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中国人記者の見た反日感情高揚の原因(翻訳)

2005-08-28 10:46:47 | 中国異論派選訳
中国人記者の見た中国民族主義(劉小彪・抄訳)

1、民間の反日感情高揚の4つの原因

 私の見るところ、中国の民間での反日感情の高揚には主に4つの原因がある。第一、歴史の痛み。第二、現実の摩擦(近年の日本の右翼勢力の跋扈)。第三、中国(中国共産党:訳注)の宣伝思想とマスコミ報道。第四、中国民族主義の隆盛。前の3つの原因に加えて国際枠組みの変動と中国の国力の増強がもたらした民族的自負心の増強などの原因が重なって今日の中国民族主義を後押ししている。しかし、その後の中国民族主義の隆盛はひるがえって前3者の強化もしくは顕在化をもたらしている。

2、マスコミ報道の「ロマンチック」から「憤怒」への変化

 少し前に、私は中国国家図書館(日本の国会図書館に相当:訳注)で20年前の人民日報を調べてみた。あのころの文章を読み返してみると、非常に感慨深い。たとえば、1984年1月15日の人民日報7ページには「札幌の夜」という記事が載っている。作者の蒋元椿はかつて人民日報の国際部主任を務めた人物だ。この記事は作者が札幌の小さな食堂で食事をした時の経験が書かれている。この文章は次のように結ばれている。「(店の主人伊藤さん)ビールを1本取り出し、栓を抜いて3つのコップに満々と注ぎ、一つを取って言った。『我々の二つの国の友好が永遠に続きますように!』。私たち(作者と同僚の孫さん)は立ち上がって、コップを取り、3人が向き合ってそれぞれのコップのビールを一気に飲み干した。私は、これを苦いビールではなく、甘い友誼の露と感じた。私たちは伊藤さんに別れを告げ、お互いに深々とお辞儀をした。店を出て街に出ると、外はピューピューと寒風が吹いていたが、札幌の夜のなんと暖かいことよ!」。
 このような文章は、今ではまず見ることはできない。

 1978年の改革開放から現在までの25年間、中国(中国共産党:訳注)の宣伝思想とマスコミ報道の分水嶺は1989年の天安門事件の前後であった。1989年以前は、中国の知識層のメインストリームは「親西側」と「反伝統」であった。中国の宣伝思想とマスコミ報道は西側諸国に対して「ロマンチックな感情」に満ちていた。1989年の天安門事件以降、西側諸国は中国に対して制裁を行った。それ以降、中国政府は中国伝統文化を発揚することに力を入れ、愛国主義と集団主義の教育を強力に推進し始める。とりわけ、「中華民族」概念を強調するようになった。私が以前行った人民日報の研究によれば、中国共産党中央委員会機関紙として、中国政治への影響力がもっとも大きい人民日報紙上に「集団主義」、「愛国主義」「中華民族」の3つの単語が登場した記事は1988年がそれぞれ、14本、113本、237本であった。それが1年を置いた1990年にはそれぞれ91本、517本、637本に激増している。コントラストはかくも強烈である。しかも、これらの単語の使用回数はその後も長期にわたって増加を続けた。

 中国政府がこのような行動に出るにはそれなりの理由があり、客観的にも積極的な作用も多かった。例えば民族団結力の強化などなど。しかし、それはまたマイナスの影響ももたらした。たとえば、一部の青年が「非理性的」に外部の世界に対して「NO」と言い始めたことである。
 近年、中国マスコミは日本と中日関係について大量の「マイナス報道」を行っているが、それは日本の右翼勢力の横行のような客観的事実の反映であると同時に、中国の民族主義的情緒の高揚の表現でもある。もちろん、他にも中国のマスコミが市場経済化の中で(部数を伸ばすために:訳注)読者の不良傾向に迎合するなどの要因も混じっている。

3、中国民族主義はすでに「高度危険期」に突入している。

 西北大学は私の母校である。私は10年前に西北大学の大学院生であった。また、最近、西安の取材をした時に、学校にも立ち寄っているので、西北大学と西北大学の学生についてある程度知っている。実際のところ、西北大学の学生は中国のほかのすべての大学の学生と同じである。愛国、愛民族について非常に単純で素朴である。彼らには功利思想や私心の雑念はない。彼らにあるのは熱血だけである。どの時代でも、大学生はわが国の最も愛すべき人々である。私は、学生たちの示威行動を理解できるが、賛成はしない。西北大学事件(2003年)が発生してから、私は国内外の大量のマスコミ報道を読み、また直接西北大学の教師・学生に聞いてみたし、さらに何人かの日本人ともこの問題を話し合った。私の現在の見方は、日本人留学生の演技は品位にかける恥ずべき行為であるが、彼らの行ったことは彼らの道徳的なレベルの低さと低俗な品位の問題であり、彼らのような人は日本国内であれ、インドネシア、シンガポールあるいはアメリカに行っても、やはり同じような演技をするだろう。もし彼らが意図して「中国を侮辱した」と批判するとすれば、私はそれは「うがちすぎ」た見方だと思う。

 実のところ、私は西北大学事件のカギは日本人留学生がどんな演技をしたかではなく、演技の時間と場所であると思う。同じ演技を「ロマンチック」な1980年代に行っていたとしたら、現在のような激しい反発は招かなかったと私は信じる。しかし、状況は変わってしまって、現在の情勢では全く異なる。民間の反日感情は日増しに高まり、民族主義が日増しに勢いを増している。このような時代には、どんなに小さな火種も、大火事を引き起こす可能性がある。とりわけ、大学のような「熱血青年」の集まったところでは、小さな事件がたちまち大きな危機を招く。

 西北大学事件は私たちに警告している!中国の民族主義はすでに「高度危険期」に入ってしまったのだ。もし、速やかに適切な指導と、科学的な説明を行わなければ、このような民族主義が中華民族にもたらすものは福祉ではなく、災難であろう。

4、憂慮すべきインターネット上の「沈黙の螺旋」現象

 中国のインターネット上の激越な反日言論と極端な民族主義的感情は中国の一部のインターネット利用者の感情の客観的反映であることは疑うべくもない。しかし、それは決して中国の青年と民衆の全体を代表した意見ではない。その意味では、それは片面的な真実であり、虚構の真実である。
 ネット上の激越な反日言論と極端な民族主義感情を分析してみることはとても有意義なことである。まず、主にどんな人が発言しているのか?それは、感情の激越な人である。一方、比較的温和な人は普通あまり発言したいとは思わない。そこで、我々はBBS論壇上では理性的な、温和な発言をほとんど見出すことができない。しかし、そのことは我々の周囲に理性的な、あるいは温和な意見が存在しないことを意味しない。つぎに、発言したあとの反応と境遇を見てみよう。少数の、理性的かつ温和な発言が登場するや否や、まず批判・非難される運命を免れることはできない。そして、極端な、非理性的な発言はたいていが賞賛され、批判しようとする者はほとんどいない。同じように激越な人は互いに重んじあうが、批判的意見をもつ温和な人は相対的により寛容であるか、あるいは全く「恐れ知らずの無知」な発言にかまけることに興味がないかである。
もし、事態がこのようなレベルにとどまっている限り問題もないだろう。恐ろしいことは、上述の2つの原因から、インターネット上では憂うべき「沈黙の螺旋」現象が形成されつつあることである。つまり、感情の極端な者が、絶え間なく激励され続け、声がますます大きくなり、勢力がどんどん強くなっていき、言説も激越さを増していくのである。そして、理性的で温和な者は、絶え間なく攻撃され続け、声は徐々にか細くなり、すこしずつ孤立感を増し自信を失っていく。そして、両者の中間にいて、人数の最も多い中間派は激越な言説を見慣れて影響を受けることで徐々に激越な方向に向っていくのである。そして、ついにインターネットは激越な言説が支配することとなる。
中国のいくつかのニュースサイトのBBSを見渡してみると、日本に関する内容であれば、ほとんど全部の言説が激烈な批判、譴責と悪罵である。だれであろうと、それに対して「NO」と一言いえば、決まって口汚く罵(ののし)られる。たとえ、れっきとした前駐日大使であってもその人格を侮辱される。その結果、一部の中国の学者は記者の取材を受けるときに、ネット上で「漢奸(漢民族の裏切り者≒非国民:訳注)」と罵られるのを恐れて、匿名取材を要求する人も現れている。

5、極端な少数が沈黙の大多数を左右しつつある

 現在、中国のインターネット上のBBSはすでに極端な民族主義的感情に占領されている。中国は今世界でインターネット利用者が2番目に多い国で、しかも、急速に一般民衆の間に普及しつつある。インターネットは今では中国の社会生活の中でますます重要な地位を占めつつあり、ネット上の言論も中国の一般民衆の考え方にますます大きな影響を与えつつある。とりわけ、青少年に対して。もし、インターネット上の「沈黙の螺旋」現象が実社会の関係領域にまで広がり、極端な少数が沈黙の多数を左右するようになったら、我々の国全体、我々の民族全体が「ハイジャック」されてしまうだろう。我々が経験したことから見て、我々の周囲で起こっている変化のなかに、この恐ろしい兆候がすでに現れている。極端な民族主義は初めのあいまいな感情から本物の信念に変化しつつある。当面の急務は、「沈黙の多数」が大きな声で、勇敢に発言し、不退転の決意で局面を転換する責任を担っていくことである。
 一般的にいって、民族主義は民族共同体のメンバーが自民族に対する熱愛と自民族の利益に対する関心を基礎とする、民族の生存、発展と民族の権利に関する観念である。民族主義は、「両刃の剣」であり、積極的な面もあり、消極的な面もある。歴史段階ごとに異なる役割を果たしてきた。しかし、現在では、民族主義が極端な感情を煽り立てることは、他人にとっても自分にとっても有害な、正真正銘の「毒剣」である。
 ここで、特に強調しておきたいのは、私は特定のだれかれに反対しているのではなく、そのような極端な感情に反対しているのである。2003年中国国内で盛んに行われた中日関係大討論のそれぞれの立場の代表的な人物に私はみな会っているし、そのなかには友人もいる。私はどの立場にも完全に賛同はしないし、全く理解できないという立場もない。また、彼らと面と向っての議論もしたことがある。私は彼らの出発点と動機は愛国であると信じる。また私は同様に、ネット上で極端な言説を振りまく大多数の人も非常に愛国的であると信ずる。動機と出発点は善良かつ素晴らしい。私はみんながより理性的に、そしてより寛容になることだけを希望する。そうすることが我々の国と民族、そして全世界にとって非常に有益なこととなる。(2004年1月8日)
原載:http://pinglun.youth.cn/xzjt/t20040421_3084.htm