「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評⑬ 柳本々々から中家菜津子「離さないで」へ

2017-11-04 13:22:03 | 短歌相互評

 

Never Let Me Go(離さないで)   中家菜津子 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-10-07-18775.html

 

キャシーのために  柳本々々

 

中家さんの連作タイトルは「離さないで」。詞書にも「お前はほんとうの花ではないこと」と書かれているがこれはカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のオリジナルとコピーのテーマを想起させる。

 飽食の時代の宝飾店のカフェ グレーのスーツの男ばかりだ

「飽食」=「宝飾」の時代という表面的な価値観があふれる世界に、色をうしなった「グレーのスーツの男ばかり」がコピーのように現れる。

そういう世界のなかで、《離さないで》と訴えかけることはどのような力と無力をもつのだろう。

 ringoって書いてあるから林檎だとわかる真っ赤な〇の記号は

 無意識に選んでいるんだ、炭酸の気泡の音か雨の音かを

ひとつは、微細な眼と耳の感覚をもつことだ。語り手は、「ringo」と「林檎」の差異に注目からそこからそのリンゴが「○」に結びついていくプロセスに注目している(ちなみに「○」は中家さんのひとつのテーマとなっている。○は、生へのうずきだ。参照:歌集『うずく、まる』)。または「無意識」の「音」が、意識上の「炭酸の気泡の音か雨の音か」に分別されてゆくそのプロセスを意識化しなおしている。

これは、微細な意識のひだにわけいっていくことである。無意識と意識の往還をたどるように意識しなおしながら、〈わたし〉の認知がうまれる現場を歌にする。それはわたしが〈そのようにして〉世界とむきあっていたことの小さな〈証拠〉になるはずだ。

カズオ・イシグロの語り口の特徴は、それがたとえ信頼できなかったとしても、ミスリードにあふれていたとしても、〈想起〉にあるが、その物語としての〈長い想起〉とは、認知がたえず波のようにあらわれる現場そのものでもある。

 火葬なら灰があなたの体温と同じになれる瞬間がある

灰とあなたは「同じ」になってしまう瞬間があるが、しかしその「同じ」になる瞬間そのものを〈わたし〉は認知として意識している。
 
 かさねられ母音に打ち消される子音 異国の言葉で囁いていて

かさねられ〈同じ〉にかきけされようとしても、わたしは「異国の言葉」としての声をもとめる。

離さないで、とはそうした認知のひだを言葉をとおして〈生まれ直す〉ことなのではないか。

わたしたちは、語り直し、生まれ直すのだ。たえず。『わたしを離さないで』のキャシーのように。わたしが・わたしを・離さないために。


短歌相互評⑫ 中家菜津子から柳本々々「ようす」へ

2017-11-04 06:47:07 | 短歌相互評


短歌作品  柳本々々「ようす」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-10-07-18782.html

評者 中家菜津子


あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

 

馬場さんは、愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた。肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたものが愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。

 

でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね。こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりとあめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。

 

いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす

 

 

*

 

ようす。短歌だけれど。こんな風に読めた。呼んだのかもしれない。韻文を意味の上では散文として。だけどリズムはうたうように。

 

*

 

馬場さんへ

馬場さんのことは、知らないんだけど。馬場さんのことをよく知ってる人がいて。その人を通じてあなたを知ってる。だって、わたしは知らない。誰かが愛をどんなものだと思っているかなんて。あれ、知ってた、わたしの好きな作家は、「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」って言ってた。でもそれは、直接聞いたからじゃなくて、読んだから知ってるんだよ。恋人が愛をどんなものに例えるか思いつかない。それなのに、馬場さんが愛とは牛肉のかたまりのようなものって思っていたのを、この人は知ってるんだから、馬場さんのこと、とてもよく気にかけてる。過去形だから今は、そうは思っていないことまで知ってるんだ。なんだか。羨ましいな。

馬場さんの思っていた愛は、触れるものだから、体感としてわかりやすいな。存在からポエジーが発生するとき、発生したポエジーをメタファーで書きとめる方法と、存在そのものを書きとめる方法があって、他にもあるけど、短歌は後者を武器としていて。ここでは、ポエジーのメタファーとしての肉。でも目の前に確かに存在しているような生々しい肉。かたまりを二回強調して、部位までいったからかな。その表現が面白くて噛みしめた。わかるよ、肉感的な、あ、的じゃなくて肉そのもののか。質量やなまみの感じ。時間と空間を占める密度。ゴーギャンのハムの絵みたいだな。アガペーとエロスで言うならエロス。「血がしたたるような。」は肉にも。はなにもかかっていて。きっと薔薇なんじゃないだろうか。はなの内部は裏返った肉体そのものかもしれない、存在することへの狂おしい希求を感じるよ。でも、馬場さんは、今はちがうんだよね。そのことをこの人も知ってる。

 

馬場さん、この人にとって愛は、バケツいっぱいのあめ玉みたいなんだね。きっと、かたまりの肉と対比された、この人のあめ玉はさ、アガペーなんだよ。「こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。」すごく丁寧でうつくしいと思った。肉塊は存在の結果なんだけど、あめ玉は誰かがつくったものだからかな。精神の結果みたいな。小学生のころ、机にあめ玉をつめこんだ少女は、馬場さんにあめ玉をくれたんだね。与える愛を馬場さんももらったんだね。

白波多カミンの曲に「あめ玉」って歌があってね。「綺麗な空から爆弾をふらせる金があるのなら綺麗な空からあめ玉を降らせたら素敵だね。今日きみがくれたまるいあめ玉を舌の上で転がしてそんな風におもったんだ。色とりどりのあめ玉が見上げた空から降ってきたらいつもは、なかなか話せないあのこともなんだか笑いあえそうさ」っていう歌詞なの。いや、好きだから引用しただけなんだけど。やっぱり、あめ玉ってアガペーだと思う。

 

*

 

短歌を散文化して読んでみて。そのように読むことをこの連作は求めているから。でも作品は小説ではなく短歌なのだから、主体から見た「馬場さん」を見ているのが読者である私自身になる。もし小説なら主体、ここでいう「この人」のことは意識しない。だから馬場さんに宛てたこんな手紙の形式も、感想のかたちとしてはいいのだろう。けれど、友人の歌に差し掛かって思う。短歌は一首完結だ。小説なら起承転結があるが、馬場さんとあめ玉の小学生と友人は直接的に関係がなくてもいい。あめ玉という連作の中で主体の意識のなかでゆるやかにつながっている。

 

*

「友人」へ

 あなたとこの人を、あわせて「わたしたち」と呼ぶとき、不確定要素ばかりの未来で、あなたは無意識に一緒に歩いていくことを決めているんだ。投げかけられた言葉の先に、この人が存在する。それがあなたの歩いている道だ。この人は、なにか答えただろうか、答えるかわりに、あなたのことをよく見ている、あなたのようすを。あなたが未来へ眼差しをおくるとき、この人は、現在を見ている。それがあなたたちの歩き方だ。

とりこまれない、石のように硬いあめ玉。それはまだ物質だ。ずっとかもしれないし。愛にかわるかもしれないし。愛から物質にもどったのかもしれない。またとりこまれるのかもしれない。そのようすも。このひとはきっと見ている。

 

*

あなたへ

ここまで読んできて、最初の「あなた」へかえってみる。

あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

このひとは。先手をとらない。ずっとようすをみていて、あなたの核心をとらえたから

動きだすんだ。

 

*

この散文を書いている途中で、電話したんだ。「好きなものを好きでいると、最近余裕がなくて、自分を好きになれないって。」って。その人は笑っていた。「それでも、もう、根っから自分のこと十分好きだから、好きなものを好きでいて大丈夫だよ」って。知らないうちに愛も蓄積されていて、無意識の肯定感で自分を守ってくれてるのかな。これも関係ない話。

愛とは。なに?

 

 

最後に短歌を短歌の形に戻してあげなくては。窮屈だったでしょ、ごめんね。

 

*

 

ようす

 

あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく

 

馬場さんは愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた

 

肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたもの

 

が愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。

 

でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね

 

こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの

 

からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりと

 

あめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。

 

いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。

 

あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす