Sofia and Freya @goo

イギリス映画&ドラマ、英語と異文化(国際結婚の家族の話)、昔いたファッション業界のことなど雑多なほぼ日記

ロンドン近所マップ

2013-10-31 15:47:00 | イギリス
BBCドラマのシャーロック(21世紀バージョン)以来、ドラマや映画に出て来るロンドンの場所が、自分が住んでいた時の生活圏内だと懐かいのでいっそのこと地図に書き込んでみました。有名な場所も入れました。まずは「SW1」編。

SW1というのはイギリスの郵便番号です。
バッキンガム宮殿やパーラメント/ビッグベンのあるロンドン中心地のひとつ。



・・・のおそらく最も貧民エリアかも知れないのがここ。



ここには市松模様のカウンシル・フラット(公団)が立ち並んでいるからで、私達は個人オーナーから借りていた(イギリスは公団を購入できる)ので週175ポンド(当時約3万5千円)払っていたのですが、政府に払うと収入にもよるのですが約50ポンドだったそうです。く、悔しい・・・



低所得層の住宅地とは言えご近所さんはみな普通のいい人で、名所も徒歩圏内に多い近所を1歳のMをベビーカーに乗せて歩き回りました。最寄りの公園がセント・ジェイムズ・パークです。広いし、何と言っても女王陛下のお膝元なので、聖なる空気が漂って(そういう場所を王家は選んだのではないでしょうか)子供を遊ばせていると宮殿の楽隊のマーチが通ったりして豊かな気持ちになれたものです。


では地図です。クリックでちょっと拡大します。




1 バッキンガム宮殿 

2 アイリーン・アドラーの家 (Eaton Square)

3 夫の職場 (St.James's St) にも公園を抜けて徒歩

4 ダイアジェニーズ・クラブ (THE DIOGENES CLUB) マイクロフト兄さんのクラブ

5 ホース・ガーズ・パレード ここの閲兵式はパレーズエンドのラストシーン

6 セント・ジェイムズ・パーク内の児童遊園 お世話になりました

7 ニュー・スコットランド・ヤード イケメン警部のいる所のはず

8 ここにあったプレイ・グループという日本の児童館のような乳幼児&ケアラーの
  集まる場所が良かった。主催者が勉強会やマッサージなど企画してくれて
  親としての悩みを打明け合ったり息抜きができた。

9 ウエストミンスター・アベー 王室の冠婚葬祭の行われる教会

10 セント・ジョンズ・スミス・スクエアー すみません、場所若干ズレてます。
  正しくは右上の方角の丸い所です。王室メンバーがパトロンのコンサート・ホールで
  クリスマス・キャロルでアラン・リックマンの朗読を見に行きました。
  
11 MI5

12 MI6

13 最寄りのスーパーはここのテスコ

14 チャンネル4 (テレビ局)有名人の出待ちでもすれば良かったな



このエリアの楽しい所は、近所の散歩で宮殿ショップに行けたり、ウェストミンスター大聖堂という、アビー(イギリス国教会)とはまた別のカトリックの教会もあって、日本でもお寺や神社回りは雰囲気がいいのと同じで大都会でも落ち着いた空気がありました。その大聖堂のあるVictoria StにはHOUSE OF FRASERという百貨店もあって、なぜか看板には「Army&Navy」と書いてあったんです。後にアガサ・クリスティの本を読んでいたら「ヴィクトリアの陸軍海軍用店へ買物に行った」という記述があり、その昔の名前が看板に残されているんだなあ!と合点が行ったのでした。

ここには1年住みました。ここの前と後に住んだ近所の話はまたそのうちに。



レモン・カード

2013-10-29 16:04:00 | たべもの
先日ターナー展へ行き、画家の人生にシミジミしながらシミジミした絵もいいものだ・・・と思うようになって出口を出たところで、まったく絵とは関係ないグッズを買って喜んでいました。その時に「お!?」と思って買わなかったものがありました。

レモン・カードです。

ターナー展は、古き良きイギリス好き層に狙いを定めたのは、アフタヌーン・ティーに因んだ「紅茶」「ビスケット」「スコーン」(私が行った時は既に売り切れ)なども美術館ショップに揃えていたことでも分かります。その一角にディスプレイされていたのがこれで、確かお値段が1200yenくらいで迷った末に買いませんでした。しかし!思い出すとやはり買えばよかったかな?!と悔やまれてならなく、ついに夫にもその話をし、そしたらBBCのレシピを探し出して「作れるよ」と言われました。・・・はい、まあ、作れるのですけど、物理的に誰かが買物に行って鍋とか出して色々やらないといけないわけですよね。。。。誰かって誰でしょう。

レモン・カードとは、パンにぬるもので、イギリスではマーマレードとかジャムとかチャツネー等とともに瓶詰めコーナーに並んで売られています。私が初めて知ったのは、田舎に行った時に寄ったファーマーズ・マーケットで手作りの瓶詰めを買った時でした。材料のレモン、バター、砂糖、卵黄が全て一緒くたになったそのものの味で、濃厚な高カロリーのクリームをレモン味で帳消しにした気になって食べるものです。

そう言えばイギリスの定番ケーキにはレモン・タルトというのがあって、タルト地にカードが詰まったようなケーキもあります。バリエーションでオレンジ・カードというのも。

そしてターナー展にあったのは、Duchyというチャールズ皇太子の経営していたオーガニック・ブランドで、美味しさは間違いないのです。確かロンドンに住んでいた時にもジャムに比べたら値段が高かったから気安くは買えず、買ったら大切に食べてたよなあ、1200yenってそしたら本国と値段変わらないのかな・・・と思って調べてびっくり、たったの£2.83=約450yen。むむむ、倍以上か、仕方ないよな、配送料かかるもんな・・・ぶつぶつぶつ。

思えばジャムも生活必需品だし需要量も違うしで、基本でかい瓶(450gくらい)で値段はそれこそピンキリでしたので、そのジャムと比べて高かったな、という記憶だったのですね。まあ、仕方ないです。日本では輸入品なのですから。
(Duchyが2010年に経営の悪化から高級スーパーのWaitroseと提携したので値段が下がった可能性もあります。皇太子、経営は得意ではなかったようで・・・)

ぶつぶつとまだ考え中で買っても作ってもいないレモン・カード。

ちなみにBBCのレシピをご参考まで;

材料:

ワックスをかけていないレモン4個分の皮の表面部分と汁
粉砂糖 200g
無塩バター 100g サイコロ状に切っておく
卵3個、卵黄1個

作り方:

1、耐熱ボウルにレモン、砂糖、バターを入れる。
  お湯を張った鍋の上でボウルの底が湯に触れないよう注意しながら
  材料をバターが溶けるまでかき混ぜる。

2、軽く泡立てた卵と卵黄を1のボウルに加える。
  材料がよく混ざるまでかき混ぜ、それから
  お湯に底がつかるようにして10~13分間、
  混合液がとろみがついてスプーンの底に残るまでかき混ぜ続ける。

3、火からおろしさます。さめるまでに時々かき混ぜる。
  さめたら消毒した瓶にレモン・カードを入れて蓋をする。
  冷蔵庫で保存。




Happy Birthday Victoria Sponge

2013-10-26 00:00:00 | たべもの


Mの誕生日なので、ついに、ヴィクトリア・スポンジを作りました。

ついに、の経緯とはコチラコチラに・・・(笑)

最初のリンク先に写真を載せた、Tちゃんに買って来ていただいた「ミックス粉」を使ってスポンジを作ったので、本当に高速で簡単でした。

ちなみに作り方は、袋の後のレシピ;

1、オーブンを190度に温める
2、サンドイッチ型(薄い2個セットの型)に油を塗りペーパーを敷く
3、ボウルにミックスを入れ、卵2個と水90mlを加える
4、ミキサーで2分まぜなめらかにする
5、2つの缶に等分しオーブン中央で15-20分キツネ色になるまで焼く

これだけです!!!

それから、苺ジャムと、無塩バターと粉砂糖と牛乳で作ったバタークリームを挟み、表面に粉砂糖を振るいました。
12歳のお誕生日なので、数字を紙で切り抜いて刻印風にしてみました。

苺ジャムがはみ出して血みどろケーキのようでもありますが、我が子の誕生日を待たずに食べたい衝動と闘っています。

ジュリアン・アサンジ自伝

2013-10-25 14:19:00 | ベネディクト・カンバーバッチ
ジュリアン・アサンジ自伝」ウィキリークス創設者の告白、を読みました。


密林の「なか見!」から目次を含む数ページが読めますよ!上のリンクからどうぞ。

ウィキリークスがリークした脚本は、映画をひとつの作品として0から見たいので読みませんが、ダニエル本とこの本は元になった事実を両面から見ようと、来るThe Fifth Estate公開に備えて読みました!(いつ?!)ダニエル本がすらすらと読みやすかったので、ではアサンジも!と読み始めてドンヨリ・・・ハッカー達の活動、彼の政治理念、世界情勢と各国政府の動きをアサンジに語られると、私の目が文字を追わなくなって辛いのなんの・・・まるで眠気と闘わされる拷問に耐えたかのように強い意志で読んで疲れました。私のIQ値が問題なのね。

目次と本文の間に挿入されていたサン=テグジュペリの言葉が、アサンジを端的に語っていると思う。
「船を造りたいのなら、人を集めて木を伐採させたり、任務や仕事を割り振ったりする必要はない。果てしなく続く海の広さを語って、憧れを掻き立ててやればいい」
きっと彼の理想として引用したのでしょうが、彼のやり方は理想そのまんま。海の彼方を見つめて、現実問題や他のウィキスタッフに気づかいするダニエルのことはまったく見てません!

広い海だけ見つめてたら、そりゃあダニエルを「子細なことに捕われて大局を見失った不愉快極まりない人間で彼の悪意にはほとほと疲れた」・・・・にしか思えないでしょうよ?!ダニエル本は彼らが実際何をやっていたのかわかりやすく書いてあったけど、アサンジ本を読んでも実際に彼らが何をしてたのかよくわからない。それはアサンジが舵取りをしてダニエルが参謀をしていたようだから立場の違いで見ていたものも違うのだろうけれど。。。

父をあまり知らず母親と放浪した育ちで、家庭とか現実とかの実感を知らない人間になったと思うし、彼は読書が好きだと書いている通り、この本を読み始めてすぐ気になったのは、自分や世界の状況を映画や小説に例える描写が多いこと。ヒーロー願望のようにも感じるし、彼の世界では創作作品と現実の区別がないのかもさえ思いました。

コンピューターと出会うまでは、実の母親と異父弟が唯一常に身近にずっといる人だったはずだけれど、家族に対して、彼がどんな感情を持っていたのかも、本からはよくわかりません。書いてないから感じてないとは思わないけど、彼の感情は、正義に叶っているかどうか、それに伴って行動した自分の扱いが不当だったり契約違反だと思った時に、相手の悪に対して燃えます。世の中の不公平や、私利私欲は誰だって好きじゃないけど、人間がそういうつまらないことに動かされる動物だってのも事実で、もちろん、権力が情報を操作する側に集中するのはいけない、ということには私もまったく賛成だけど、すぐ近くにいる人間のケアをしないで、世界で搾取されている人を救いたいと言われても、私は信じないよ!!

・・・ということで、映画の原作に本人の告白本(しかも原稿料もらってから出版をやめたいと言って来たので非公式本になってしまってるそうですよ、出版社によれば。)よりも、不愉快際まりないダニエル本とガーディアン編集者の本が製作者に選ばれたのは、この本からは具体的なことが見えて来ないという理由で、仕方がなかったのだと思います。

と、反アサンジ側にまわるようなことばかり書きましたが、納得、同意する箇所もたくさんあります。「権力者の秘密情報を暴き平等な世の中にしたい」ことには大賛成です!「問題は僕がリークしたことばかり取り上げられて、リークの中身(政府や大企業の悪事)に世間が注目しないことだ」「僕がリークしたことで傷ついた個人は誰もいない。」それがなぜ犯罪者として身を追われて今も拘束されているのか、それは・・・The Fifth Estate を見ればわかるのかな?アサンジに気力をかなり奪われてガーディアン編集者の本に手を伸ばす勇気がまだ出ません・・・・・早よ映画ーーーー!

Yes, yes, I do. More than a secret...


ターナー展

2013-10-23 17:06:00 | イギリス
上野、東京都美術館でターナー展を見て来ました。
いつもどおり、個人的な、とても偏った感想を書きます。



告白しますと、その作品の大部分が所蔵されているロンドンの「テイト美術館」には行ったはずなのに、まったく覚えてないくらい興味がありませんでした。それは大昔の20歳そこそこだったせいかもしれませんが、いくらイギリスを代表する画家と言われても地味過ぎたのだと思います。

ターナーと言えば「風景画」。自然の崇高=山とか湖とか、それはまだいいとして、「雪崩」「火事の翌日の劇場」「嵐が来る海の漁師」「オーストラリアに渡る女囚人の船が嵐で沈む」などの自然の力の前には人間なんて小さい・・・と言いたげな題材も少なくない。いったい誰がグレーの海で真っ黒な煙りを出す暗い帆船の絵を家に飾りたいのか、と思ってました。

それは今も思ってますが、展示されていた経歴を読み、秘密主義で結婚や子供の誕生も正式記録にない人ながら、得意業の妄想で彼という人を思いめぐらせていたら、暗い絵を含む風景画の中にターナーの気持ちを感じたような気がしました。

まず産まれが床屋の息子ということで、庶民です。でもラッキーなことにロンドンはコベントガーデンという便利な所に産まれたので、子供の時から絵の才能を発揮し正式な美術の学校に入学できたのです。家から通えるとはいえ、学費などはどうしたのでしょうね、その当時。奨学金みたいなものはその頃からあったのか気になります。

庶民の出が、絵の題材に肖像とか宗教とか歴史よりも風景を選ばせたんじゃないでしょうか。画家という職業を選んだら、お金持ちや有力者の肖像画とか、お屋敷や敷地の絵の注文を受けて収入を得るのが近道と思うんですが、直接売るだけではなく、芸術として認められパトロンを得て描いていたのです。展示作品の中に、詩集の挿絵もあり、その詩集もよく売れたそうです。暮らし向きがどうだったかは解説になかったのでわかりませんが、芸術にこだわりながら描き、「自分の力の及ばないもの」を題材に選び続けた。

暗い絵が多い・・・というのは私の感想で、実は「黄色の絵の具を多用する光の画家」なんですよね。それがイタリアの絵に顕著です。さすがの私も暗いという言葉をはさめません(笑)。バチカンの絵も展示されていましたが、それが神の存在よりも太陽の光の存在を感じさせるとは画家が現実的なのか、そう受け取る私がそうなのか。ベネチアの市長の「海との結婚」の儀式の絵など、珍しく歴史的な輝ける題材ですが、これも異国の町や風俗よりも何よりも光が主役でした。そうだ、光が題材でも暗い絵もあったんです!古代ローマで投獄されて目蓋を切り取られた人が外に出された時の眩しい風景というのが!!眩しくても瞬きできずに失明したそうです。そんな恐い話でもその時の光はどんなだったかを描きたいなんて・・・・光フェチ・・・?

ええい、ついでだ、最後の暗い話、ターナーの時代は、ナポレオン戦争がすっぽり重なっています。今回の展示を見ると、トラファルガー海戦の絵はありました。一応時流に乗ってパトロンを獲得したかったようです。しかし自国の英雄ウェリントンの絵は(楽しみにしてたのに)ないのに、なんとナポレオンが。さすがに敵国、セントヘレナに流されて、暗い海辺の砂にぽつんと転がる貝を、皇帝が遠くから見つめている風景です。その寂しい貝と流刑の身の侘しさを重ねていると絵の横の解説にもありました。天下のナポレオンをいくら敵だからってこんなふうに描くなんて、自国の英雄の雄々しい姿でも描いてりゃよかったのに。・・・・性格ひねくれていると思いました!(だからイギリス一人気があるのかも)

展示品に、スケッチブックとターナーが使用していたという絵の具入れもありました。スケッチブックと言っても19 世紀のは、ハードバック本みたいな綴じ方で、金具がついててびしっと綴じることができます。グランドツアー用に移動中でも絵を守るつくりだからあんなに頑丈なのでしょうか。それからチューブ入りの絵の具はターナーの最盛期にはまだ発明されてなく、展示されていた絵の具はガラスの瓶に入っているんだと思って「キレイね」と見ていたのですが、当時何と豚の膀胱に絵の具を入れていたんだそうです(また恐い話だよ~~)その解説を読んでからよくよく見ると、経年で色がこげ茶になってカチカチに固まっているけれど、形状は人工的な形ではなくひとつひとつ違う・・・やはりこれは元豚の・・・・(ぎゃーーーーーー!!!)

光、光、と言われても、私の中では暗い画家、という印象は変わらなかったのですが、今回、とても感心したのは、この展覧会のプレゼンテーションでした。上のタイトル絵はHPから切り取ったのですが、華麗な模様はロココ調フランスのよう。チケットもベビーピンク地にこげ茶のアクセントでしめた洗練されたデザインです。



上の写真はオリジナル・グッズのシールと、レジに置いてあったカード式割引券3種。

他のオリジナル・グッズも、ジンジャーマン・ブレッドやスコーン、おしゃれなパッケージの紅茶などあって、ハイティー好きの心を鷲掴み!リバティとコラボした帆船プリントのトートバッグやブックカバーもかわいいし、帆船柄のシルクのスカーフもオリジナルコラボで作るという力の入れようです。日本の美術館グッズすごいです。



そしてこれが実はお目当てだったという帆船ピンです。





10/24追記書き忘れたいくつか。

ターナーの絵を見てると「光を描こうとした印象派の絵」が頭にちらつくのですが、時代はターナーの方がすごく前なんですよね。パンクな存在だったんですね(笑)。光をどうやって描くが技法を探した習作も今回のターナー展にあり、それがほとんど現代美術みたいなんです。実際には彼の没後に印象派やジャポニズムが現れるんですから現代美術なんてあり得ないんですが。
それから晩年、パトロンのひとりのお屋敷に長期滞在した時期があり、その時に豪華なカントリーハウスや庭を自由に歩き回って絵を描いたそうで、私はダウントンアビーや、インテリア本「A English Room」のような豪華な家や庭をターナーが描いたのだとワクワクして展示を回ったんです。ところが、その部屋の絵というのはA5くらいの小さい水彩画ばかりで、ちっとも豪華さや部屋のつくりはわからず、こちらの想像力を試されているかのようでした。

若い頃、荒れ狂う海の戦艦を描くのには、マストに身体をくくりつけて海と船を見たそうで、その静かな画風からは想像もできない勇気というか、意地というか。彼は絵以外に教育らしいものも受けていないようだし、40歳を過ぎてイタリアやドイツ、スイスと旅行してまた新境地を開拓して。最盛期を過ぎても新技術を模索し、晩年の肖像画の解説によると、一世を風靡した画家に見えなかったそうです。彼は70歳台まで生きて描き続けるんです。しかし最後の20年くらいは、評判は地に落ちていたとのことです。それでもやめない。笑われながらも描くことをやめなかった晩年は絵がどんどん光だけになっていったのは、ふと目が悪くなったんじゃないか、とかも思ったのですが、そういう記述はありませんでした。