短歌作品 柳本々々「ようす」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-10-07-18782.html
評者 中家菜津子
あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく
馬場さんは、愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた。肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたものが愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。
でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね。こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりとあめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。
いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす
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ようす。短歌だけれど。こんな風に読めた。呼んだのかもしれない。韻文を意味の上では散文として。だけどリズムはうたうように。
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馬場さんへ
馬場さんのことは、知らないんだけど。馬場さんのことをよく知ってる人がいて。その人を通じてあなたを知ってる。だって、わたしは知らない。誰かが愛をどんなものだと思っているかなんて。あれ、知ってた、わたしの好きな作家は、「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」って言ってた。でもそれは、直接聞いたからじゃなくて、読んだから知ってるんだよ。恋人が愛をどんなものに例えるか思いつかない。それなのに、馬場さんが愛とは牛肉のかたまりのようなものって思っていたのを、この人は知ってるんだから、馬場さんのこと、とてもよく気にかけてる。過去形だから今は、そうは思っていないことまで知ってるんだ。なんだか。羨ましいな。
馬場さんの思っていた愛は、触れるものだから、体感としてわかりやすいな。存在からポエジーが発生するとき、発生したポエジーをメタファーで書きとめる方法と、存在そのものを書きとめる方法があって、他にもあるけど、短歌は後者を武器としていて。ここでは、ポエジーのメタファーとしての肉。でも目の前に確かに存在しているような生々しい肉。かたまりを二回強調して、部位までいったからかな。その表現が面白くて噛みしめた。わかるよ、肉感的な、あ、的じゃなくて肉そのもののか。質量やなまみの感じ。時間と空間を占める密度。ゴーギャンのハムの絵みたいだな。アガペーとエロスで言うならエロス。「血がしたたるような。」は肉にも。はなにもかかっていて。きっと薔薇なんじゃないだろうか。はなの内部は裏返った肉体そのものかもしれない、存在することへの狂おしい希求を感じるよ。でも、馬場さんは、今はちがうんだよね。そのことをこの人も知ってる。
馬場さん、この人にとって愛は、バケツいっぱいのあめ玉みたいなんだね。きっと、かたまりの肉と対比された、この人のあめ玉はさ、アガペーなんだよ。「こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの。からだにとりこむような。」すごく丁寧でうつくしいと思った。肉塊は存在の結果なんだけど、あめ玉は誰かがつくったものだからかな。精神の結果みたいな。小学生のころ、机にあめ玉をつめこんだ少女は、馬場さんにあめ玉をくれたんだね。与える愛を馬場さんももらったんだね。
白波多カミンの曲に「あめ玉」って歌があってね。「綺麗な空から爆弾をふらせる金があるのなら綺麗な空からあめ玉を降らせたら素敵だね。今日きみがくれたまるいあめ玉を舌の上で転がしてそんな風におもったんだ。色とりどりのあめ玉が見上げた空から降ってきたらいつもは、なかなか話せないあのこともなんだか笑いあえそうさ」っていう歌詞なの。いや、好きだから引用しただけなんだけど。やっぱり、あめ玉ってアガペーだと思う。
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短歌を散文化して読んでみて。そのように読むことをこの連作は求めているから。でも作品は小説ではなく短歌なのだから、主体から見た「馬場さん」を見ているのが読者である私自身になる。もし小説なら主体、ここでいう「この人」のことは意識しない。だから馬場さんに宛てたこんな手紙の形式も、感想のかたちとしてはいいのだろう。けれど、友人の歌に差し掛かって思う。短歌は一首完結だ。小説なら起承転結があるが、馬場さんとあめ玉の小学生と友人は直接的に関係がなくてもいい。あめ玉という連作の中で主体の意識のなかでゆるやかにつながっている。
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「友人」へ
あなたとこの人を、あわせて「わたしたち」と呼ぶとき、不確定要素ばかりの未来で、あなたは無意識に一緒に歩いていくことを決めているんだ。投げかけられた言葉の先に、この人が存在する。それがあなたの歩いている道だ。この人は、なにか答えただろうか、答えるかわりに、あなたのことをよく見ている、あなたのようすを。あなたが未来へ眼差しをおくるとき、この人は、現在を見ている。それがあなたたちの歩き方だ。
とりこまれない、石のように硬いあめ玉。それはまだ物質だ。ずっとかもしれないし。愛にかわるかもしれないし。愛から物質にもどったのかもしれない。またとりこまれるのかもしれない。そのようすも。このひとはきっと見ている。
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あなたへ
ここまで読んできて、最初の「あなた」へかえってみる。
あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく
このひとは。先手をとらない。ずっとようすをみていて、あなたの核心をとらえたから
動きだすんだ。
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この散文を書いている途中で、電話したんだ。「好きなものを好きでいると、最近余裕がなくて、自分を好きになれないって。」って。その人は笑っていた。「それでも、もう、根っから自分のこと十分好きだから、好きなものを好きでいて大丈夫だよ」って。知らないうちに愛も蓄積されていて、無意識の肯定感で自分を守ってくれてるのかな。これも関係ない話。
愛とは。なに?
最後に短歌を短歌の形に戻してあげなくては。窮屈だったでしょ、ごめんね。
*
ようす
あなたにはあなたの大事にするものがあるという話をきいてからうごく
馬場さんは愛とは牛肉のかたまりのようなものかとおもっていた
肩ロースのかたまりとかなんとか。そういうごろごろっとしたもの
が愛だとおもっていた。血がしたたるような。はなが舞っているなあ。
でも、バケツいっぱいのあめ玉のような愛もあるのかもしれないね
こまかくわけられて、まるみをおびた、邪気のない、時間をかけたもの
からだにとりこむような。小学生のころ、隣の席の女の子が机にぎっしりと
あめ玉をつめこんでいた。馬場さんはそれをもらったことがある。
いったいわたしたちどう歩いていけばいいのかな、と友人が言っている。
あめ玉はなめなければ、石のように固いね、と友人がいう。ようす