」ということを言っているのだ、とはよく聞くが、果たしてそれだけだろうか?
この話のキモは、日頃嘘ばかりついていた少年が本当のことを言い、しかもその少年が「何も知らない村人のために自分が村を守るんだ」などと、柄にもなくホトケゴコロを出してしまったところにあると私は見る。まぁ話の舞台は中世ヨーロッパだろうから、ホトケゴコロというのはヘンかもしれないので、キリスト教的sacrifice(犠牲)の精神と言い換えてもいいだろうが、いずれにしても、それは少年のキャラではなかった(もっと正確に言えば、「みんなが考える少年のキャラとは違っていた」)のである。
とすると、この話の教訓は「キャラと違うことをするな。みんなが混乱する」ということなのかもしれない。
というわけで、とっぺんぱらりのぷ。
私がボンヤリ覚えている、その結末は「少年がオオカミに喰われてしまう」というものだったが、「オオカミが来ることを村で唯一知っていたはずの少年がなぜオオカミに喰われるンだ? 喰われるなら少年じゃなくて村人のハズだろう」ということを言う者がいて、それ以来、この話は私の中で「解けない謎」として残っていたのである。
それが最近、電車の中でそのことをボーッと考えていたら、不意にその謎が解けた。結論から言えば、オオカミに喰われたのはやはり少年だったのだ。いや、それが本当にその話の結末なのかはわからないので、正しくは「少年がオオカミに喰われた」とする結末に至る自分なりの合理的な説明ができた、ということなのだが。
多分、少年は村人にオオカミが来るという自分の話を信じてもらえなかったため、1人で村を守るためにオオカミと戦うことにしたのだろう。そして結果としてオオカミに喰われてしまうのだ。その状況を見ていて、それを村全体に伝えた者がいて、村はオオカミに備えることができ、被害を最小限に抑えることができたのだと思われる──と、こう考えると、オオカミが来ることを唯一知っていたハズの少年がオオカミに喰われ、村人が(ほとんど)無事であったことが合理的に説明できる。
では、この話の教訓は何だろう。「嘘をつくと信用をなくす」ということを言っているのだ、とはよく聞くが、果たしてそれだけだろうか?
この話のキモは、日頃嘘ばかりついていた少年が本当のことを言い、しかもその少年が「何も知らない村人のために自分が村を守るんだ」などと、柄にもなくホトケゴコロを出してしまったところにあると私は見る。まぁ話の舞台は中世ヨーロッパだろうから、ホトケゴコロというのはヘンかもしれないので、キリスト教的sacrifice(犠牲)の精神と言い換えてもいいだろうが、いずれにしても、それは少年のキャラではなかった(もっと正確に言えば、「みんなが考える少年のキャラとは違っていた」)のである。
とすると、この話の教訓は「キャラと違うことをするな。みんなが混乱する」ということなのかもしれない。
というわけで、とっぺんぱらりのぷ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます