山田航さんもわたしも北海道に住んでいるが、北海道の、特に郊外に暮らしていると、都会と比べ、ここにはちょって変な空気が流れているな、と思うことがある。古臭いような、新しいような、うるさいような、静かなような、愛しいような、憎いような。山田航さんはこれまでも地方都市での暮らしを詠んだ歌を多く発表されてきたけれど、今回の連作も、どことなく地方都市での生活を連想させるものだったように感じる。
一首ずつ鑑賞していく。
刷りたての切符のぬくみが手の中に届くこの冬最初の旅だ
刷りたての切符があたたかい、という発見。「この冬最初の旅だ」という言葉は主体とこの刷りたての切符、両者にかかっているように感じる。何がこの冬最初の旅にあたるのか、ということはわからず、しかし、最初の旅、という言葉には希望を感じる。希望が手の中に届く、という感覚がおもしろかった。
ひかりってめにおもいの、と不機嫌だごめん寝てるのに電気つけちゃって
生活の中での場面。語り掛ける口調が、誰かとの生活を描き出す。上の句での謎が下の句での答えによってわかる、という構成になっているけれど、この「謎」は、読者に向けられたものである以上に、この主体自身の心に浮かんだ謎であるように感じられる。眠る「きみ」の口からでる呪文のような言葉が、主体の心を明るく照らしている。
不器用に季節は過ぎて朝焼けにはじまるきみのココア週間
タイトルにも使われている「ココア週間」という言葉が用いられている一首。不器用に、という形容がおもしろい。時間は思っているよりもいつも簡単にわたしたちを置いて遠くに行って、でも今、はじまるなにかもある。朝焼けの中、「きみ」がココアを飲む。それが、不器用な世界の中で救いとなることもあるのではないだろうか。
通り雨だったんだけどこの胸をしっかり黒く濡らしていった
灰色の衣類を着ていると、水に濡れたところが黒く変色する。しかし、胸を黒く濡らしたのは水滴だけではないだろう。悪意や暗い感情と、無縁でいることなど誰にもできはしないことを考えさせられる。
浴槽の栓ひき抜けばりんと鳴るこれはあの夏なくした鈴だ
りんと鳴ったのは、本当の鈴ではないような気がした。なにかがきっかけで、過去に失ったものを思い出す。それは幽霊のように、実態を持たず何度も何度もわたしたちになにかを問いかける。主体は過去から逃れられていないのだろうか。
乱雑な仕草でポカリ注いでるきみらしくないきみがいちばんきみで
きみらしさ、と規定できるようなものだけに沿うのはきっと人間らしいことではなくて、「きみ」のなかにある「きみらしからぬ」ものをうれしく思う気持ちが伝わってくる。「ポカリ」という設定も面白くて、なんとなく、ポカリは乱雑でもいいかなあ、という感じがした。普段この「きみ」はていねいなひとなのだろう。ポカリスエットを乱雑に注ぐ動作からは焦りや暗いものが感じられるけれど、日常のあたたかみがそれをうっすらとカバーしている。
今日の『アメトーーク!!』のお題なんだっけそっかそれなら別にいいかな
会話の一部抜粋、という形がとられた一首。アメトーク!!は深夜にやっているバラエティー番組で、お題に沿った芸人が集められ、そのお題について語るという内容である。毎週欠かさずやっている番組を、その内容によって見るか見ないか決める、というのは日常においてはよくあることであり、この会話をしていたことすら、翌日には忘れてしまう。別にいいかな、というのはゆるやかな拒絶だ。悪意までいかない拒絶が、日常には溢れている。
コンタクトケースにふたつ凪いでいる湖 夜はいつも明るい
コンタクトレンズのケースにはたいてい二つのちいさなくぼみがあり、わたしたちはそれに洗浄液を満たしコンタクトレンズを入れる。それを「湖」と表現することがおもしろい。夜がいつも明るいわけはないのだけれど、コンタクトケースの中の湖に訪れる夜は、明るいのかもしれないな、となんとなく思わされる。
これでいいんだ ブラックコーヒー飲んだあと歯磨いたらいい味がした
なにについての、「これでいいんだ」なのだろう。この一首の中で言うと「ブラックコーヒー飲んだあと歯磨いたらいい味がした」に対するものだと読むこともできるが、どうもきっとそれだけではない。これでいいんだ、という言葉をわたしたちは自分を安心させたいときに使う。「でいい」というのはかなり消極的な言葉だけど、寝る前に歯を磨くとか、そういう日常においてやらなけらばならないことを肯定できたとき、わたしたちは生きる力を手に入れるのではないだろうか。
人工音の半鐘がなるこの街に約束されたカタストロフィ
「半鐘」とは「火事など異変の知らせに打つため、火の見やぐらの上などに取り付けた小さい釣鐘」のことであるらしい。それが人工音であり、そしてそれは悲劇的な結末を知らせている。どことなくSFチックだが、例えば緊急地震速報は人工音であり、現代の社会の中で訪れる終末とは、こんなものなのかもしれない。
たどり着けない地点にも稲妻が走るさよならパノラマカメラ
パノラマカメラは広い範囲を撮影するカメラであり、それにさよなら、と言っていることからどこか文明への反発のようなものも感じられた。
創英角ポップ体あの看板が最高に似合うパスタ屋だったね
創英角ポップ体は、その何とも言えない「ダサさ」でおなじみのフォントである。でもそれが、その店には似合ってしまう。この使われ方からはふしぎと愛着のようなものが伝わってくる。ダサいものはかわいい。ダサいものはかわいそうで、いたいけで、最高に似合う、という文言は決して褒めているわけではないけれど、それでも彼らにとってそこは「最高」の店だったのだろう。そしてその店はもうない、あるいはあるけれどもう「創英角ポップ体あの看板」はない。それがどことなくせつない。
ふたりきりでするUNOのこと飛ばすのもひっくり返すのも同じことだよ
UNOはふたりでもできるだろうけど、それはお世辞にもおもしろいものであるとはいえないだろう。この歌の中で述べられているように、飛ばして次のひとへ、という命令も、今までとは逆の順番で、という命令も結局変わらずに、きみとぼくの間をカードはぐるぐるとめぐることになる。ふたりきりでできることはほかにもたくさんあって、でも彼らはUNOを選んだ。その閉塞感に安心しているようにも感じられる。
電線で切り刻まれた三日月のひかりが僕をずたずたに照らす
夜空を見上げたら、月が電線の上に丁度かかっていて、月が切り刻まれているように見えた、という発見の歌である。「ずたずたに照らす」がとても痛々しくて、くるしい。ずたずたに、はむしろ「切り刻まれた」に使われることが多い擬音語で、本来ならばずたずたなのは三日月のはずである。しかし「僕」はこのように感じる。胸の詰まるような一首だ。
湖にあしくびしずめスカートを焦がしそうで焦がせない手花火
この連作で、コンタクトレンズの歌に続く湖の歌だ。そのためか、この湖がほんとうに存在するものではないような感覚になる。湖で女性、おそらく「きみ」が手花火をひからせている。そのひかりは彼女のスカートを燃やしそうに見えるが、実際に燃えることはない。視覚的にうつくしい一首である。おもしろいのは、視点がどこにあるのかよくわからないことと、「焦がせない」という言い方で、この手花火は、「焦がしたい」のだろうか、と考えさせられる。破滅を望んでいるような、そうではないような、主体の気持ちの移入が感じられる気がした。
金魚、いい音で鳴りそうだねおまえそのひらひらもかっこよくって
金魚が楽器だとしたら、鈴のようなうつくしい音が鳴りそうである。しかし、金魚は紛れもなく生き物で、生き物を楽器とみなす視点はどうも暴力的だ。
しずかすぎる世界を燃やし切る前に雪平鍋に立ちのぼれ泡
しずかすぎる世界、とはいったいどの世界のことだろう。乱暴と静寂がうつくしく同時に存在している。雪平鍋、と言うチョイスがおもしろい。
チェスの駒散乱の床 エンジェルを演じる衣裳ほら脱ぎ捨てて
チェスの盤面はひとつの完成された世界であり、それがばらばらに散らばったことは世界の崩壊をイメージさせる。そこにはもう役割は存在せず、天使に見えていたものも天使であり続ける必要はなくなるのだろうか。
この鼓動を駆使して走る終わりなき21世紀の地下道を行く
自身を機械に例えた、どことなくSF的であるような歌だ。21世紀は2100年まで続く。しかし、2000年以前に生まれた人々にとって、21世紀は終わらないものであると言っても過言ではないだろう。終わらない時代の閉塞感。
何度でも反復される擦過傷、夜明け間近のひかりの淡さ
擦り傷が何度も繰り返される、という言葉にひりひりとする。夜明け間近のひかり、ということはこの主体は夜中に、おそらく一人で起きている。そして過去の痛みを自らに再び与えている。この痛ましい歌で、この連作は幕を閉じる。
2018年現在の地方都市の憂鬱、そして生活のほの明るさが感じられた。生きることは希望であり、絶望だ。わたしたちには過去があり、現在があり、そして未来がある。この作品一連の中では、全ての時間が薄暗がりの中にある。地方都市はやはり都会と比べるとどこか滞っていて、閉塞感をそこに住む人々に与える。この連作の中に出てくる主体は、しかしながらその環境に、むしろ安心しているようにも見える。前半では生活の中での場面が多く詠まれていて、どれもどこか暗さをまといながらも明るい情景であった。地方都市に暮らすことは考えようによっては絶望で、町はほとんど変わらず、住民の生存のためだけに機能している。都会では3か月に1回美術館の展示が変わり、季節のイベントに応じて雑貨屋や服屋は装いを変える一方で、地方都市では、ほぼ年中、何も変わらない。わたしたちは時が経つスピードもだんだんわからなくなる。自分自身がこの町の一部となる。それは結構恐ろしいことだと思う。特に後半では、より暴力的なモチーフが頻繁に登場するようになる。逃げ出したいような、叫びだしたいような、でもそんなことはしたくないような、諦念がうっすらとただよう歌が多くて胸が痛んだ。しかしながら、わたしたちの生活は実際には、絶望だけではない。思わず笑ってしまうようなこともあれば、都会では感じられないような地味な日常の中での喜びもある。そのことがこの連作にひかりを与え、より深みのあるものにしているのではないだろうか。「きみ」とこの場所で滅んでいく、それもある意味ではしあわせなことなのかもしれない。
主体の痛みや絶望、その中でのひかり。そういったものを感じ取ることができる連作だった。タイトルは「ココア週間」。この連作は、未来への希望を信じているのかもしれない。
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