(1)はじめに
俳句実作者である筆者の短歌国探訪記の今回が4回中の2回目となる。
前回、短歌と俳句の違いとその理由について思うところを「短歌評 俳句の国から短歌国探訪(1)短歌は若者の器か」として書いた。
その要点を纏める。
(短歌に関して)
1. 「31文字」は日本人にとって「マジックナンバー」であり、恋に限らず何物かを伸びやかに歌うのに過不足がない。
2. 鬱屈した熱き思いを抱く若者がその思いを伸びやかに開放する、短歌はそれを受け止める器として最も相応しい青春の詩文学である。
3. 現在の若手世代のライトバース、ニューウェーヴの洗礼を受けた短歌世界では描かれる世界は軽い。ライトバースは軽妙な内容の文学にこそ合う。盛り付けるものが軽いものであれば、盛り付ける器も軽いものを選ばねばならぬ。
4. 短歌が口語化したのはライトバース化との連動があったからこそである。短歌の描く世界が軽くなったからである。軽い世界を殊更に軽く描く。それが若者に歓迎された。言葉を尽くせる短歌は内容が軽くとも力で読ませることができる。ライトバースは短歌に適する。
5. 日本が続き、そこに若者がいる限り、短歌の未来は決して暗くはない。
6. 日本人であるならば全ての詩人は短歌を詠める筈である。短歌を歌わない手はない。
(俳句に関して)
1. 有季定型伝統俳句は俳句の一ジャンルに過ぎない。現代俳句のウイングはもっともっと広い。
2. 角川「俳句」は初心者向けの俳句入門書であり、これを手引きにしたのでは俳句の重要な流れを見落としてしまう。
3. 「一読分かる俳句が良い俳句」ではない。読解力を必要とする良い俳句は存在する。
4. 俳句は伸びやかに歌うことのできない鬱屈した奇矯の文学型式である。
5. 満たされない中にこそ充足を感じようとする俳句、それは侘びの精神的支柱を持ってして初めて成った。伸びやかに歌えないのではなく、伸びやかに歌わない、そこにこそ俳句の美学がある。俳句は内省的な文学である。
6. 鬱屈した若者に鬱屈した詩形式は合わない。抑制的に歌うことを運命付けられた俳句は若者の熱狂を呼べない。
7. この窮屈な俳句美学を理解し愛するためには、ある程度人生を生きる必要がある。斯して俳句は老成の文学化する。
8. 大方の俳句はライトバース化していない。抑制的な老成文学であるという俳句の特性にライトバースは馴染まない。言葉を尽くせない俳句でさらに内容が軽くなると目も当てられない。
前回、なぜ自分は俳句を書くが短歌を書かないかの理由を省みた。現在の短歌シーンの有り様に共感できないからである。ただ、歌人が俳句シーンに対してその中央値しか見えないように、俳人である筆者も短歌シーンに対しても同じであろう。
(2)穂村短歌
その現在の短歌の中央値として今回は穂村弘短歌を採り上げる。穂村は短歌界では知らぬ者もいないほどの人気ぶりだが、筆者の短歌の知識は高校までの教科書止まりであったから、申し訳ないことに短歌を勉強するまで筆者は知らなかった。「ダ・ヴィンチ」も読まないので穂村の人気コーナー「短歌ください」もついぞ知らなかった。
今回、彼の第一歌集『シンジケート』を読んだ。それに加えて、歌人の山田航が穂村短歌50首を選んで鑑賞した『世界中が夕焼け』を参考にした。本書は、もともと山田が自身のブログ「穂村弘百首鑑賞」で鑑賞した100首から50首を厳選して書籍化したものである。本書中で、山田の鑑賞に穂村がさらにコメントを寄せるという輪環構造を持っているのが興味深い。鑑賞に対するコメントという形を取っているものの、自歌自註になっている。あとがきで穂村自身が用心深く語っているように、自歌自註は面白くならないことが多いが、穂村がどのような作家態度(の表明)で作品を世に出しているのかという参考にはなろう。
穂村弘は平成最大の歌人だ。穂村弘以前・以後とすら言えるほど、現代短歌に与えた影響は大きい。どんなかたちであれ、穂村弘の磁場を離れて存在している現代歌人はいない。第一歌集『シンジケート』は、もはや古典と呼べる一冊だ。
これは山田の巻頭文である。のっけからかなりの持ち上げ方である。穂村が革命的な歌人であり、短歌の啓蒙者として現代をリードしている現状を述べている。本書は、上述のような経緯で誕生したため、書籍化する意図もなく、一ファンとして山田が穂村短歌を鑑賞したものであり、穂村短歌言祝ぎの書である。山田には穂村短歌へのリスペクトとともに愛が溢れている。ただし、そのためどうしても彼の歌を批評的に鑑賞することはできていない。穂村短歌の一つの重要な特色が「露悪的」であるにもかかわらず露悪的に鑑賞することができない。ファンによる作品鑑賞は得てしてこうなる。
今回、筆者はことさら「露悪的」な読みを穂村短歌に施そうという意図というよりは、山田の読みの足りない部分を補完する読みを心掛けた。
(3)<降りますランプ>に取り囲まれて
終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
この歌が『世界中が夕焼け』の冒頭に置かれている。本歌に対して山田は「人口に膾炙した代表的な一首。甘やかな相聞歌である。」とした上で、額田王の<あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る>のイメージを重ねている、とする。そして、「終バスは、この先どこに行くのかわからないふたりの未来を暗示している。年の中に一瞬生まれた幻想空間のなかでふたりは逃避するように眠るのだ」と鑑賞している。
フィクションは短歌にとってお手の物だが、これもフィクションの恋愛想望歌である。短歌は演劇の舞台設定を描くことに昔から長けている。本歌のこの2人は<降りますランプ>を押すこともなく終点まで静かに眠り続けることであろう。つまり、本歌は「終バス」で「終点」に向かう愛の形を描いている。山田は逃避愛のように読み込んでいるが、「終」が逆に成就することのない恋愛を暗示する。いや、そもそも終点もない行き先もないマボロシのバス。寒色系の「紫」もそれを暗示する。古代貴重な「紫」は富貴の象徴であったかもしれないが、紫が貴重でもなくなった現在、額田王の「紫」と穂村の「紫」は同列ではなく、穂村は「紫」のマイナスのイメージの寒々しさを強調する。
終バスにふたりは眠るバラ色の<降りますランプ>に取り囲まれて
なら歌の雰囲気はガラリと変わる。
本歌は「甘やかな相聞歌」なのではなく、漱石の『それから』のように、祝福されない、成就もしない哀歌なのである。見た目の美しさに惑わされてはならない。穂村短歌は見た目ほど「甘」くない。穂村が額田王の歌を本歌取として作ったようにも筆者には思えないが、ともあれ、本歌は洒落た歌である。
穂村はこのような歌が作れるものの、彼の中ではセンターではない。穂村の短歌は多面的である。次に見るような歌にこそ彼の真骨頂がある。
(4)シンジケートをつくろうよ
子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
第一歌集『シンジケート』の題名にもなった歌。本歌に対しての山田の次のような鑑賞は天真爛漫過ぎる。これは山田の穂村短歌鑑賞の瑕疵が分かりやすい形で表出したものである。
表題歌にもなっているこの歌で表明されているのは、家庭を持つことで自分たちの恋愛が社会性を帯びることの拒否である。これは『シンジケート』という歌集全体のペースに置かれているテーゼであり、己の存在が社会化してゆくことへの拒否と嫌悪の共同体こそがニューウエーブ短歌運動だったのかもしれない。
『世界中が夕焼け』で穂村はこの歌にこのようにコメントを寄せている。
「シンジケート」って言葉は妙ですよね。違う言葉でもありうると思うんだけどあまりポピュラーな言葉じゃないし、なぜここで「シンジケート」だったのか、わからないですね、今となっては。「壁に向かって手をあげなさい」っていうのは、まあ、「FBIだ。壁に向かって手をあげろ」みたいなイメージなんだろうけど、でも、必ずしも接続しているわけじゃないよね。ホールドアップの場面でもないわけだから、なぜ下の句でそうなのか。だから、意外とこれわかんないね、自分でも。この歌は歌集を作る時、落とそうとしたんです。(中略)林あまりさんに原稿を見せたときに、それを入れなきゃダメだと言われて。そのとき、「悪い歌が歌集に入ることより、いい歌を落とすことを恐れなさい」って言われて納得しました。僕もそのあとは、誰か新人にアドバイスを求められると、「誰かに一度でも引用された歌は全部入れるように」ってふうに言ってます。でも、タイトルの歌って絶対タイトルの歌だって思って読まれるに決まってるから、それが気にいらないっていうのは、ちょっと嫌なことなんですよね。ただ、どの歌が注目されて人に知られていくかは、作者も選ぶことができないので。選ばれている、みんながよく知っている歌が必ずしも好きな歌ってわけじゃないですよね。この歌は本当は好きじゃないですね。好きじゃなかったから落とそうとしたんです。でも、誰かに引用されるとか、取り上げられると褒められるって、すごく「選べない」ことなんだよね。
作者はこの歌の成立過程に関しては覚えていないと口を濁しているため、筆者が代わりに穂村弘のなりきりで語ろう。
テレビドラマなんかでFBIが相手に向かって「壁に向かって手をあげろ!」なんて言って壁に手をつけさせて相手を捕縛する。そんなシーンってよくありますよね。でもこの行為って、壁に手をつけさせて女性と後背位で交わろうとする男の行為、そのものでもありますよね。「壁に手をついて」とか言ったりして。その際、ギャングめかして(ギャグめかして)「壁に向かって手をあげろ」と女性の耳元で囁いたりする。「死にたくなければ俺の言う通りにしろ」とか言ってね。セックスって本来なら子供を作ることにつながる行為だけど、子供ができちゃ困るケースでのセックスの方が実際には多いわけです。だから「子供をつくろうよ」なんて言いながらすることはないし、じゃ何をつくるために俺たちやってるの?って思ったりもするわけです。で、ここはごっこ遊びのていで、実際に痴戯にはそんな側面ありますよね、壁に向かって手をついて、これからやる儀式は子供をつくるためのもんなんかじゃなくて、我々二人が秘密結社(シンジケート)をつくるための儀式なんだよ、って感じの歌にしたかった。「子供(なんかつくるより)よりシンジケートをつくろうよ」ってね。でもこの歌の発表後に、この歌の持つ生々しさというか、露悪的なところが自分では鼻について最初は歌集の初稿では落としたんです。でも、他の方の短歌評を読むと、意外にもこの歌のそういう側面に触れられずに読まれているんですよね。気づいてて好意的に気づかないふりをしてくれているだけかもしれないんですが。山田さんも林あまりさんもそうは読んでいない。なので、林さんにも言われたことだし、ということで歌集に入れました。愛着のない歌だったわけじゃなかったから、歌集の題名にもしたんです。
自歌(自作)自註で作者が真実を語るとは限らないことは銘記すべきである。
「この歌は歌集を作る時、落とそうとしたんです。(中略)林あまりさんに原稿を見せたときに、それを入れなきゃダメだと言われて。そのとき、「悪い歌が歌集に入ることより、いい歌を落とすことを恐れなさい」って言われて納得しました。」と穂村が言っている下りは、間接的ではあるが明瞭に、穂村自身この歌が「いい歌」であるということを自覚していたことを示す(こう言う風に間接的に自歌を褒める穂村さんて素敵、笑)。詰まるところ、この歌は自信作であったのだが、当初歌集の草稿からは落としていたのだ、ということを彼自身が語っている。自信作であるとわかっていながら落とさざるを得なかった理由として、穂村がこの歌に対して迷いを持っていたことが示される。それは他人の評価である。自信作が世に認められるとは限らない。筆者なぞは、本歌は穂村を語る代名詞にしてもいいと思うくらい銘品であると思うのだが、当の穂村はこの句のポルノグラフィックなところに躊躇いがあり当初は除いていた節がある。この歌が含んでいる毒を考えれば、読み手から嫌悪される可能性だって十分にあった。こう言う毒のある歌が好きな読者もいるだろうが、無難な路線を行くのが大人の選択である。穂村が目指す短歌は、現代の「大衆による、大衆のための、大衆の歌」であるところの流行歌なのだから。
(5)朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉
女の腹なぐり続けて夏のあさ朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉
本歌も『世界中が夕焼け』の50首鑑賞に採り上げられている。実は上掲の《子供より……》は『世界中が夕焼け』の見出し50首には含まれておらず、本歌の解説の中で引用という形で鑑賞されている。つまり、残念ながら山田は《子供より……》に関しての本質を理解せず、表面的な露悪さで分かりやすい本歌を採ってしまった形だ。本歌に関しての山田の鑑賞は次のよう。
女の腹をなぐり続けるのは、おそらくは堕胎させようとしているのだろう。そして自分に子供ができるということへの嫌悪感から吐き気を覚え、元気に向かって吐く。そのときに見えたのが黄緑の玉。便器に消臭剤として転がっている樟脳のことである。嗅覚に訴えかけることで作中主体のどうしようもない嫌悪感が伝わってくるのである。
男性は小便も精液も同じ陰茎から出す。樟脳の玉が転がる便器に用を足していて、腹をなぐり続けた彼女のお腹の中に放出したかつての自分の精液を思い出し、その原因を作った自分に怒り「自己嫌悪」に陥る。山田の解釈の「嫌悪」が「自己嫌悪」を指しているのかは曖昧である。加えて「黄緑の玉」が睾丸の隠喩であることも指摘しておかねばなるまい。これも「女」の妊娠を想起させる仕掛けである。
このような筆者の鑑賞は深読み、穿ち過ぎの類ではない。穂村自身からしたらこのような読みを誘う仕掛けを鏤めて作っている。それを誘うところが穂村短歌である。軽佻浮薄なライトな穂村短歌のイメージがあるとしたらそれは、世界戦略を目論む穂村が戦略的に作りだしているイメージであり(大衆による大衆のための大衆の歌)、穂村短歌の本質はずっと深いところにある。穂村短歌を侮ってはいけない。
体温計加えて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
「猫投げるくらいがなによ本気出して怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
「耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ」
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル
ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり
夜のあちこちでTAXIがドア開く飛び発つかぶと虫の真似して
筆者はこのような機知で読ませるライトな歌は好きではない。この手の歌はその時代の風潮に乗りいっときは持て囃されるかもしれないが、その分廃れるのも早い。ただ、穂村短歌に1986年にスポットが当たってからすでに30年経ったものの、彼の短歌は未だに短歌界のセンターに君臨し続けている。彼の短歌は古びないのか。全ての芸術作品を後世に受け渡すだけのキャパシティーを人類は有していない。時間は厳しく(偶然も加味されて)芸術作品を濾し取って作品を古典とする。穂村短歌が山田の言うように古典になるのか(なったとは言うのは早計である)、それとも一時代の徒花、とまでは言わなくとも一時代を画した作風として総括されるものに終わるのか、今は分からない。
詩歌の古典は人(短歌に関しては日本人)に愛誦され続けられるものの謂である。この人とは一般人のことである。一般人が愛誦したくなるような短歌とは何か。それを考えるに、「子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」」が100年先に愛誦歌が足り得ているとは筆者には思えない。山田航はそこまで深くは考えずに「歌人ための古典」というくらいの意味で「古典」という言葉を使ったのであろうか。穂村の露悪的なところのない(の見えない)繊細な叙情歌だけがもし古典たり得たとしても当の穂村自身は少しも譽れには感じないだろう。俵万智のセンターの歌は古典となり、穂村弘のセンターの歌は古典とならないとしてもそれは仕方ない。
先鋭的な歌人は一般人が古典と思う歌をつくることを目指している訳ではないし、先鋭的な詩歌は一般人が受け入れられないことの方が多い。吉岡実は詩人にとっては超超有名な一流詩人であるが、彼の作品は未だに一般人にとっての古典ではない。恐らくこの先も。しかし、吉岡を知る人間には吉岡は至宝である。穂村の歌が玄人好みの歌であるかと問われれば、筆者にはそう思える。モーツァルトの「素人も喜び、玄人も唸らせる」と同様な作品づくりを穂村に感じる。
(6)「十二階かんむり売り場でございます」
「十二階かんむり売り場でございます」月のあかりの屋上に出る
『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』収録。本歌も『世界中が夕焼け』から。山田も穂村も触れていないが、種明かしをすれば、これはかの「冠位十二階」から思いついた短歌である。冠位十二階は、日本で604年に制定された日本で初めての冠位・位階であり、朝廷に仕える臣下を12の等級に分けた。「冠位十二階」「十二階冠位」「十二階冠売り場」となる。言葉遊び、筆者はこのようなタイプの言葉遊びをヒントにできた作品は嫌いではない。本歌は馬鹿馬鹿しいと言えばそうかもしれないが、単なる言葉遊びに終わらないしっとりした叙情を湛えている。下記の歌も叙情歌である。
抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと
孵るものなしと知ってもほおずきの混沌(カオス)を揉めば暗き海鳴り
「水銀のごと」が儚くも怪しい。「暗き海鳴り」と歌の陰影の冥さをます。今更、天真爛漫に多幸的な叙情歌を歌ってどうすんの的なふてぶてしさは穂村のポリシーでもある。
(7)終わりに
穂村短歌が一筋縄ではいかないことはごく僅かな例を引くことによってすら、明瞭に理解できる。理知的なイロニカルな叙情性の万華鏡としての穂村の歌は現代性を短歌にどのように持ち込めば良いかというテクニカルな豊富な実例を歌人に示している。これに触発されて次々の多様な穂村チルドレンが誕生したことを筆者はいとも簡単に信じられるのである。
俳句界には穂村のように俳句の革新に向けてマスメディアを通じてマルチにカリスマ的に影響力を発信し続けている若手俳人はいない(ある程度年齢が行っている「若手」も含め)。それは、前回の「短歌は若者の器か」に書かせていただいた俳句と短歌の本質的な差異によるところが大であろう。短歌が若手の歌であるからこそ若手の騎手も容易に現れる。一方、俳句ではなかなかにそうはいかない。ただ、戦中戦後の若手俳人による俳句の革新がなされたことを思い出すならば、俳句にそのような負の特性はあるとしても、やはり革新は常に若手から起こることは俳句に関しても間違ってはいないであろう。穂村短歌が俳人に与うる啓示があるとしたら、それはこの仮説を支持するものになるであろう。