「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第129回 悦子の部屋にいくぞ 柳本々々

2017-08-02 13:24:06 | 短歌時評

小津夜景×関悦史「悦子の部屋」イベントを聴いてきた。下北沢のB&Bは思い出の場所で、わたしは三年前はじめてこの本屋のイベントで、西原天気さんや田島健一さんや鴇田智哉さんや宮本佳世乃さんに(一方的に)お会いした(そのころは、こそこそしていたので)。このときおもったのは、あえるひとにはあえるのではないかということだ。わたしはこのほんやで、会える哲学のようなものを教わった。そのころそれを夜景さんに話したが、まさか三年くらいたって夜景さんがそこでトークショーをすることになるとは、と思った。けっきょくわたしはこんかいのイベントで三年前とおなじ位置のおなじ椅子にすわった。わたしはけものか、と思ったが、なにかふあんなことがあるたびにドラム式洗濯機のうえから動かなくなる猫のきもちがなんとなくわかった。やぎもと・とまと…。

イベントで心に残った夜景さんの言葉(「ふわふわしてるが深刻」「前衛様式になると…」は関悦史さんの言葉。ちなみに私が当日速記でノートに走り書きしたものなので、夜景さんや関さんの本意とずれている場合があります)。

「賞のときはパーソナリティーを出す。句集の時は完成度をあげる」

「詩は立つことだけが価値ではない」

「前衛様式になるとどうしても自由律の俺が俺がになる場合がある」

「ある年を過ぎると自分自分はもういいと思う」

「ふわふわしてるが深刻」

「書いた以上のことは考えてないからわからない」

「空き家も建築であることによって構造からは逃げられていない」

「子音は痕跡としてからだにのこる」

「B級要素が私には必要だと思った」

「屹立が許される年齢がある」

「フラワーズ・カンフーという連作は女子高生として詠んでいる」

「けっこう吟行してる」

「ぷるんぷるんの句は写生句。はじめて俳句をおもしろいなと思えた句」

「フランスに住むようになってわからない言葉の中でゆったりしていられるようになった」

 

     ※

 短歌をつくる人間として、定型にかんしてこのイベントをとおしておもったことを書いてみよう。

フランス語の中で暮らしていて、わからない言葉のなかでもゆったりできるようになった」という夜景さんの言葉が印象的だったのだが、短詩=定型ってそもそもそういう〈ちょっとやそっとわからない言葉があっても動じない耐性を身につける〉ようなとこがあるのではないか

大事なのは、わかる/わからないには実は階層なんてない事だ。本当は意味生成はその二つを往還しサイクルする。岩松了の言葉を思い出そう。「わかりたいとは人間誰しも思うわけです。思うわけですが、『わかる』ということが『わからない』ということに勝るとは、ゆめゆめ思って欲しくない、と私は思うわけです

鶴見俊輔は「ハクスリーの『ルダンの悪魔』では、突然「天啓を受けた」と言って、みんなが見ている前で弟の首を切ってしまう。人間にはそういう衝動につき動かされるというものがあって、その歴史が繰り返されている」と述べたが、これも「わかる/わからない」の二項対立を超えたものだ。超わかると超わからないの拮抗というか。それを小津夜景はフランスという異言語をとおして、生の文法や語法として、学んだ。小津夜景にとってフランスとは言語認知がテーマ化される場所でもあったのだ。

定型詩は、よく口のきもちよさのようなことが言われるけれど、わからないことのきもちよさときもちわるさの原っぱを腹ばいですすんでいくようなところもあるのではないか。そうしてね、ずっとそのわかる/わからないの階梯を考えていく。どこでその「/」が揺れ動くかを臨床してゆく。定型詩人は、ことばの臨床医になる。みじかいことばで。